公開日:2024年9月7日

いかにして美術史を語るか、もしくは語らないか──3つの展覧会を中心にして:「TRIO」「シアスター・ゲイツ展」「異文化は共鳴するのか?」(文:菅原伸也)

「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(東京国立近代美術館)、「異文化は共鳴するのか? 大原コレクションでひらく近代への扉」(大原美術館)、「シアスター・ゲイツ展」(森美術館)を横断的に論じる

「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」(森美術館)会場風景 撮影:編集部

美術史はこれまでどのように作られ、今後更新されうるのか。美術批評家の菅原伸也が3つの展覧会を横断的に論じる。

今回取り上げるのは、3都市の美術館コレクションを3点1組7つの章に分けて紹介する東京国立近代美術館「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(*2024年9月14日より大阪中之島美術館に巡回)、大原美術館の歴史とコレクションを活用し、近代美術と同館の魅力を新たな角度から紹介する「異文化は共鳴するのか? 大原コレクションでひらく近代への扉」、文化的ハイブリディティ(混合性)を探求し、本展が日本初、そしてアジア最大規模の個展となったシアスター・ゲイツの森美術館での個展「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」の3展。【Tokyo Art Beat】

美術館によって、初めて「美術史」が可能になる

柄谷行人は「美術館としての歴史——岡倉天心とフェノロサ」という論考において、「美術館において、はじめて『絵画史』というものが可能となる」(*1)と述べている。美術館は「時間的な順序を空間的に提示」し、それによって「逆に言えば、空間的な排列が時間的な発展を示す」ことになるからである。ここで柄谷はなぜか「絵画史」に限定しているが、それは美術史全体についても当てはまるであろう。近代的な制度である美術館において作品を空間的に配置し、それを順番にたどることができるようにすることによって、美術の歴史というものが作り出されたというのである。世界初の近代的美術館であるルーヴル美術館が1793年に開館した際に画期的であったのは、時代順の展示方法を採用したことであった。吉田憲司が述べるように、それゆえ「時間軸に沿って展示室が配置された美術館のなかでは、部屋から部屋へと巡り歩くことが、そのまま『美術』の歴史をたどることを意味」(*2)していたのである。

したがって、こうして近代的な美術館で時代順にしたがって空間的に配置され順番にたどっていくことができる美術史は、ひとつの方向に流れていく単線的な歴史とならざるを得ない。そこでは後戻りすることも、脇道に逸れることも許されず、一方向へと進んでいくことが想定され強要される。それは、美術の進歩の歴史であり、発展の歴史であり、過去のものが新たなものによって塗り替えられる歴史である。それはあたかも、いくつかのセパレートコースからなるひとつの陸上トラックレースのようなものであると言えるだろう。もっとも先に進んだものがもっとも評価され、遅れているものやコースからはみ出てしまったもの──たとえば、非西洋の人々や民衆が制作した品──は劣っていると判断される近代的な進歩史観がそこでは前提とされている。

近代的な単線的美術史観が現代ますます有効性を失い異議申し立てを受けるなか、そうした美術史観を乗り越える試みが世界中で数多く試みられている。そのとき、どのようなやり方で作品を空間に配置しているかにこそ、美術史のあり方に対する美術館やキュレーターの思想や態度がもっとも顕著に表れるのである。東京国立近代美術館、大阪中之島美術館、パリ市立近代美術館という、近代以降の美術を収集展示する3つの美術館のコレクションから構成された「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」展(以下、TRIO展)は、そのような乗り越えの試みのひとつとして見ることが可能であろう。まず、作品の配置の仕方にTRIO展の思想を探ってみたい。

作品を縦横無尽に比較するアクロバティックな企画「TRIO」

TRIO展においてもっとも特徴的なのは、多少機械的にも思えるやり方で、3つの美術館のコレクションからそれぞれ選ばれた作品をあるテーマのもとに並置するというテーマ展示の手法が全面的に展開され、近代的な美術館において用いられてきたクロノロジカルな作品配置が放棄されている点にある。ランダムにテーマの例を挙げてみるならば、「7 都市の遊歩者」というセクションでは、パリ市立近代美術館からモーリス・ユトリロ《モンマルトルの通り》(1912頃)、東京国立近代美術館から松本竣介《並木道》(1943)、大阪中之島美術館から佐伯祐三《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》(1927)が、「18 女性たちのまなざし」では、大阪中之島美術館からシュザンヌ・ヴァラドン《自画像》(1918)、パリ市立近代美術館からピエール・ボナール《昼食》(1932)、東京国立近代美術館から藤島武二《匂い》(1915)がテーマのもとに並置され、時代も場所も文化も(社会的・美術史的)文脈もまったく異にする3つの作品がひとつの抽象的なテーマのもとに並べられているのである。

