ヴェネチア・ビエンナーレは、イタリアのヴェネチアで1895年より2年に1度開かれる世界でもっとも有名な芸術祭のひとつ。一部では「美術界のオリンピック」とも呼ばれ、国別のパビリオン、テーマを設けた大規模な企画展がヴェネチアの街の各所で開催されるアート一色の7ヶ月間となる。今年は11月24日まで開催中だ。
日本は1952年の第26回から国として公式に参加を始め、56年にジャルディーニ内に日本館を建設し、以降美術展に継続して参加。91年からは建築展への公式参加も行ってきた。日本の美術展・建築展を主催するのは、日本の外務省が所管する独立行政法人のひとつ、国際交流基金だ。
国際交流基金は総合的に国際文化交流を実施する日本で唯一の専門機関(*1)であり、文化芸術交流、海外における日本語教育、日本研究と国際対話という3つの軸で活動を展開。
ヴェネチア・ビエンナーレには1976年より主催として関わってきた。公式ウェブサイトには、以下のような活動内容が記されている。
美術専門家(国際美術協議会/国際展事業委員会)の協力を得て選考したアーティストやキュレーターとチームを毎回構成し、日本館展示の企画、展覧会コーディネーション(作品輸送、関係者派遣、展示施工、カタログ作成)、広報、会期中の管理運用を担っており、基金のイタリアにおける拠点・ローマ日本文化会館とヴェネチアのローカル・コーディネーターがこうした活動を支えています。また1991年から公式参加の始まった建築展においても、概ね同様の取り組み方法により日本館展示を主催しています。
この記事では、今後ヴェネチア・ビエンナーレにおいてキュレーターやアーティストが過不足のないサポートを受けられること、そして日本館がますます存在感を示すためにも、国際交流基金が主催してきた同館の金銭面での課題、今後期待されることを明らかにしたい。
先述の通り、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館の展示は国際交流基金が主催しているが、近年の円安の状況を踏まえても、その展覧会予算は不十分ではないかという声が聞かれる。今回、毛利悠子の展示に際しては大林剛郎(株式会社大林組 取締役会長)が指揮をとり初の本格的なファンドレイズ・チーム(資金調達チーム)も立ち上がった。
毛利は、そのサポート体制には感謝の念を表しつつも、展覧会資金の内訳について次のように話す。
金銭的サポートについては、私が聞いた範囲では、ジャルディーニの他国・地域のパビリオンと比較して10分の1から5分の1程度の額であり、予算が潤沢だったとは思いません。展覧会予算として、国際交流基金から2400万円という枠が与えられ、作品制作費だけでなく、輸送費、カタログ制作費、広報といったものもすべて賄います。この予算のほかに、日本館自体の保全のために毎年同額ほどの予算が付いているようです。展覧会予算のなかから私に支払われたギャランティは、2023年4月の代表内定から24年11月末の会期終了までの20か月で30万円でした。通常はキュレーターへのギャランティも30万円のようですが、今回キュレーターを務めたイ・スッキョンさんは個別に基金と交渉していました。ただ、予算総額が増えるわけではないので、スッキョンさんのギャランティが追加された分、他の予算項目は圧迫されることになりました。また、昨年から今年にかけての急激な円安で予算が目減りしていくことはけっこうなストレスになりました。
カタログの出版社を探して直接交渉する、ヴェネチアでのパーティ会場を探すといった出張費は、アーティストが自腹で負担。また、国際美術展でのパーティ(晩餐会)は美術関係者のネットワーキングや国際交流という意味でも重要な意味を持つが、毛利が所属するギャラリーが自費で執り行ったという。結果的に数百人もの人々が参加する盛大なものになり、一部メディアでは「官民連携の手応えはあった」という間違った報道(*2)もされたほどだ。
展覧会予算の少なさについては、過去の展示キュレーターも同様の意見を示す。
2019年の美術展でキュレーターを務めた服部浩之は、国際交流基金の担当スタッフの熱心な対応、現地スタッフの作品・観客へのケア、会場運営という意味での作品・鑑賞者への対応は「すばらしく、ありがたいものでした」と振り返ったうえで、毛利と同様の意見を述べている。
