東京都現代美術館で、シンガポールを拠点に活動するアーティストの個展、「ホー・ツーニェン エージェントのA」が開催されている。会期は4月6日〜7月7日。
資料や言説を参照しながら、東南アジアの思想や歴史にもとづいた映像やヴィデオ・インスタレーション、パフォーマンスを発表してきたホー・ツーニェン(1976〜)。国際的にも注目されている作家のひとりであり、2011年には第54回ヴェネチア・ビエンナーレのシンガポール館の代表を務めた。日本でも東京都現代美術館のグループ展などでの作品発表に加え、「あいちトリエンナーレ2019」の《旅館アポリア》(2019)、山口情報芸術センター[YCAM]での「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」(2021)、豊田市美術館での「百鬼夜行」(2021)など個展や新作発表の機会がつづき、国内で大きな話題を呼んできた。
今回は聞き手にNPO法人芸術公社代表理事/アートプロデューサーの相馬千秋を招き、ホー・ツーニェンにインタビュー。最新作の《時間(タイム)のT》を中心に、京都学派への関心からスタートした日本をテーマとするプロジェクト、他者の歴史にアクセスする難しさや権力のあり方にまで話が及んだ。【Tokyo Art Beat】
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──今回は、2015年のグループ展「他人の時間」につづく、東京都現代美術館での2回目の展覧会ですね。「エージェントのA」は謎めいていて、ある意味で挑発的なタイトルに思えますがその由来はなんですか。
私にとって言葉はつねに複数の意味を持っています。まず、「エージェント」の考えられる意味のひとつは「スパイ」ですね。たとえば、《名のない人》(2015)は第二次世界大戦中、マラヤ共産党総書記を務めながら、イギリス、フランス、日本の三重スパイとして暗躍したライ・テクを主人公として取りあげています。彼は厄介なキャラクターですが、同時に歴史的な勢力の「媒体」でもあります。彼が仕えた3つの外国勢力は東南アジアを支配しようとした植民地主義的・帝国主義的勢力であったため、ライ・テクは複数のエージェンシーが通過する媒体になったと思います。だから彼を東南アジアの歴史を体現する存在としてとらえています。これはまた、私の作品に繰り返し登場する「変身」の概念につながります。たとえば、マレーの虎はしばしば変身のシンボルや祖霊と交信できる存在として見られています。
もうひとつはもちろん、自分の意思で行動するという意味での「エージェンシー」です。人間は単一のエージェンシーしか持たないと考えがちですが、ライ・テクのように複数のエージェンシーを持つことも可能です。エージェンシーを複数形でとらえていますが、それは私たちが複数で曖昧な、あるいは矛盾するエージェンシーや勢力の影響を受けざるを得ないからです。
──この展覧会は、2012年に開始したプロジェクト「東南アジアの批評辞典」のオンラインプラットフォーム《CDOSEA》(2017〜)、つまり「A」から始まっていますが、辞典的なスタイルと反復的な表現にはツーニェンさんの作家としてのこだわりや倫理観を感じます。網羅的かつ反復的であろうとする願望は、今回の新作にどのようにつながっていますか。
網羅的でありたい願望はつねに私の出発点でもあり目標でもあります。しかし、ほとんどの場合、プロジェクトに取り組んでいるうちに自分の時間と能力の限界に気づかされます。《時間(タイム)のT》(2023)のリサーチをするなかで、時間のコンセプトやポリティクスに関連するさまざまな学問分野を調べました。しかし、歴史から神話、宗教に至るまで、あらゆる学問分野が深く時間と結びついていて、すべてを網羅することは不可能であるという現実に直面しました。限界はまさに私たちの寿命であり、主観的で偶発的な立場なのです。制作中に徐々に感じてきたのは、《時間(タイム)のT》においても非常に重要な意味を持つはかなさと傷つきやすさの感覚でした。また、一見しただけではわからないかもしれないですが、これまでのプロジェクトの多くが似たような特質を持っていたことにも気づきました。