「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(東京国立近代美術館)会場風景より、左から佐伯祐三《郵便配達夫》(1928、大阪中之島美術館蔵)、ロベール・ドローネー《鏡台の前の裸婦(読書する女性)》(1915、パリ市立近代美術館蔵)、安井曾太郎《金蓉》(1934、東京国立近代美術館蔵) 撮影:編集部 *9月14日〜12月8日にかけ、大阪中之島美術館に巡回

テーマごとにそれらの作品を互いに比較しながら見ていると、ほとんどの場合、それらがいつ制作されたか、どの作品が先に作られたかなどに対する関心が失われ、奇妙にも時間や歴史の感覚が消えていって、あたかも同じ時代に属するかのように3つの作品を共時的に鑑賞するよういざなわれる。すなわち、TRIO展では、様々に異なる時代の作品を展示していながらもそれらの作品のあいだに単線的な時間の流れといったものが生じることはなく、鑑賞者は、同時代の作品であるかのようにそれらを見ることになるのである。日本は、「美術」という概念や西洋近代絵画を国家的な近代化(=西洋化)の過程において遅れて受容したという経緯があるため、単線的な西洋近代美術史の観点からすれば日本の洋画は、「オリジナルの」西洋近代絵画を「学び」「模倣した」その「派生」であり、西洋に対して遅れているとされてきた。さらに、そうした「模倣」や「遅れ」は美術的な価値における「劣等」へと翻訳されることとなった。しかし、TRIO展におけるテーマ展示では、時間的な前後関係が消失するため、西洋と日本の作品の間に、オリジナルと模倣や派生といった見方がもはや生まれることはない。

「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(東京国立近代美術館)会場風景より、「分解された体」のセクション。左から萬鉄五郎《もたれて立つ人》(1917)、パブロ・ピカソ《男性の頭部》(1912)、レイモン・デュシャン=ヴィヨン《大きな馬》(1914) 撮影:木奥惠三 *9月14日〜12月8日にかけ、大阪中之島美術館に巡回

ここでひとつの例として「21 分解された体」を取り上げ、もう少し詳細に見ていくことにしたい。このセクションでは、パリ市立近代美術館からパブロ・ピカソ《男性の頭部》(1912)、大阪中之島美術館からレイモン・デュシャン=ヴィヨンの彫刻作品《大きな馬》(1914)、東京国立近代美術館から萬鉄五郎《もたれて立つ人》(1917)が出品されている。これは、「分解された体」という限定的なテーマのもとにキュビスムという美術動向を取り上げたセクションだと言うことができる。もし単線的な美術史の観点から見るならば、ピカソに始まるキュビスムが、ピュトー・グループのデュシャン=ヴィヨンを経て、日本におけるキュビスム受容の代表例である萬へと至るひとつの歴史的な流れをこれら3作品の関係に読み取ることになるであろう。だが、実際にこれらの作品が並置されているのを展覧会会場で見ると、そうした歴史的な流れを意識することはなく共時的に鑑賞するよういざなわれ、それぞれの作品の制作年も気にならなくなるため、キュビスムの「オリジナル」のピカソに対して日本の萬に「模倣」や「遅れ」、さらには「劣等」を見出すもない。ここでは歴史の感覚が失われ、それらが同時代に属するかのような不思議な感覚に襲われるのである。したがって、TRIO展は、主にモダンアートで構成されているが、作品配置という観点からすれば、コンテンポラリーな展示であると言えるだろう。

「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(東京国立近代美術館)会場風景 撮影:木奥惠三 *9月14日〜12月8日にかけ、大阪中之島美術館に巡回

単線的な美術史や、それに伴う「模倣」、「派生」といった思考を回避する方法は、テーマ展示以外にも存在する。アメリカの美術批評家・美術史家であるデイヴィッド・ジョーズリットはグローバル・アートヒストリーのひとつのあり方として、規範的な近代美術史が(西洋に)ひとつだけあって、それ以外の(たとえば、アジアや日本といった非西洋の)近代美術史は「周縁的」もしくは「派生的」であるととらえるのではなく、西洋を含めて複数の近代美術史が等価に存在するという美術史のあり方を主張し、それゆえ「世界の中でモダンアートが採用されていった際、場所によってそのクロノロジーが異なっていた事実をわきまえておかねばならない」(*3)と論じている。さらに、ジョーズリットは、

