2022年2月2日。コンセプチュアル・アートの先駆者として知られる松澤宥(まつざわ・ゆたか、1922~2006)の生誕100年を記念して、長野県立美術館で大規模回顧展「生誕100年 松澤宥」が始まった。同時に、松澤の生誕の地であり、活動拠点であった下諏訪では、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館やカフェ、温泉旅館など11の会場で「松澤宥 生誕100年祭」を開催している。
1964年6月1日の真夜中、42歳の松澤は「オブジェを消せ」という啓示を夢の中で受けたという。以後、芸術家でありながら、実体を持つ「かたち」を創作するのではなく、何か直接的な物を再現したり、メッセージをかたちとして表現することをやめた。曼荼羅や言葉、パフォーマンスによって観念を伝えようとし、作品を展開してきた。白髭を蓄え、白い装束を纏って、呪文のようなものを朗読する姿は、どこか宗教的な雰囲気も帯びている。
しかし振り返ってみれば1964年以前の松澤は、前衛アーティストとして旺盛な活動をしており、絵画やオブジェなどを多数残していた。今回、長野と諏訪、ふたつの会場では、松澤の初期絵画・オブジェ作品が一堂に会している。建築と詩から、絵画やオブジェを経て、見えないものの表現へと向かった松澤の軌跡を、この機会に一望することができる。
昨年リニューアルオープンした長野県立美術館は、2016年より遺族の手元の松澤の作品や資料を調査し始め、今回その調査結果を整理し、順番に陳列した。第1章「建築、詩から絵画へ」は、戦前から1960年頭までの20年間、松澤が啓示を受けるまでの期間の活動を資料を交えて紹介しており、見応えがある。
松澤は1922年に製糸業を家業とする諏訪の旧家に生まれ、1941年に早稲田第一高等学院に入学、1946年に早稲田大学理工学部の建築学科を卒業している。本展では、早稲田大学の成績表のほか、在学中の設計課題の図面4点や卒業設計が展示されており、松澤による建築表現も見ることができる。卒業設計は富士見高原に芸術村を構想したもので、のちにコミューンの拠点とした下諏訪山中の小屋「泉水入瞑想台」や「美学校」のコンセプトを想起させる。また成績表からは、構造設計よりも歴史などに興味が強かったことも伺える。
「見えない建築をしたい」と、卒業式後の謝恩会で語ったとされる松澤だが、卒業後、早稲田の卒業生が創業したばかりの梓建築事務所に就職する。梓建築事務所は現在の梓設計で、新国立競技場や羽田空港を手がけるなど、大きな組織設計事務所のひとつであるが、梓での2年間、松澤が何をしたのかはよくわかっていないようだ。退職後も、留学中を除いて設計活動に取り組むことはなかったようで、下諏訪の定時制高校で数学を教えながら創作活動に専念した。
また、松澤は19才の頃から戦後まで詩作を続け、『地上の不滅』(1949)でデビューした。これは、ガリバン刷りのたった10部の刊行でありながらも、詩人でデザイナーの北園克衛(1902〜78)の目に留まり、『VOU』に寄稿するきっかけとなったそうだ。10部という数を考慮するなら、松澤が自分で北園に売り込んだのではと考えるのが自然であるような気もする。本作を眺めると、1950年代中頃から始めた「記号詩(シンボルポエム)」やメールアート同様に、言葉の配置や造形、グラフィック・デザインにも意識を巡らす態度がすでに感じられ、北園の関心と重なりあう部分も読み取れるだろう。
1950年には下諏訪の詩人仲間、草飼稔と青木靖恭とともにRATIの会を結成し、同人誌『RATI』を発行する。岡本太郎や安部公房を招くなど、様々なイベントを諏訪で主催し、その際のパンフレットやポスターなどが展示されている。また、ひと周り下の年代で、松本出身の草間彌生(1929〜)の世話を焼いていたようで、松本で開催された草間彌生の新作個展の目録に、松澤は詩を寄せている。
またこの頃、美術評論家の瀧口修造との詩画集『妖精の距離』(1937)を刊行した阿部展也(1913〜71)の推薦で、美術文化協会展や読売アンデパンダン展に絵画を出展するようになる。諏訪と東京、両方のアートコミュニティのなかで積極的に活動するなか、松澤は詩から絵画へと重心を移したが、1954年に詩作をやめたとされる理由はよくわからない。そもそも、松澤の詩自体に明確な意味やメッセージが込められていたのか、はたまた、言葉というメディアを使った造形的表現なのか、判然としないようにも思われる。ある意味で、1964年以後の活動もパフォーマティヴな詩作とは言えないのだろうか。