アーティストやキュレーターのフィーは仕事量や責任には見合わないと感じたため、私が参加した2019年と金額が変わっていないようなら今後の増額をのぞみます。また、他国の関係者とのネットワーキングや交流に関するサポートが充実するとよりよくなると思います。そして、基金側だけでなくキュレーターも予算の管理・配分に関する裁量を持てると、お互いの信頼度はより高まり責任の分有にもつながり、一層仕事はしやすくなったと感じています。
2017年の美術展でキュレーターを務めた鷲田めるろも、ヴェネチアから地理的に遠い日本は輸送費などの面で不利であり、トラックが使用できないヴェネチアでは設営費も割高になってしまうという点を指摘。また、パーティについては「国が晩餐会を主催すべき」と主張する。
予算が少ないことから、レセプションパーティは日本館の前で日中に行うものだけを国際交流基金が主催して開催しました。国が晩餐会などを主催している他国と比較すると発信力は弱いと感じます。
いっぽう、国際交流基金の予算および人的サポートに「大きな不満はなかった」と語るのは、2013年の美術展キュレーターを務めた蔵屋美香だ。しかしながら、構造と体制については改善を提言する。
予算の立て方は各国館で違うと思いますが、日本館は悪い条件ではないと思いました。しかしその後、日本政府全体の方針として、文化予算の削減および観光振興、経済振興目的の補助金への付け替えが進んでいるので、昨今はもっと厳しいかも知れません。人的な体制でいうと、基金担当者のうち何人かが任期付職員でした。これでは働くご本人も不安ですし、組織にとってもノウハウが蓄積されません。またこれらは、たとえば交流基金単体を責めて済むという話ではなく、美術関係者、基金、文化庁などが協力しあって政府に改善を訴えるべき、もっと大きな構造の問題だと思います。
現体制の改善については、「国際交流基金は外務省の管轄になっていますが、文部科学省や文化庁など文化を担うセクションのサポートもあるとよいと思います」(鷲田)と同様の意見が目立った。
他国館の予算、運営状況についてはどうなのか。日本館と同様ジャルディーニエリアに各国館を持つアメリカ、イギリス、オーストラリア、韓国などのほか、初の国別パビリオン参加となったベナン共和国など21ヶ国に質問状を送り、いくつかの回答が得られた。そこからわかったことは、予算規模も運営体制もじつに様々であるが、多くの場合主催団体がファンドレイズ(資金調達)を積極的に行い予算を充足させているということだ。
たとえばアメリカは、パビリオンの予算は580万ドル(約8億4000万円)にもなる。おそらくパビリオンのなかでも最大規模だろう。内訳としてはアメリカ国務省の教育文化局 (Bureau of Educational and Cultural Affairs)が資金の一部を提供し、ファンドレイズは9割。委託を受けた機関が残りの費用を賄うためのファンドレイズを担当しており、代表アーティストは諸経費の一部を負担する必要もないという。
今回の記事で各国館のリサーチを行ったアーティスト・インディペンデントキュレーターの半田颯哉は、以下のようなコメントを寄せる。
アメリカは民間主導のイメージが強く、実際、莫大な予算のうちその9割以上を民間からのファンドレイズで賄っていますが、じつのところ公的資金分だけでも一国分と言えるほどのパビリオン予算規模となっていることには驚きました。
ドイツの予算は開催年ごとに異なり、「芸術的貢献の種類と調達された第三者資金によって異なる」という。主催のifa(ドイツ対外文化交流研究所)は、2年間にわたって連邦外務省から 65万ユーロ(約1億460万円)の基本予算を提供。コミッショナーが支援するキュレーターは基本予算外の資金調達を担当し、基本予算はプロジェクト期間中のコストのおよそ40%をカバーしている。
ブラジルは150万レアル(約3750万円)の予算を、サンパウロ・ビエンナーレ財団と連邦政府(文化省)とのパートナーシップによって賄っている。
カナダは、カナダ国立美術館がヴェネチアでの展示を主催。予算は明かされなかったが、美術館財団がヴェネチアにおけるカナダの芸術代表のための資金調達を主導している。
スペインの予算は40万ユーロ(約6300万円)で、割合としては公的資金と民間が9:1。主催団体のひとつであるスペイン外務・EU・協力省が資金調達の責任者となっている。