一見同等な視覚的語彙──油彩、墨絵、あるいはさらに社会主義リアリズムとポップ──を、ブロックバスター展覧会、ビエンナーレ、アートフェアといったアートのセッティングの中で隣どうしに並べて提示すると、似たりよったりに見えるかもしれないけれども、実は明確に異なり、たがい[に]矛盾してさえいる複数の歴史から育ってきたものなのだ[。](*4)

と述べている。ここでジョーズリットが提唱しているグローバル・アートヒストリーのあり方とは、どの近代美術史が正統であるとか優れているとかいったことはなく、ただ複数の異なる歴史が存在しているのであり、たとえ形式的には類似した視覚言語が用いられていても、地域によって美術史的・社会的文脈が異なっているため、視覚言語がそれぞれのケースにおいて持つ意義は必ずしも同じではないということなのである。それゆえ、美術史的・社会的文脈を抜きにして作品同士を単純に比較することはできない。そういった意味で、鑑賞者が作品の様々な文脈を検討することができる手立てを展示内で提供していないTRIO展は、ジョーズリットが主張するタイプのグローバル・アートヒストリーよりも、作品をその文脈から抜き出してヒエラルキーなしに縦横無尽に比較する世界美術論(正確に言えばその近代美術バージョン)の発想に近いだろう(*5)。したがって、TRIO展は、世界美術論的な発想とテーマ展示の形式を接合することによって、名作主義を保持しつつ3館のコレクションを並置することを可能にしたアクロバティックな展示であると言ってよいかもしれない。

「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(東京国立近代美術館)会場風景より、左からシュザンヌ・ヴァラドン《自画像》(1918、大阪中之島美術館蔵)、ピエール・ボナール《昼食》(1932頃、パリ市立近代美術館)、藤島武二《匂い》(1915、東京国立近代美術館蔵) 撮影:編集部 *9月14日〜12月8日にかけ、大阪中之島美術館に巡回

日本の美術館に求められるポストコロニアル、デコロニアルな視点

倉敷にある大原美術館は普段、コレクションの常設展示を行い、大きな企画展を行うことは滅多にない。だが現在、大原芸術研究所の設立を記念して、自らの豊かなコレクションを活用した特別展「異文化は共鳴するのか? 大原コレクションでひらく近代への扉」(以下、異文化展)が開催されている。異文化展でもTRIO展と同様、第2章「西洋と日本──西洋美術と日本美術の交差」において「多文化」「裸体」「労働」「古典」など8つのセクションからなるテーマ展示形式を採用している。ここでは、ポール・ゴーギャン《かぐわしき大地》(1892)、ポール・セリュジエ《二人のブリュターニュ人と青い鳥》(1919)、ピエール・ボナール《欄干の猫》(1909)、児島虎次郎《祭の夜》(1920)、梅原龍三郎《紫禁城》(1940)の5つの作品からなる「多文化」セクション、そのなかでもとくにゴーギャンと梅原の作品に焦点を当てて検討したい。

ポール・ゴーギャン かぐわしき大地 1892 キャンバスに油彩 大原美術館蔵

ポール・ゴーギャン《かぐわしき大地》は、ゴーギャンが初めてタヒチに移住した翌年に制作された作品である。タヒチは、1842年にフランスの保護領、1880年にフランスの植民地となっていたため、ゴーギャンが1891年にタヒチに到着した際には首都パペーテはすでにかなり近代化が進行しており、ゴーギャンはそれを嫌って、パペーテから45km奥まったところにあるマタイエア地区に移り、13歳の少女テハマナを愛人として一緒に暮らし始めた(*6)。本作のモデルを務めているのはそのテハマナである。もともとゴーギャンは移住先の候補として、タヒチに加えてトンキンとマダカスカルを考えていた。アメリカの美術史家アビゲイル・ソロモン=ゴドーが言うように、それら3つの土地はすべてフランスの植民地であり、ゴーギャンは、西洋文明から逃れようとしたように見えて、じつはフランスの植民地化の進路に従っていたのである(*7)奇しくも、一緒に展示されている梅原龍三郎《紫禁城》も似たような背景を持つ作品である。本作は言うまでもなく、北京にある紫禁城を描いたものであるが、北京は、盧溝橋事件(1937)以後すぐに日本軍によって占領されたため、1939年に梅原が初めて北京を訪問したときも、そして梅原がこの作品を制作したときも、日本軍の支配下にあった。そもそも梅原は、第2回満州国美術展覧会で審査員を務めるために新京へ行ったあとに帰路北京に初めて立ち寄ったのであった。このように梅原もまた、日本の帝国主義的拡張の進路に従うかのように満州国の新京、そして日本の支配下にある北京を訪れていたのである。

