東京都現代美術館で「吉阪隆正展 ひげから地球へ、パノラみる」展が始まった。会期は6月19日まで。
吉阪隆正(よしざか・たかまさ)は『ル・コルビュジェ全作品集 全8巻』の翻訳を完成させるなど、モダニズム建築の巨匠ル・コルビジェ三弟子として知られる建築家。1917年、ロシア革命の年に東京・小石川で生まれ、1980年に東京・築地で亡くなった東京ゆかりの建築家でもある。父親が国連の要職者であったため3歳〜16歳までのほとんどをスイスで過ごし、中心も国境線もない世界地図をつくるなど平和教育を受けた。戦時中の中国では「相互理解と平和のために建築に取り組む」と心に誓い、建築を作るのが目的なら建築家はいらないとまで言い切っている(*1)。
本展はいわゆる建築展のように建築模型や図面など建築資料群を陳列するスタイルではなく、登山家で教育者で、文明評論家でもある吉阪隆正というひとりの人間にフォーカスした「個展」と担当学芸員の井波吉太郎は位置付ける(*2)。また、U研究室の齋藤祐子は本展の新しさを「吉阪隆正展として吉阪が考えていたことを広く伝えようとしている」と説明した(*3)。展示は7章で構成され、最初に生涯にわたる全貌、最後に、設計以外の調査や活動が紹介される。中間の第2〜4章で建築作品を取り上げる。
会場に入るとまず、通路壁面に吉阪の言葉やスケッチがまとめられている。スケール(尺度)という建築では中心的なテーマが選ばれてはいるが、一見、詩人や哲学者の展覧会にも見え、分野を横断して精力的に活動した吉阪の関心を広く想像することができる。
部屋に入ると年表と著作、これまでの展覧会ポスターなどが集められ、まるで地方博物館の常設偉人展のようだ。年表には、45歳で「ノーネクタイに徹する」や「チェゲバラに会うために髭を伸ばす」など、近親者しか知らないようなネタも散りばめられていて興味深い(子供や日本語が読めない外国人には難しいかもしれないが)。
部屋の中央には、今回の展覧会に合わせて制作された「メビウスの輪」というコンセプチュアルモデルが設置されている。こちらは、輪の中に入ったり、四周から眺めたりして、アルゼンチンの神話を吉阪が解釈して描いた絵を読みながら、誰でも「表と裏はつながっている」という吉阪の信条を実感できるだろう。「メビウスの輪」は吉阪の文章やダイアグラムで頻繁に用いられるモチーフで、「ひとつの面だけを見ていてはわからないけれど、見方を変えると必ず違う価値観がある」という象徴として用いていたようだ(*4)。いかにも世界平和を考えていた人らしいメッセージだろう。
吉阪はスイスから単身帰国後、早稲田高等学院、早稲田大学に進学。現代の風俗や社会現象を的確に記録しようとする「考現学」を提唱した今和次郎に師事し、学生時代にも中国北方や民家を調査した。24歳で早稲田大学建築学科の教務補佐に就任するが、1942年から終戦まで戦地に赴き、戦地から引き上げてすぐ結婚。戦争で焼けた自邸の跡地(新宿区百人町)に自らの設計で新しい家を計画し始める。
その後まもなくフランスへの留学の機会を得て、ル・コルビュジエ事務所にも2年ほど勤務する。帰国後、1950年に発足した住宅金融公庫の融資を受けて自邸を着工するものの、潤沢な資金がなかったので米軍の残した廃材で仮枠を作り、コンクリートの床とスラブを作成した。しばらくはこの吹曝(ふきさらし)の「ドミノ型の原型」で生活したという。
この初期の代表作、《吉阪自邸》(1955)に着目するのが、第2章「ある住宅」。最初に、断面図を原寸大に引き伸ばした壁が目に飛び込んでくる。原寸大模型やインテリアの一部再現による空間再現は建築展でよく見かける手法だが、1/1の断面図と部屋の広さを持って、空間を立体的に再現しようとする試みは珍しい。壁側に吉阪の自邸があり、展示室にいる鑑賞者は庭に立っていることになる。
建築は絵画や彫刻、映像作品と違いポータブルでないので、ホンモノの建築を展示室に持ち込むことはできない。展示のためのインスタレーションを新設しても、建築の持つリアリティからはやはり離れてしまう。さらに図面や模型は建築家以外の来場者にとっては見るべき点を見つけることが難しく、建築展の難しさはここにある。しかし、このように1/30の模型や、庭と展示室に配置された製図台、著作物も手伝えば、素人でも身体スケールを図面に当てはめやすくなり、図面から空間をより容易に想像できるだろう。
原寸大断面図の2階のちゃぶ台の周りでは、談笑する様子がコミカルなタッチで描かれており、恩師・今和次郎からの影響も窺い知れる。また、断面図をパースと併せて描き、そこで行われる行為を生き生きと書き込むスタイルを確立したアトリエワンの断面詳細パースを想起させ、原寸大断面図で展覧会における図面の見せ方を模索する姿勢が読み取れる。建築作りにおけるスケールの重要性が体感でき、かつ、その際に情報伝達ツールとして重要なのが図面であることも伝わるかもしれない。