たとえば、《CDOSEA》の構造は、ある意味で百科事典的な野心、つまり「A」から「Z」まで網羅的でありたい願望を連想させます。しかし、仕込まれたアルゴリズムによって、「Z」のあとには必ず「A」が来ます。これは一直線の時間軸ではなく、反復することで違いが生まれてきくるループなのです。本作で私がどんな仮説や推測を提示したとしても、それはあくまで複数のうちのひとつのバージョンに過ぎません。
《時間(タイム)のT》に42章がありますが、私の制作時間がそこまでしかなかったからです。しかし、自分の限界に到達することも、このプロジェクトの大切なポイントでした。
──《時間(タイム)のT》のそれぞれの「タイムピース」の尺がほんの数秒のものもあれば、無限にループし続けるものもあり、かなり異なっていますね。「無限」は、ツーニェンさんが作品でも取り上げてきた京都学派の創始者・西田幾多郎の「虚無」の概念と結びついていますか。
異なる再生時間は関心のひとつでした。非常に短いクローズドループの「タイムピース」もあれば、動画ではなく24時間再生しつづけるアプリケーションもあります。実際には繰り返されないのでオープンループと言えるかもしれません。もちろん、美術館は18時に閉館しますが、誰もその場にいなくても、アプリケーションが作動し続けるようにしたかったです。
《時間(タイム)のT》は時間の多様性を探求する試みでした。また、私の主観的で偶発的な立場も時間の一形態であり、宗教的あるいは科学的な時間のモデルと同様に、現実的で具体的であることを確証するプロジェクトでもありました。作品をより客観的に見せるために作家の主観的な立場を隠すことがたまにありますね。《時間(タイム)のT》のスタートもそうでしたが、最終的に自分の時間、存在、限界、私という人間や私の思考に影響を与える周囲の人々との出会いと関わりについて考える作品にでき上がりました。つまり、作品に主観性をうまく折り込む、あるいは私的な経験を壮大な宇宙論的な時間の理論と同等に扱う方法をを見つけたかったのです。
私が道教と仏教の環境で育ったことと関係するかもしれないですが、おもしろいことに、「無限」よりも「虚無」や「空虚」といった概念のほうがよく思い浮かびます。西洋的な考え方では、「空虚」は欠乏と見なされることが多いですが、東洋哲学では潜在的な可能性があるものとして考えられます。そういう意味で「無限」とつながっていると思います。やはり、ゼロで割ると無限になるわけですから。しかし、「無限」は壮大すぎる気もしていて、「ゼロ」あるいは「空虚」という、相対的に控えめなもののほうが好きなのかもしれないです。
──「タイムピース」のキャプションを書いた日付と時刻も記載されているのですが、そこにひとつの展覧会に異なる時間軸を作り出そうとしている意図を感じました。美術館のホワイトキューブの壁に、正方形のスクリーンに映し出されたタイムピースが執拗に反復されることも挑発的ですね。
展覧会でテキストを目にするとき、美術館が制作したものだと思い込んでしまいますが、今回はキャプションを書いた日時を入れることで、私が著者であることを明確にしました。しかし、キャプションが書かれた瞬間をはっきりさせる行為はある種のはかなさを生み出し、これもまた個人的なもの、歴史的なもの、神話的なもの、あるい理論的なものが共存するような、時間の多様性を際立たせたテキストによく合うと思いました。
シンガポール美術館で開催された「Ho Tzu Nyen: Time & the Tiger 」(2023年11月24日~2024年3月3日)ではじめて《時間(タイム)のT》を展示したのですが、そのときは42のスクリーンは大きさや形がバラバラで、ひとつの壁に集中していました。そうすると、図表やマインドマップのように、各作品がどのようにリンクしているか読み取れやすいです。しかし、今回は同じ大きさのスクリーンに映し出されているので、すべてが同じように重要なのです。また、美術館の各所に「タイムピース」を分散させて、全体の空間がつながるように心がけました。そうすることで、過去の作品とも何らかのつながりが生まれると思いました。