したがって、これら2つの作品の背景には、ただ「他文化」との交流や共鳴といった美名や、異国の美しい人物や風景にインスピレーションを受けてそれを描いたといったことでは済まされない、植民地主義的・帝国主義的(加えて、ゴーギャンの場合にはジェンダー的・性的)なヒエラルキーや暴力、支配が渦巻いており、むしろそうした権力関係こそがこれらの制作を可能にしているのである。それを「創造の源」といった言葉で表現してしまうならば、ゴーギャン・梅原とタヒチ・北京のあいだに存在する権力勾配を水平化してしまうことになるだろう。それゆえ、特別な注釈なしに「他文化」といった抽象的なテーマのもとにゴーギャンと梅原の両作品を括ることは、歴史的・政治的文脈を捨象することにつながり(先述のようにこうした脱歴史化や脱文脈化はテーマ展示を行う際に生じやすいデメリットのひとつである)、そこではポストコロニアルやデコロニアルな視点が欠落している。大原美術館に限らず日本の美術館も、美術や美術史という枠を超えてこうした視点に対する意識を高める必要があるのではないだろうか。

大原美術館外観

続く第3章「東西の交流──『白樺』、「民藝」を中心に」では、そのタイトル通り、雑誌『白樺』と民藝運動における東洋と西洋との交流に力点が置かれているが、少なくとも民藝の端緒においてはむしろ朝鮮文化との接触が大きな役割を果たしており、民藝にとってもともと東と東の交流のほうが重要であった。柳宗悦が陶磁器や朝鮮文化に対する関心を深め、「東洋回帰」を果すこととなったのは、朝鮮在住の浅川伯教がロダンの作品を見せてもらうために我孫子の柳邸を訪ねた際、土産として持参した「李朝染付秋草文面取壺」に柳が感銘を受けたことが大きなきっかけであった。そもそも第3章に限らず異文化展全体としても、主として西洋と日本の交流、もっと言えば西洋が日本に与えた影響に主眼が置かれている印象がある。先述のように第2章こそテーマ展示を採用し西洋の作品も日本の作品も等価に扱っているが、第1章「児島虎次郎、文化の越境者」では児島が3度にわたる渡欧を経て西洋の美術を学びその規範を内面化していく過程が時代順に描き出されているし(*8)、第4章「近代と現代の共鳴」では、ピカソに始まり、アンフォルメル、抽象表現主義を経て、日本の具体に至るという単線的な歴史の流れが復活している。

デイヴィッド・ジョーズリットは先述の論考において、具体と抽象表現主義の関係について次のように述べている。

具体はうわべだけ見ると「アメリカ型絵画」[=抽象表現主義]に似ているものの、20世紀中葉の日本のアーティストたちが物質やアートに対して表明した態度は、同時代のアメリカ人たちと著しく異なっていた。アーティストと素材との出会いに力点を置き、個体としての絵画をつくり出すというところ(抽象表現主義も依然としてこれを狙いとしていた)は犠牲にしたのである。(*9)

ただ形式的に見れば、たしかに具体はアメリカの抽象表現主義やフランスのアンフォルメルと類似しているし、実際に両者の間では様々な交流も行われていた。しかし、ジョーズリットが言うように、たとえ似たような形式的要素を用いていたとしても、アメリカ・フランスと日本では社会的・美術的文脈が大きく異なっていたため、その要素がそれぞれの文脈の内部で持つ意味もそれに応じて異なっていたのである。したがって、一方向的な影響や学習、模倣、もしくは形式的な類似のみをその関係に見出すことはできない。だが、ピカソからアンフォルメル、抽象表現主義、具体へというリニアな歴史としてそれが提示されると、西洋から日本への影響や派生がそこに必然的に読み取られてしまうことになるだろう。

