公開日:2022年6月10日

戦後の自然災害を考える原点 「雲仙・普賢岳大噴火」を記録する。「UNZEN―「平成の島原大変」:砂守勝巳と満行豊人をめぐって」レポート

監修の椹木野衣、キュレーション協力の砂守かずらにインタビュー。多摩美術大学芸術人類学研究所の主催企画として6月3日〜18日に開催している「UNZEN―「平成の島原大変」:砂守勝巳と満行豊人をめぐって」に迫る。

砂守勝⺒ 〈雲仙、⻑崎〉より 1993-95 ©︎ Sunamori Media Archives

戦後の自然災害を考える原点「雲仙・普賢岳大噴火」
現在の糧となる表現と記録

「災害と美術」をテーマとする展覧会「UNZEN―「平成の島原大変」:砂守勝巳と満行豊人をめぐって」が、多摩美術大学アートテークギャラリー2Fで6月18日まで開催中だ。多摩美術大学芸術人類学研究所の主催企画。所員・椹木野衣(美術評論)が監修を務め、「平成の島原大変」と呼ばれる長崎県島原半島の雲仙・普賢岳大噴火にまつわる表現や伝承をリサーチした研究成果を発表している。

「災害の世紀」となりつつある21世紀、人間はどのように自然と共生することができるのか。なかでも自然災害による破壊と復興を繰り返してきた日本列島では、どのような美術が可能なのか。芸術表現のみならず、歴史・地理・地学の知見や、記憶と記録の継承と防災的側面なども掛け合わせて考える展覧会。31年前のこの噴火災害をいま思い出す意味を探りながら紹介したい。

会場風景 撮影:白坂由里

雲仙・普賢岳大噴火といえば、43名の人命を奪った1991年6月3日16時8分の大火砕流がよく知られている。その前年には198年ぶりに雲仙・普賢岳が噴火していた。しかし、その後も1996年頃まで火砕流や土石流が続き、噴火活動の終息宣言が出たのが96年6月3日であることはほぼ忘れられている(心苦しいが筆者もそうであった)。

その理由を「長期の複合災害で、次第に光が当たらなくなっていったのではないか。また、1995年1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があり、雲仙のことはやや隠れてしまったのではないか」と椹木は語る。

「阪神・淡路大震災や東日本大震災が時代の境目となったのはもちろんですが、それ以前の雲仙・普賢岳も歴史的災害の原点として取り上げ直す重要さを感じました。世界的にも91年にソ連邦が消滅し、湾岸戦争が始まり、いまとは単純に比べられないけれどもエイズというエピデミックがあった時代です」。

地元では毎年慰霊祭が行われる6月3日、遠く離れた東京からも祈りが届くようにと本展は始まった。展覧会は4つのセクション「砂守勝巳と満行豊人」「災害資料」「定点」「寛政の島原大変」で構成されている。なかでも、まず砂守勝巳(すなもり・かつみ)、満行豊人(みつゆき・とよひと)、「定点」に登場する松下英爾(まつした・えいじ)という3人の表現に着目したい。

写真家・砂守勝巳が撮った、置き去りになった風景

大火砕流の後の1993年〜95年、まだ続く火砕流や土石流から人々が避難し、時が止まってしまったかのような無人の街を写していたのは写真家の砂守勝巳だ。95年に開催された個展「黙示の町」(銀座/大阪ニコンサロン)でこれらの写真を発表したが、やはり阪神淡路大震災で機会を逸したのか、写真集の出版には至らなかった(同年、個人史的な写真集『漂う島 とまる水』(クレオ)で第15回土門拳賞、第46回日本写真協会新人賞受賞)。2020年には、椹木の企画・監修で個展「砂守勝巳 黙示する風景」が原爆の図 丸木美術館で開催された。

砂守勝⺒ 〈雲仙、⻑崎〉より 島原市中安徳町 1993-95 ©︎ Sunamori Media Archives

1951年、沖縄本島で生まれた砂守は、少年期を奄美大島で過ごし、15歳で大阪へ移住。プロボクサーを経て写真家となり、写真週刊誌で活動していたこともあった。2009年、胃癌により57歳で没後、2005年から助手を務めた娘の砂守かずらが作品を継承している。彼女が中学生の頃、病にあった父が、病院の先生の反対を押し切って撮影に行く姿を見て、雲仙への思い入れを感じていたという。