早稲田大学教授の今井兼次(1895〜1987)が書いたフルブライト留学の推薦状を見ると、「He is one of the representative painters in Japan and is a poet and architect, who has characteristic talent. 」とあるので、当時松澤は、まず第一に画家として認識されていたことがわかる。また、瀧口修造(1903〜79)の書いた推薦文にも「He is an artisit-painter as well as an earnest student of the theory of art and the abstract paintings」(原文ママ)とある。設計をやめ、詩作をやめつつあったからこそ、推薦人は「画家」としたのかもしれないが、1950年代前半の松澤が画家として公式に活動し評価されていたことは確かそうだ。
また、瀧口の推薦文には興味深いことに、「He has an earnest desire to enter into Massaxhusetts Institute of Technology」(原文ママ)とあり、恐らく松澤はMITへの入学を望んでいたことが窺い知れる。実際に松澤は1955年にアメリカへ旅立つが、最初の受け入れ先はウィスコンシン州立大学で、56年〜57年はコロンビア大学大学院に在籍し、現代美術や宗教哲学を学んだ。MITには行っていない。当時MITでは、ニューバウハウスから流れてきたバックミンスター・フラーやジョージ・ケペッシュが教鞭を取り、アートと科学の融合が積極的に試みられていた。またフラーやノグチ・イサムらと共働していた日系アメリカ人のショージ・サダオはフルブライトで1956年に早稲田大学に建築を学びに来ていたし、色々交流があったかもしれない。松澤と同じくコンセプチュアル・アーティストのソル・ルウィット(1928〜2007)もIMペイの建築事務所で働き、ニューヨークを拠点に活動していたことも考えると、アメリカでの松澤の活動や関係は興味深い。
1957年に留学を終えて帰国し、まもなくは読売アンデパンダン展を主要な場として、カラフルな立体物を展示するようになった。そのなかから本展示では、《のぞけプサイ亀を翼ある密軌を》と《プサイの祭壇》が再現展示されている。第14回読売アンデパンダン展に展示された《のぞけプサイ亀を翼ある密軌を》は箱の中身が浮いているとされるが、ジョゼフ・コーネルの箱の作品と比べると、秩序だったユートピア的世界を空想させたいようには思えない。青木靖恭が書いた詩が隅っこに貼られていたり、雑多な種類の情報が箱の中や周辺部に散りばめられていて、どこか機械仕掛けの装置のようにも見える。《プサイの祭壇》は計5点の作品から構成されるもので、1961年に東京国立近代美術館で開催された「現代美術の実験展」に出品された《プサイの祭壇》と、第13回読売アンデパンダン展に出品された3点組《プサイの意味》《プサイ函YM》《プサイ函SM》に、《パラサイコロジー空間9》が加えられたものだ。
啓示を受けた後、最初に作ったのは曼荼羅構造のなかに言葉が書かれただけのチラシ。会場配布された《プサイの死体遺体》と、 1964年の啓示を受けた3日後に書いたとされるレポートが、並列して展示されている。
今回、長野県立美術館での見どころである再現展示としては、このほかにも1977年のサンパウロビエンナーレの展示と、松澤のアトリエ「プサイの部屋」がある。
とくにサンパウロビエンナーレで展示された《九想の室》の再現は、実際に自分の身をもって体験できるので面白い。当時、展示会場の壁面に掛けられた写真と同じものが長野の壁面に配置され、床には9枚の紙が等間隔に敷かれる。この9枚の紙の中央から出発して、松澤が意図した順番、「の」の字に歩いて巡ることができる。
写真は、1960年代末から70年代にかけて、松澤とともに活動していた「ニルヴァーナ・グループ」のメンバーの活動をとらえたもので、一見、キテレツなパフォーマンスも含まれている。サンパウロビエンナーレが決まったときに、松澤が周辺の人に撮影を依頼したそうだ。
森の中の秘技のようなパフォーマンスについての写真群に囲まれた空間で、真っ白な紙の上に書かれた文字を順繰りに読んでいると、どこにいるのか、何をしているのかわからなくなってくる。紙と紙のあいだは狭い空間にすぎないが、木立の間を通り抜けていくような感覚で、歩みながら、消滅、破局、時、識、空、風、火、水、地と9つの概念に思いを馳せることになる。ただ紙のうえに目を滑らせ、順に追って読むよりも、じっくりと遠くに自分の意識を向けることができた気がする。