エジプトは他国館と一風異なるスタイルで、今回、アーティストが所属する4つのギャラリーと個人サポーターによってすべて私費で運営。エジプト政府からの財政支援は一切なく、アーティストもパビリオンの費用を一切負担していない。「アートマーケットとキュラトリアルシーンの結び付きの強さを感じます」(半田)。
日本館の隣に位置し、今年、パビリオン設立から30周年となる韓国は、パビリオン以外の展示もヴェネチア内に展開。ヒョンデをはじめとしたスポンサーからの支援を受けている。
こうした各国館リサーチを踏まえ、半田は以下のように述べる。
毎回選出されるアーティストやキュレーターが異なるなかで、ヴェネチア・ビエンナーレを同じ組織が担当するということはアドバンテージでもあるかと思います。パビリオン運営のノウハウを組織内に蓄積しつつ、組織としてファンドレイジングについてもサポートすることができれば、アーティスト・キュレーターは安心して展示作りに向き合うことができるのではないでしょうか。
国際交流基金という組織にノウハウが蓄積されてこなかったことを指摘しつつ、それが結果的にキュレーター、アーティストへの負担になっていると指摘するのは毛利だ。
日本館の場合、プレスを含めてパビリオンをどうプレゼンテーションするか、そのためにどう予算を配分するかといった大きな責任を伴う仕事は、初めてヴェネチアを経験するキュレーターとアーティストにすべてかかっています。実務から得た知見やノウハウがストックされないまま、また翌々年のアーティストが自力でサバイブしていくことになるのです。そして、それは作品を作るクリエイションとは別の労働です。
服部も同様の問題意識のもと、約2年にわたる展示にまつわるタイムラインを独自に公開している。
これまで日本館のアーティストは予算不足分を自費で対応するという対応を行ってきたケースも少なくない。毛利は各国館の状況を踏まえ、今後、日本館を主催する団体がファンドレイズを仕切ることを期待する。
ファンドレイズを実施することになり、普段から懇意にしていただいていた日本の重要なコレクターのひとりである大林剛郎さんにまずは私からお声がけしました。きれいごとのようですが、今回の私の機会をサポートしてもらいたい思いももちろんあるけれど、これから日本館にリプレゼントされるアーティストたちが充分に表現活動できるような環境づくりをあらゆる方法で整えていったほうがいい──本当にそう思っていました。コレクター個人に作品を購入してサポートしてもらう方法もありえたけれど、大林さんに音頭を取っていただいて、国際交流基金の口座への寄付を募ったのは、そういう理由からでした。とはいえ結局、今回は国際交流基金からは口座を提供してもらっただけで、具体的にはほとんど私サイドが動くことになりました。ファンドレイズのプロフェッショナルの助言をいただきつつ、私が所属するYutaka Kikutake Galleryの菊竹さんが実務を担ってくださりました。おかげさまで大林さん、牧寛之(株式会社バッファロー 代表取締役社長、anonymous art project)さんをはじめ、海外からのご支援も含むたくさんの方々からご協力をいただくことができ、ファンドレイズされた金額の9割以上が国際交流基金の口座に入ったのですが、実務をしてくださった菊竹さんに対して国際交流基金から謝礼はありませんでした。もしかすると日本の公共機関では、ファンドレイズがプロフェッショナルな仕事であるという認識がまだ受け入れられていないのかもしれません。
予算ありきで作品の良し悪しが決まるとは私はまったく思いませんが、予算によってアーティストの発想が縮小してしまうのはもったいないことです。少なくとも、他国と比較して5~10分の1程度の予算組みで、世界で最も有名な国際展の展示をしなければならない前提というのは、参加アーティストはそれだけで最初からビハインドを背負うことになります。日本館のプレゼンス向上のために、展覧会主催者であればこそ実現できることがあるはずです。むしろこれまでの経験を糧に、国際交流基金には次回以降もファンドレイズなり別の手段なりで、ビエンナーレの予算調達の経験を積んでいただけたらと願っています。
こうした意見を受け、国際交流基金はどのような見解を持つのか。今後制度や取り組みが変更される可能性はあるのかを同基金の担当者に聞いたところ、以下のような返答を得た。
ヴェネチア・ビエンナーレの日本館事業は国際交流基金にとって非常に重要な事業のひとつであり、その主役である作家やキュレーターがよりやりやすい環境を作ることは極めて重要であると考えていますので、今回のご指摘を真摯に受け止め、今後の改善につなげたいと思います。