砂守勝巳 シリーズ〈雲仙、長崎〉より 1993-95 会場風景 撮影:白坂由里

「沖縄生まれの父は移民や土地の記憶に関心があったようです。広島の原爆に関連するものを撮りに行ったときに朝鮮人被爆者に出会い、被爆して体力的に日雇いでしか働けない人たちがいると知って釜ヶ崎に行き、そこで沖縄・奄美から移住してきた人々にも出会いました。島原には与論島からの移住者エリアがあり、そのことも関係があったのかもしれません」。

クリスチャンの砂守は、原爆やキリシタン迫害の歴史がある長崎に縁を感じていたのかもしれない。本展でキュレーション協力した彼女は父の写真を見てこう話す。

「自然にとっては生理的なサイクルなのかもしれないけれど、人間にとっては時に災害となる。無常観のようなものを感じます。噴煙を上げる山を仰ぎ見る写真、人間が生きている場所を襲ったような写真、土砂に埋まった家にも道具が残っている写真など、人間も自然の一部だと感じます」。

砂守勝巳 〈雲仙、長崎〉より 1993-95 会場風景 撮影:白坂由里

「雲仙でのリサーチで、高齢の方々と今後どう記憶を継承していくかと話すうちに、最初は父の写真を世に知らせたいという動機でしたが、父の写真が活動に役立ったらいいなという目的意識に変わっていきました」。

元高校教師で語り部の満行豊人が残した、火山の写真と水彩画

いっぽう、1937年長崎県平戸生まれ、地理を教える高校教師であった満行豊人は、好奇心と使命感から、噴火による日々の山の変化を撮影・記録していった。その定点観測地約7ヶ所の写真と、退職後に語り部をする傍ら、96年の終息から15年を経て写真をもとに描き直した水彩画が展示されている。絵を描くことは好きだったそうだが、専門的に学んだことはない。椹木は出展を依頼した理由をこう語る。

「地理の教材づくりや生徒への思いから、何年にもわたって複数の視点から写真を撮っていて、土地と身体が一体のものとなっている。写真をもとに描いた絵は観察にとどまらない、肉化した生々しさを持っていると感じました」。

満⾏豊⼈ 《雲仙・普賢岳噴⽕災害の⽖痕》より 2011-21 作家蔵

砂守かずらも、一見して被災地の記録に見えない、絵葉書のような水彩画だからこその力を感じている。

「地理の先生なので、俺がやらなきゃ誰がやるという思いで山に入って行ったと思います。当事者ではない自分が満行さんに災厄のお話をお聞きすることに逡巡がありましたが、生きているときに噴火が見られたのは幸運だと思った、と明るく笑う姿を見て、お話への触れにくさが解けました」。

満⾏豊⼈ シリーズ《雲仙・普賢岳噴⽕災害の⽖痕》より 2011-21 会場風景 撮影:白坂由里

元市職員で語り部の松下英爾が立てた、三角すい

当時、取材陣がより良い条件で撮ろうとカメラを立てた場所は「定点」と呼ばれた。6月3日の大火砕流はその「定点」を飲み込んだ。その場所に慰霊碑として素朴な三角すいをつくったのは、市職員として災害対応し、現在語り部でもある松下英爾である。白く塗装したヒノキの角材を、天に向かって手を合わせるように組んだシンプルな形。椹木は語る。

「彫刻ではないけれど、記憶を受け継ぐための造形物であり、モニュメントと考えられる。記憶をしっかり伝える役割があるモニュメントは、石碑やブロンズ彫刻などの堅牢なものである場合が多いですが、普段は立ち入り禁止の危険区域であり、再び火砕流や土石流があったときに二次被害につながる恐れがあるため、あえて風が吹き抜ける工作物にしたのだそうです」。