続いて、自邸と同時期、帰国後まもなくに設計された《VILLA COUCOU》(1957)や《浦邸》(1956)、また《ヴェネチア・ビエンナーレ日本館》(1956)、《アテネ・フランセ》(1962)、《大学セミナーハウス》(1965)など彫塑的造形を持ったコンクリート建築を含む代表的作品を中心に模型・図面・写真といった建築資料で建築が読み解かれる。目を引く壁の色は、それぞれの作品のどこかの色が抽出されているらしい。引き続き寸法にも着目していて、展示壁や展示台の高さなどはル・コルビュジエが考案した寸法規則、モデュロールに沿って作られたそうだ。
第4章「山岳・雪氷・建築」では未完成作品も含めて約20作品以上取り組んだ山に関わるプロジェクトが紹介される。吉阪はアルプス山脈で登山に目覚め、早稲田時代は山岳部でほとんどを過ごしたと言われる。キリマンジェロやマッキンリー登山隊を組織して踏破し、日本山岳会の理事も務めた。
長野県の山小屋《涸沢(からさわ)ヒュッテ新館》(1963)の敷地は当時、山岳書籍を発行していた出版社の社長が「穂高連峰がいちばん美しく望める場所」として選んだ土地でそれまでの山小屋のように山小屋の建てやすさや自然災害の受けにくさは考慮されていなかった。実際、吉阪が建てる前の小屋は2回雪で倒壊しており、吉阪も雪崩の被害を最小限に抑えるよう実験と調査を繰り返し、地形に埋もれるような《涸沢ヒュッテ新館》の造形にたどり着いた(*5)。
また、穂高山の《涸沢ヒュッテ新館》を気に入った施主は、妙高戸隠連山公園内にも山小屋を依頼した。それが《黒沢池ヒュッテ》(1969)で、冬場の雪圧に耐えられるように8本の丸太柱を軸としてドーム型の屋根を乗せた。結果的に雪下ろしが不要な形状となり、南極建築にも影響を与えたそうだ。
第5章、第6章ではスケッチの展示。つねにポケットに忍ばせていたというこの集印帳型のメモ帳は、父親譲りだという。第5章ではスケッチの一部を拡大し、第6章は美術館の長い通路に合わせて蛇腹折のメモ帳を広げている。集印帳型のメモ帳は、並々と続く山の連なりを描くのに抜群だ。
最後は、1965年から晩年まで取り組んだ都市計画と集落調査がまとめられ、仙台、弘前、津軽、伊豆大島、東京再建などのプロジェクトが紹介されている。
本展示は建築資料の広く一般の人々への見せ方を検討していると同時に、吉阪の思想を手がかりにしながら、「建築家の個展が可能なのか?」という問いに果敢に取り組んでいた。幼少期からヨーロッパに住み語学堪能で、アフリカ大陸横断や北米大陸横断を成し遂げ、山も登り、水平にも垂直にもグローバルに動いた吉阪。展覧会で紹介される吉阪の言葉は50年前の発言とは思えないほど共感しやすく、思考の幅が広く学際的だということが見て取れる。建築活動を平和活動にも及ぶような広義な行為を建築と捉えたことに納得がいくいっぽう、やはり彼の活動のアウトプットは設計だった。建築はひとりでは作ることができないので、実際に朱印帳のスケッチや著作を除いて、吉阪の個展のなかで並べられた建築資料や報告書は吉阪の手に直接は寄らないものが多いため、建築展は個展が難しい。
しかし、展覧会の中でも何度も繰り返し表出しているフレーズ、「好きなものはやらずにはいられないー生きるか死ぬかの生命力を賭けて」という言葉は世界戦争に直面している現代、我々の日常に希望を与えてくれるだろう。
*1──展示キャプションより。
*2──プレスレクチャーにて。
*3──プレスレクチャーにて。U研究室は吉坂に共鳴した若い協力者よって構成された研究室であり設計事務所で、2015年にはU研究室から寄贈された約8,500点をもとに、文化庁国立近現代建築資料館で「みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究室の建築 」が開催されている。
*4──齊藤祐子、嶋田幸男「建築家の〈遺作〉│04 吉阪隆正『三戸町目時の農村公園』」『LIXIL eye』2019年6月発行
https://www.biz-lixil.com/column/pic/lixileye/no019/LIXILeye_no019_02.pdf
*5──梅干野成央「涸沢の山岳建築:その歴史にみる『山岳・雪氷・建築』」『山岳科学総合研究所ニュースレター』第8号、2012年8月 https://core.ac.uk/download/pdf/148781794.pdf