「プサイの部屋」は、松澤の諏訪の自宅にあるアトリエのことで、瀧口修造によって命名された。2018年に信州大工学部建築学科の寺内研究室と長野県美術館の共同で実測調査が始められ、今回、1/6の縮尺で一部が再現されVRで体験できるようになっている。部屋のまわりには、調査時に撮影した写真が実寸大に引き伸ばされ、松澤の制作物や収集品がわかるようになっている。小屋の背後には、中嶋興が撮影した写真群も展示され、松澤の私生活を感じることができる。ここに映る松澤はお布団に入ったり、ワインを啜ったり、お餅を咥えたりどちらかというと和やかで、お茶目な印象だ。
また、下諏訪で開催されている「松澤宥 生誕100年祭」の会場、Cafe Tacでも、松澤家に残る1970年後半の写真が展示されている。家族旅行やギルバート&ジョージとの交流、ヨーロッパ周遊などのスナップ写真を、食事をしながら見ることができる(長野名産の蕎麦粉を用いた美味しいガレットが食べられる)。
同じく、飲食店のEric's Kitchenでは、記号詩のレプリカが展示されている。
下諏訪は中山道で古くから栄えた宿場町で、そのうち唯一天然温泉が湧く街であり、風格ある温泉旅館が佇んでいる。そのなかで、「ぎん月」や「御宿まるや」でも、松澤の自宅に残っていた絵画(年代やタイトル不明)が展示されており、ゆったりと日常空間の中で松澤の絵画を眺めることができる。「御宿まるや」の並びには岡本太郎や白洲次郎、永六輔らが常宿とした「みなとや」もある。
また、老舗旅館をリノベーションしたマスヤゲストハウスではメールアートやRATIの会のリーフレットのレプリカをゆったりとしたロビー(夜はバー)で楽しむことができ、関連書籍を手にとって学ぶこともできる。
松澤とは中学校以来の親友であり、教員としても同僚であった青木靖恭の息子でRATIの会の共同設立者のひとりとされる青木英侃のアトリエでは、父・靖恭の詩集や絵画作品、松澤とふたりで制作した協働作品などが展示されている。(※見学には事前予約が必要)
ポスターが豊富に展示されているのは、UMI COFFEE & LAUNDRYで、諏訪美学校の生徒募集や草間彌生の個展など松澤にゆかりのある様々なポスターを見ることができる。
また、すみれ洋裁店(撮影不可)では、松澤の100歳の誕生日を祝してインスタレーション「何もしない」を開催。また、人気アンティークショップのninjinsanではポスターや写真を展示し、両店ともに店主独自の世界観を展開している。
「松澤宥 生誕100年祭」メイン会場となる下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館(1993)は、諏訪湖畔に面した伊東豊雄建築設計事務所によるもの。特別展示室では、今回初公開となる学生時代や50〜60年代の絵画21点を中心に展示する。合わせて、パフォーマンスの写真、作品に関連する様々な資料や遺物など、生誕祭を企画した地元のスワニミズム(Suwa-Animism: 諏訪+アニミズム)の研究成果発表の場となっている。スワニミズムが作成した年表も地元ならではの視点で編纂され、味わい深い。講堂では、長沼宏昌が撮影した「プサイの部屋」の写真や映像を展示している。
1階ロビーには、松澤の代表作として知られている長さ20mにも及ぶ「消滅の幟(のぼり)」(レプリカ)とそれに関連する2つの幟が展示されている。「人類よ消滅しよう行こう行こう(ギャテイギャテイ)」と墨描きされたこのピンクの幟は、1966年の堺市の「現代美術の祭典」から、諏訪や東京、日本国内だけでなくスウェーデンやオランダ、ドイツ、アメリカ、ブラジル、オーストラリアなど世界中で披露された。
それに並び展示されているのが、長野県諏訪清陵高等学校(旧制諏訪中学)の美術部の幟だ。御柱祭で有名な諏訪地方では、祭りの際に幟を立てる伝統があり、さらに松澤の母校である旧制諏訪中学(現・諏訪清陵高等学校)では文化祭でサークル各部で幟を立てるという。また、同ロビーには「消滅の幟」への返答とも言える幟「私はここにいる」が展示されている。これは美術家で本展のキュレトリアルアドバイザーでもある嶋田美子とオーストラリアのアーティスト、ケイト・ジャストが企画した世界各地の女性とのコラボレーション作品だ。
今回、松澤の故郷を挙げての展示や、美術館による網羅的な研究成果を通して見ることで、これまで全容が明かされてこなかった松澤の制作活動の全貌を体験できるほか、今後の研究の基盤にもなりうるアーカイヴ展となった。同時に、戦中戦後の日本の美術の豊かさに触れられる機会にもなっていた。