「定点」砂守勝⺒撮影 2004 ©︎ Sunamori Media Archives

じつは「定点」は、報道関係者ばかりでなく、待機させていたタクシーの運転手や周辺を警備していた消防署員や警察官など地元の人々が犠牲になり、非難を浴びた場所でもある。それ以降、取材方法も改められた。大火砕流からまる10年に、取材者などの遺族の気持ちを思って松下が考案し、木工所に制作を依頼したのだそうだ。現在は修繕して2代目となる。

椹木はこれを一例として提案する。

「失われたり傷んだりしてもまた作り直せますし、作り直すかどうかも話し合える。全員が賛同ではないかもしれませんが、ああいうかたちであればいいんじゃないかという人も出てくるような、いろいろな声のバランスによって保たれているかたちなんです。日本列島みたいに絶え間なく自然災害が起きている土地では、堅牢で不変的なモニュメントではなく、気持ちがつながっていくためのいわばリレーとしてのこういうかたちがあってもいいんじゃないかと。震災遺構の残し方はつねに議論になりますが、何かヒントになるのではないかと思うんですね」。

会場風景より、「定点」周辺立体模型 制作:IAA展覧会サポーター(学生有志) 撮影:白坂由里

ちなみに東日本大震災で採用された「警戒区域」や「嵩上げ」という手法も、雲仙を機にすでに取り入れられていたのだそうだ。

「満行さんも松下さんも、作品とは思わず、まず自然現象があって自分がその媒介となっています。自然は万人のものだから視点を共有できますし、いろいろな考えを生み出すきっかけにもなると思います」(椹木)。

200年後の噴火に備えて

遡れば江戸時代、1792(寛政4)年に「寛政の島原大変」と呼ばれる噴火も起きている。この200年前の体験を残した絵図なども展示。火砕流や土石流などの描写に先人の伝えたい思いをひしひしと感じる。

つまり、再び200年後に噴火が予想され、現在は「事後」ではない。だとすれば「災害資料」を過去のモノではなく、「事前」のモノとして、記憶の先取りや予兆として実感することが必要ではないか。被災したモノたち、記者や自衛隊が撮影した映像などをインスタレーションし、客観的なものとしての資料・史料を、個人の表現としての絵画や写真などと同じ地平で見せている。

災害資料(三輪⾞)雲仙岳災害記念館蔵 ©︎ Sunamori Kazura
災害資料のインスタレーション 撮影:白坂由里

東日本大震災後、福島の帰還困難区域でのプロジェクト「Don’t Follow the Wind」ではアーティストとともに活動を続け、『震美術論』(美術出版社、2017)を著すなど、自然災害を軸に様々な探究を重ねてきた椹木。今回は、自然界を構成する4大要素「地水火風」のうち「火」に当たる。

「日本列島は地殻変動によって生まれた島であり、マグマやマントルという地球本体の芯から生ずる火山活動はやはり在り方の本丸といえます。噴火は必ず直面することですから、いろいろな側面から考えていく必要があると思います」。

会場風景 撮影:編集部

「データも大事ですが、数字が人の心に直接届くわけではない。いっぽうで『表現』は、それを受け止めた人間の心の深い部分に浸透し、誰かにまた託していく回路を生み出すんじゃないかと思うんですね。経済的復興も重要ですけれども、芸術は心の復興という面で力がある。さらに言うと、火山があるから温泉もあるように、人間は自然から恩恵も受けていて、一面的に非難することができない、善悪では判断しきれないものでもあるのです。だからこそ芸術人類学という新しい枠組みのなかで、生きていくためのアートを考えることが有効ではないかと思っています」。

誰もが少しずつ「私」を超えて、ここに新たな「公」の空間ができている。資料コーナーと併せてじっくり見ている鑑賞者も多い。立ち戻る場所として「UNZEN」をぜひ体感してほしい。

会場風景 撮影:編集部

白坂由里

白坂由里

しらさか・ゆり アートライター。神奈川県生まれ、千葉県在住。『ぴあ』編集部を経て、1997年に独立。美術を体験する鑑賞者の変化に関心があり、美術館の教育普及、芸術祭や地域のアートプロジェクトなどを取材・執筆。『美術手帖』『SPUR』、ウェブマガジン『コロカル』『こここ 』などに寄稿。