──《旅館アポリア》(2019)や《百鬼夜行》(2021)といった過去の作品は、演劇的な演出も印象的でしたが、今回の展覧会は多くの観客にとって、これまでとは異なる新しい体験になると思います。声と音はあなたの作品に欠かせない要素ですが、今回はほとんど音がありません。今回の展覧会では、どのように演劇的な演出を避けて音にアプローチしたのでしょうか。
たしかに、自分の作品において演劇性はとても重要です。私にとって「演劇性」は観客の存在を意識することであり、そのため大音量、特に観客の身体に物理的な影響を与える低周波をよく使うかもしれません。しかし、《時間(タイム)のT》において「タイムピース」の無音の可能性に魅力を感じはじめました。
2部構成の作品ですが、第1部ではモニターに映し出される42個の「タイムピース」に私が書いたキャプションが添えられています。第2部は、それぞれの「タイムピース」を素材に、アルゴリズムが作り上げた複数の物語を上映するダブルチャンネルのビデオ・プロジェクションです。シンガポール美術館では「タイムピース」が完全に無音でしたが、今回は会場内の配置場所との関係や他の作品との関連を踏まえて、特定の「タイムピース」にとてもソフトなサウンドを盛り込んでみました。
──これもまた、観客とテキストとの間に異なる関係を生み出しますね。観客はモニターの視覚的な側面だけでなく、サウンドやキャプションにも注目し、それぞれを理解しようとします。
そうですね。迫力ある演出は観客を作品から引き離し、実際の空間にいる身体へと引きずり込みます。一方で無音は観客を迎え入れ、作品に吸い込まれるような空間を作り出す効果がありますね。
しばしば冗談や批評として、美術館に行くと、作品を見るよりもジャプションを読むことに時間を費やすと言います。《時間(タイム)のT》の場合、あえてすべての「タイムピース」にキャプションをつけました。そうすると、キャプションを読んでいる時間の方が作品を見るよりも長くなりますね。この時間は、展覧会のドラマツルギーにおいて非常に重要でした。個人で黙読されるテキストは、より膨大で、より強烈な映像作品と影響し合う存在になるからです。
──《旅館アポリア》(2019)、《ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声》(2021)、《百鬼夜行》(2021)はいわばも「日本三部作」とも言える連作で、日本のチームと何年も濃密なリサーチを行っています。「外からきた人(外国人)」として他者の歴史にアクセスすることの可能性と限界をどのようにとらえていますか。
2017年頃に京都学派のことを知り、日本の戦争中の歴史に興味を持ちはじめました。2018年にキュレーターのデイビット・テの誘いを受け、光州ビエンナーレでプロジェクトを立ち上げ、「外からきた人」つまり「アウトサイダー」の立場から複雑な歴史をどのように表現できるかについて考えはじめました。このプロジェクトは2日間にわたるパフォーマンスとグループ朗読などのイベント、いわゆる「日本三部作」の先駆けとも言える「京都スクール・プロジェクト」に発展しました。ライブ・パフォーマンスは戦後沖縄の基地に配属されていた米軍向けに放送されていたラジオ局にちなんで名づけられた即興音楽グループ、Far East Networkの即興演奏をフィーチャーしました。メンバーの国籍もバラバラで、日本の大友良英、中国のヤン・ジュン、シンガポールのユエン・チーワイ、韓国のリュウ・ハンキルから成り立っています。ほかに、ソウル出身のクラシック歌手であり実験音楽家でもあるパク・ミンヒを招き、戦時中に行われた4人の京都学派メンバーによる座談会のテキストを音楽に合わせて歌ってもらいました。もちろん、参加者のアジア主義的な背景もコンセプトの一部でした。私を含めて、全員が日本帝国主義によってつながった、あるいはシンクロした地域の出身者だったからです。さらに、学者やアーティストによる、京都学派やアジア主義に関する講演も行われたりして、とても特徴的なイベントだったと思います。