2つの非西洋の運動を結合し、瑞々しく蘇らせたシアスター・ゲイツ

シアスター・ゲイツは森美術館での個展において、自らの「アフロ民藝」という概念を用いて、1960年代にアフリカ系アメリカ人のあいだで始まった「ブラック・イズ・ビューティフル」と、いまからほぼ100年前に日本で生まれた民藝というまったく歴史的・文化的文脈も異なる2つの運動を結びつける提案を行っている。いまでこそ民藝は、ありふれていて古びたものにしか見えないかもしれないが、1925年末に柳宗悦らによって新たに発明された際には、非常に革命的な意味合いを持つ概念であった。柳は、ただ鑑賞のために床の間などに飾られる高級品である「上手もの」よりも、名も知れぬ無学な職人によって大量に手作りされた普段使いの廉価で素朴な「下手もの」のほうが美しいと主張したのであり、それは工芸における当時の常識を覆す、価値の一大転換の行為であったのである。さらに、先述のように民藝運動と関わりの深い朝鮮は、日本の植民地であったため、日本よりも遅れていて劣っていると考える人が日本では多かったが、柳はそうした価値評価を反転させ、李朝時代(朝鮮王朝時代)の陶磁器を中心に、当時蔑まれていた朝鮮文化を高く評価し、「朝鮮人を想う」(1919)や「朝鮮の友に贈る書」(1920)を執筆して、三・一独立運動(1919)に対して加えられた日本の過酷な弾圧や朝鮮での植民地政策に対して抗議の声を上げた数少ない日本人のひとりであった(*10)。

シアスター・ゲイツ。展覧会会場にて 撮影:編集部

いっぽう、「ブラック・イズ・ビューティフル」運動もまた、白人の美的基準によれば醜いとされてきた、黒人の身体的特徴を含むブラックネスを称揚し、ブラックこそ美しいのだと主張する運動であった。黒い肌やアフロヘア、さらには黒人の文化は、白人のものに対して劣っていると蔑まれ、黒人もまたそうした白人的価値観を内面化してきたが、「ブラック・イズ・ビューティフル」はその価値観を反転させ、ブラックネスを隠すことなくその美しさを黒人自ら称えることを可能にしたのである。民藝、「ブラック・イズ・ビューティフル」ともに、劣っていて醜いとされ貶められてきた非西洋の文化を称揚し、それこそが美しいと主張した一大価値転換の運動であると同時に「植民地主義的ヘゲモニーへの抵抗」(*11)でもあって、それらの点において両者は結びつきうるのである。

「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」(森美術館)会場風景 撮影:編集部

このようにしてシアスター・ゲイツの「アフロ民藝」は、いままでまったく関係を持つことはなかったがそうした共通点を持っている2つの非西洋の運動を、西洋を介することなく結合させ、ほぼ100年前に生み出された民藝という概念と50年ほど前に始まった「ブラック・イズ・ビューティフル」運動を瑞々しく現代に蘇らせている。こうした過去への向き合い方は、過去から現代へという単線的な歴史観とも、複数の異なる歴史を想定する考え方とも、歴史の感覚を捨象したテーマ展示的な現在主義とも違っている。むしろそれは、過去の出来事が現代の我々にとってアクチュアルなかたちで不意に立ち現れ、未来の道をかすかに指し示すような、リニアでない歴史観に基づいているのである。

「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」(森美術館)会場風景 撮影:編集部
「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」(森美術館)会場風景 撮影:編集部

「アフロ民藝」展には、ゲイツの「アフロ民藝」概念を相関図として象徴的に表したかのような、その名も《アフロ⺠藝相関図》(2024)という平面作品が展示されている。そこには様々な人や事象の名がアルファベットで書かれており、中央には大きく「アフロ民藝」と記され、少し小さな文字で「ブラック・アーツ・ムーブメント」や、「(マーカス・)ガーベイ」、「木喰」、「アルテ・ポーヴェラ」、「濱田(庄司)」、「ウエストサイド」、「アンジェラ・デイヴィス」、「柳(宗悦)」などといった名がその周りを囲んでいる。それらが同一平面上に散りばめられて配置されているため、鑑賞者は、それぞれの年代順や分野、場所にかかわらず、それらの名を自分なりのやり方や順番で自由に何回も関係づけていくことができる。たとえば、果たしていったい誰が、ブラックパンサー党や刑務所廃止運動、パレスチナ解放運動に関わってきたブラックの活動家で学者のアンジェラ・デイヴィスと民藝運動の創始者である柳宗悦とがこのように並置され結びつくことを想像し得ただろうか。一見何気ないこの黒い平面の上では複数の時間や場所がラディカルに接合し続ける動的な歴史が繰り広げられているのである。