日本館の予算につきましては、直接的に展覧会に関係する予算と運営管理的な予算とを合わせたものが総予算となりますが、物価高や円安、また会期の長期化に伴う人件費の増加の影響により費用も年々大幅に増えており、増加分を国際交流基金の予算内で何とかやりくりしているというのが現状です。
作家や関係者の方々には、展示に必要な準備のための費用やご出張の手配などは原則としてご提供しております。またパーティやファンドレイザーへの謝金もお支払いできないわけではなく、外部会場でのパーティを国際交流基金主催で行ったこともありますが、展覧会によってそれぞれの表現方法や重点の置き方により必要と考えられる費目や規模が異なりますため、全体の予算を割り当てていくと、そこまで行きつかないというのが率直なところです。キュレーター等の謝金につきましては、現在改訂を検討中です。
これまで各回の作家や関係者の皆様の創意工夫によって、展覧会を実現することができていましたが、各国が威信をかけて展示を行うヴェネチア・ビエンナーレで十分なプレゼンスを発揮するために、より効率的で効果的な運営を行うべく、組織立って資金調達に取り組む必要性を感じております。その意味で、今回多くの方々のご好意とご協力によってファンドレイズがなされたことに深く感謝するとともに、これを機に私ども国際交流基金も、資金調達や運営体制を含め、作家やキュレーターの方が展示の制作に専念できる環境を整えられるよう、努めてまいりたいと思います。
これまでは金銭面の課題をフォーカスしてきたが、「日本館にはもともと恵まれた状況がある」と語るのは蔵屋だ。
なによりよいのは、メイン会場のひとつであるジャルディーニ内に恒常的なパビリオンがあることです。19世紀末から20世紀前半の世界秩序を反映し、ヨーロッパ諸国を中心とした館が立ち並ぶジャルディーニ内に、東アジアとしては日本と韓国のみが施設を有しています。他のアジア、アフリカ、南米、中東などの新興諸国・地域が、毎回苦労して島内に貸会場を探し、しかも観客が足を運ぶ確率はぐっと下がるという状況に苦戦していることを考えると、このメリットは本当に大きいです。
その有利性を生かしたうえで、日本館としてどのような作品をプレゼンテーションしていくか、その戦略には改善の余地があると続ける。
アーティスト選定の戦略がいまひとつクリアではない点は改善の余地があると感じます。各国館は、表向きそれぞれの基準で自由にアーティストを選んでいるように見えますが、じつはその回のディレクターの関心事、あるいはその時点のヨーロッパ地域の関心事を敏感に読み取って展示を決めています。あくどいとも言えますが、逆に、こうしてビエンナーレ全体で行われる創造的な対話に参加しているとも言えます。この事情を踏まえず、“日本からはいまこの人を推したい”というだけでアーティストを選ぶと、日本館だけがなんとなく全体から浮いた感じになってしまいます。そこはもう少し冷静に議論してよいと思います。
こうした質的議論は今後行われていく必要があるだろう。最後に毛利は、国別の課題、制度を超え、ヴェネチア・ビエンナーレがジャルディーニを中心とする1国家(地域)1パビリオン制度であること自体に懐疑を投げかける。
今回のキュレーター選択によってもその点(1国家[地域]1パビリオン制度)への違和は明らかにしたつもりですが、それでもこの機会に参加することでしか得られない経験があり、それを経験できたことをとても光栄に思っています。
日本がヴェネチア・ビエンナーレで日本館を建設し、美術展に継続参加をするにようになってから70年を迎えるが、これまでその内実について積極的に取り上げられることはなかった。質的議論、そして金銭的課題を両輪で進めていくことでしか実現しえない状況があるのではないだろうか。今回の記事をそのスタート地点としたい。
*1──公式ウェブサイトより https://www.jpf.go.jp/
*2──日本経済新聞「ベネチア・ビエンナーレ報告(下) パーティーは遊びじゃない 人脈形成へ官民で支援を」https://www.nikkei.com/article/DGKKZO82687770Z00C24A8BC8000/
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)