翌年にキュレーターの能勢陽子からの誘いで「あいちトリエンナーレ2019」のために新しい作品を作りはじめました。当初は京都学派を取り上げたかったのですが、まだまだ準備不足だと感じて、より広い社会的背景を理解するために視点を広げました。より広く日本の歴史上の人物に注目して、旅館の女将、特攻隊、プロパガンダのために東南アジアに派遣された映画監督の小津安二郎と漫画家の横山隆一、そして京都学派を取り上げました。《旅館アポリア》の制作中に重要になってきたのは、他者の歴史に触れるという倫理的かつ美学的な問題です。「何を語るべきか」よりも、「どのように語るべきか」とひたすら考えていました。また、「誰の声で語られるべきか」という対象者の立場も決定的でした。そのため、脚本は「モノローグ」ではなく、「ポリローグ」であるべきだと強く思いました。悩んだ末に《旅館アポリア》はキュレーターの能勢陽子、ドラマトゥルクの新井知行、翻訳アシスタントの鈴木一絵とのやりとりを通して、アウトサイダーとインサイダーが行き交う作品になりました。つまり、アウトサイダーである私とインフォーマントとなった日本人インサイダーとの間に構造的な循環が成立したのです。話は逸れますが、ピエル・パオロ・パゾリーニが提唱した「自由間接話法」にもかなり影響を受けました。語り手の客観性が登場人物の主観性と区別できない場合、多声的な発話になりかねないですね。
《旅館アポリア》の次に制作したのはYCAMで発表した《ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声》です。同じく、歴史的な人物を扱った作品ですが、より焦点を絞って、所属メンバーを取りあげながら京都学派を深く見る試みでした。この作品もまた、新井知行や翻訳家の辻美穂など、日本人の協力者との濃密な議論を重ねることよって完成しました。自由間接話法も日本の俳優や声優の声を取り入れることで深く構成に組み込まれています。
「日本三部作」の最後の作品は、妖怪をモチーフに複雑な歴史を取り上げる《百鬼夜行》(豊田市美術館)です。妖怪は民族的なモチーフでありながら、漫画やアニメといった大衆文化のなかでも商品化されていますね。ポップアートへの私なりの少し奇妙で怪しげな挑戦だったかもしれないです。
──「日本三部作」の長年のリサーチが今回の展覧会にどのようにつながっているのでしょうか。
実験的な試み、新しい友情、共同作業などを体験できた濃厚で実りのある数年間でした。私の研究プロセスはデータを集めたり、言説を理解したりすることだけを目的としていませんでした。むしろ、住むことができる空想世界を創造するための方法でした。標準化された選択肢や先入観に作用されず、体感できて、夢を見ることができる世界が自分にとって必要でした。言うまでもなく、重い歴史的な問題に直面するのも簡単ではなかったので、《百鬼夜行》の後は人生の別の次元を探求する時期がきたと感じました。結果として、時間の問題に興味が湧いて、最新作《時間(タイム)のT》が生まれました。
時間はもっとも抽象的な概念であると同時に、もっとも具体的な経験でもあります。リサーチするなか、時計学、地政学、そして生物学や物理学を含む自然科学の分野にアプローチしましたが、同時に主観的な時間、老い、死、ノスタルジア、記憶といった私的な経験にも関心を寄せました。抽象的なものと極めて私的なものとの対比は興味深いだけではなく、日本の歴史に焦点を当てつづけた私を解放してくれました。面白いことに、歴史的な探求は時間の性質と構造に関する仮説を前提にしていますが、その仮説が公表されることもなければ、検証されることもありません。これが時間に興味を持ちはじめた理由のひとつです。さらに言うと、映像を用いるアーティストとして、時間こそが自分の作品の真の素材だと思います。
──最後の質問になりますが、現実の世界では多様な歴史や文脈だけでなく、抑圧や暴力が目の前で起こっています。そのような現代をどのようにとらえ、アーティストとして今後どのような活動をしていきたいですか。