*1──柄谷行人『定本 柄谷行人集 第四巻』岩波書店、2004年、135頁。
*2──吉田憲司『文化の「発見」——驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで』岩波書店、2014年(岩波人文書セレクション)、27頁。
*3──デイヴィッド・ジョーズリット「5 グローバル化、ネットワーク、形式としてのアグリゲイト」近藤学訳『ART SINCE 1900 図鑑 1900年以後の芸術』東京書籍、2019年、51頁。
*4──同前、53頁。強調と[]内の付記は筆者。
*5──「世界美術」に関しては以下の文献を参照。
ハンス・ベルティング「グローバルアートとしての現代美術──批判的評定(前)」中野勉訳『ゲンロン』3号、2016年、191頁。
*6──廣田治子「ゴーギャンのプリミティヴィズム再考」、永井隆則編『フランス近代美術史の現在──ニュー・アート・ヒストリー以後の視座から』三元社、2007年、256頁。
*7──Abigail Solomon-Godeau, “Going Native: Paul Gauguin and the Invention of Primitivist Modernism”, in The Expanding Discourse: Feminism and Art History, edited by N. Broude and M. Garrard, (New York: Routledge, 2018), p. 320.
*8──本章では渡欧体験だけでなく、確かに中国や朝鮮、エジプトへの旅の重要性も同時に描かれているが、それもまた、単に非西洋への関心というよりも、ヨーロッパ的なオリエンタリズムを児島が内面化した結果であると捉えた方がよいだろう。加えて、ポストコロニアルな観点からすれば、日本と朝鮮との関係を考えると、児島の《朝鮮の娘たち》も問題含みの作品であると言える。
*9──ジョーズリット「5 グローバル化、ネットワーク、形式としてのアグリゲイト」、51頁。[]内は訳者による注。
*10──「悲哀の美」論など、柳の朝鮮に対する考え方や態度には少なくない疑義や批判が寄せられているのは確かであるし、実際その多くは妥当なものであると言えるだろう。しかし、柳の特権的な立場(宗悦の父柳楢悦は海軍少将、さらには貴族院議員にまでなり、朝鮮総督斎藤実のかつての上司であった)もあったとはいえ、当時、朝鮮における日本の植民地政策に対して公然と異議を唱えることは大変勇気を必要とする行為であり、非常に稀であったこともまた確かである。
柳の朝鮮芸術論に対する批判についてまとまったものとしては、以下の文献を参照のこと。
加藤利枝「韓国人による柳宗悦論の研究──柳の朝鮮芸術論への評価・批判の概況」『言葉と文化』第1巻、2000年。
*11──シアスター・ゲイツ「アフロ民藝」、『シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝』カタログ、2024年、8頁。
柳や民藝運動に関してはその植民地主義的な眼差しもまた指摘されることが多い。そうした批判は非常に重要であるが、その重要性を認めつつも、「アフロ民藝」という概念は、あえて脱植民地主義的な可能性を積極的に民藝に読み込もうとしており、本論もそうした立場を取っている。
柳や民藝がはらむ帝国主義・植民地主義に対する批判として以下の文献を参照のこと。
長田謙一「美の国NIPPONとその実現の夢──民芸運動と「新体制」」長田謙一・樋田豊郎・森仁史編『近代日本デザイン史』美学出版、2006年。
菊池裕子「「工芸」から「この国」の「日本美術史」を脱帝国主義化する──ジェンダー、伝統、サステナビリティ」小田原のどか・山本浩貴編『この国(近代日本)の芸術──〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』月曜社、2023年。

菅原伸也

菅原伸也

すがわら・しんや 美術批評・理論。美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アート、そしてアートと政治との関係を主な研究分野としている。主な論考に、「タニア・ブルゲラ、あるいは、拡張された参加型アートの概念について」(ART RESEARCH ONLINE)、「リヒター、イデオロギー、政治––––ゲルハルト・リヒター再読」 (『ユリイカ』2022年6月号)がある。最近の論考には、「現代的な、あまりに現代的な──「ユージーン・スタジオ / 寒川裕人 想像の力 Part 1/3」展レビュー」(Tokyo Art Beat)や「同一化と非同一化の交錯──サンティアゴ・シエラの作品をめぐって」(『パンのパン 04下』号外としてKindleとBOOTHで先行発売中)など。現在、アナ・メンディエタに関する英語の研究書を翻訳することを目指して有志で研究会を行っている。