私たちが直面している地政学的な問題は解決されていない過去問題やトラウマに起因していると思います。それらはいつまでも幽霊のように私たちに憑かれ続けるのではないでしょうか。時間は一直線に進むこともあれば、川の渦のようにループを描くこともあります。フロイトによれば、無意識は時間を経験しません。なので、過去に経験したトラウマは、おそらくは形を変えたりして、いまも存在しつづけます。
永遠の繰り返しに対する無力感はまさに現代の特徴だと思います。そして、私たちは未来がどこへ向かっていくのか、一貫したヴィジョンもインスピレーションも欠いていますね。最近はセルフエンパワーメントはますます重要になってきていると気づきはじめました。しかし、そもそも「パワー」、つまり権力という、直感的に理解しているこの概念を根本的にとらえ直さなければならないと思います。たとえば、他者あるいは外部に向けられるものとしての権力はつねに否定的な意味合いを持ち、民主主義が権力を抑制あるいは弱める主体として機能してしまいます。そうではなく、私が興味を持っているのは内部に向けられた権力、つまり影響される能力としての権力です。権力には私たちの感受性や共感性を強化する力が潜んでいると思います。
このアイディアの出発点はスピノザの理論でした。民主主義を権力が身体間の関係を通して増幅される仕組みとして理解することができるのですが、この肯定的な権力形態は私たちが直面している現実と大きく異なりますね。これからは異なる文化圏における権力の概念や系統についてリサーチしていきたいと思っています。
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ホー・ツーニェン
1976年シンガポール生まれ、同地在住。ホー・ツーニェンの映像、映像インスタレーション、パフォーマンスは、幅広い資料や言説を参照し、再編成することで、複雑に絡み合う歴史や権力、あるいは個の複雑な主体性を描き出す。ホーの作品は世界各地で取り上げられており、2011年には第54回ヴェネチア・ビエンナーレのシンガポール館の代表を務めた。近年、ハマー美術館(ロサンゼルス、2022年)、豊田市美術館(2021年)、クロウ・アジア美術館(米テキサス州ダラス、2021年)、山口情報芸術センター[YCAM](山口市、2021年)、ハンブルク美術館(ハンブルク、2018年)、明当代美術館(上海、2018年)などで個展を開催しており、タイランド・ビエンナーレ(チェンライ、2023年)、あいちトリエンナーレ2019(名古屋市等、2019年)、第12回光州ビエンナーレ(光州、2018年)等の国際展にも数多く参加している。また、世界演劇祭(ドイツ各地、2010年、2023年)、オランダ芸術祭(アムステルダム、2018年、2020年)、ベルリン国際映画祭(ベルリン、2015年)、サンダンス映画祭(米ユタ州パークシティ、2012年)、カンヌ映画祭第41回監督週間(カンヌ、2009年)など、各地の演劇祭や映画祭でも取り上げられている。2019年にはアーティストの許家維(シュウ・ジャウェイ)と共に、国立台湾美術館で開催された第7回アジア・アート・ビエンナーレのキュレーションを担当した。
相馬千秋
NPO法人芸術公社代表理事。アートプロデューサー。演劇、現代美術、社会関与型アート、VR/ARテクノロジーを用いたメディアアートなど、領域横断的な同時代芸術のキュレーション、プロデュースを専門としている。過去20年にわたり日本、アジア、欧州で多数の企画をディレクション。フェスティバル/トーキョー初代プログラム・ディレクター(2009-2013)、あいちトリエンナーレ2019および国際芸術祭あいち2022パフォーミングアーツ部門キュレーター、シアターコモンズ実行委員長兼ディレクター(2017-現在)、 ドイツで開催された世界演劇祭テアター・デア・ヴェルト2023など。2015年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ受章、2021年芸術選奨(芸術振興部門・新人賞)受賞。2021年より東京藝術大学大学院美術研究科准教授(グローバルアートプラクティス専攻)。