朝ドラ『虎に翼』が大人気だ。基本的には法曹界を舞台にしながら、 “職業婦人”として、また主婦として忙しく働く女性たちにスポットを当てた本作は、現代の視聴者に気づきや驚き、共感などを持って受け止められている。
ドラマが進展するなか、物語はすでに戦後に入った。主人公・寅子と親しかった花岡悟判事が亡くなり、その未亡人として再登場した奈津子がじつは洋画家で個展を開催したことが判明(52話)。そして55話では、それまでのエピソードを回収するかたちで奈津子が描いた絵画が印象的に登場し、視聴者の涙を誘った。
様々な時代考証がなされ、歴史的な事実に基づき制作されている本作だが、当時における女性の画家の有り様や奈津子の絵画の描写には、どれほどリアリティがあるのか。戦前から戦後にかけての女性画家をジェンダーの観点から研究する美術史家の吉良智子さんに話を聞いた。
──55話で奈津子が描いたチョコレートの絵が飾られたのを見て大泣きしつつ、はて?この絵はどれくらい“リアル”なのだろう……と疑問を感じ、思わず吉良さんにご連絡してしまいました。吉良さんも『虎に翼』をご覧になっていたそうですね。
吉良 はい、毎日欠かさず見ています。基本的には好感を持っていて、自分の身の回りに起きている実際のことと、歴史的に公的な視点から見た女性の歩みとを照らし合わせつつ、楽しんで見ています。
戦前は女性に選挙権がないといった基本的なことは知っていましたが、当時結婚した女性は民法の説明などにおいて「無能力者」とされていたことは初めて知り、その言葉に驚きました。離婚しても女性は親権が取れないといった当時の状況も取り上げられていましたが、これは現在議論されている「共同親権」の話とも通じるものです。当時の法や権利に関する事柄のなかから、脚本家の方が現代のジェンダーの問題と関わるものをピックアップしていると感じます。
──法曹界を主な舞台にするなかで、花岡判事の未亡人・奈津子がなんと画家として登場しました。
吉良 (52話の新聞記事に)個展に関する記事が映ったのを見て、ただそれだけの登場だと思っていたのですが、55話までひっぱっていて驚きました。
──劇中の新聞記事を見ると「判事なるが故にヤミ買を一さい断ち死の行進をつゞけた花岡悟氏(当時三十二歳)の未亡人奈津子さん=佐賀県杵島郡白石町=の個展が十八日から銀座『もりみ・ぎゃらりぃ』でふたをあけた」こと、花岡の法曹界の関係者が来場するなど「人気を呼んでいる」こと、「作品は二十点」であることが書かれています。
ドラマ放送後に知ったのですが、餓死という悲劇的な死を遂げた花岡のモデルとなった山口良忠判事は実在の人物で、実際にヤミ米を食べることを拒否して1947年に亡くなりました。そして、その配偶者で未亡人となった山口矩子が実際に個展を開催し、20点中8点を最高裁判所が買い上げたということも実際にあったそうですね。
吉良 明治大学法学部教授の村上一博さんによる解説に詳しいですが、「山口の死去後に矩子夫人(父親は元大審院判事の神垣秀六)の個展が開かれ、最高裁判所は、出展された8点の絵画を買い上げて哀悼の意を表しました(ドラマでご一緒している清永聡NHK解説委員によると、この絵画は現在も最高裁判所に保管されているのだそうです)」「矩子夫人と家庭裁判所とは深い繋がりがあり、彼女は昭和36年から東京家裁の調停委員を勤め、彼女が描いた無料調停相談のポスター(鳩が蒼空を飛翔する絵)が全国の街々に貼られた」と書かれています。
現在、山口矩子については詳しくわからないのですが、花岡奈津子が画家であることは事実に則した設定でしたね。ただ、矩子の個展の開催が実際は1952年であったのに対し、作中では1948年になっています。またドラマで登場したチョコレートの絵については、ちょっと違和感を覚えました。
──どういうところにでしょうか?
吉良 あの絵は、作中でかつて寅子が持っていたチョコレートを花岡の子供たちに食べさせるようにと花岡に手渡したエピソードを、再度思い出させるためにドラマに登場しましたよね。生前の花岡が子供たちにそのチョコレートを分け与えた場面を奈津子の目線で描いたものだと思われます。
どこか絵本の挿絵のようにも感じられます。色使いについてはとても穏健で主流のアカデミーらしさを感じますが、モチーフの切り取り方がわかりづらい。というのも、主題となる場面を具体的に描くのではなく、身体の一部を切り取って描くというのは「前衛」の手法なんですね。それでいて、慎ましい生活を描くという意味ではプロレタリアアートっぽい。穏健さと前衛性とプロレタリアアートというちぐはぐさに、当時の絵画としては違和感を覚えました。
──なるほど。寅子が花岡にチョコレートを渡したことを視聴者は知っているから、あれは花岡とその子供を描いたと推測できますが、そうした前提を持たなければ、あの絵は米兵が子供にチョコレートを渡している様子だと思う人も多いのではないかと思いました。
吉良 確かに、終戦直後においてチョコレートは米兵から子供に手渡されるものとして様々な表現で描かれ、それを通して私たちは学習しているので、そういう見方も生まれそうですね。顔を描かないことによって、やはり主題としては曖昧になっています。
──父と子を描いた主題についてはどうでしょうか。
吉良 これも珍しいですね。母子像というのはキリスト教の聖母子像の伝統からも、西洋絵画においては一般的で、日本の男性の洋画家たちも描いています。でも、父子像はほとんど描かれてきませんでした。母子像が多いのは、やはり描き手が男性であるということが大きく、逆に父子をまなざす女性の画家は少なかった。19世紀印象派の画家ベルト・モリゾなどヨーロッパの女性の近代画家には父子像を描いたものがあるのですが。
──モリゾの父子像は父と子が戯れる情景がよくわかるように描かれていて、やはり奈津子による手のクローズアップはそれと比べても異質さがありますね。とはいえ、なぜ西欧の女性画家は描いた父子像を、日本の女性画家は描かなかったのでしょうか?
吉良 やはり制約や抑圧がより強かったということがあるように思います。山崎明子さんによる戦前の美術教育に関する研究によると、当時の小学校の美術(図画工作)の教科書は、男子用と女子用が別なんです。
──へええ!
吉良 いまと違い、写生などではなく「臨画(りんが)」といって、手本の絵を忠実に模写することが行われていました。女子用の教科書で手本とされた絵は、少女の顔や妙齢の女性の顔、女の子の持ち物など。この段階から、男性の顔を描くというようにはなかなか至らないようになっていたと思います。いっぽう男子の教科書は、農耕道具や、戦争にまつわる砲弾、幟旗などの絵が掲載され、明確なジェンダー差があります。
──子供時代から男子と女子とに分けられて違う教育を受けていたということですが、戦前から戦後にかけて、女性が職業画家になるというのはやはり困難だったのでしょうか?
吉良 ドラマでも女性が結婚すると「無能力者」とみなされるという話があり、結婚したくないと考える女性たちが登場しますが、実際に当時の女性画家たちの歩みを見ると、「結婚(縁談)を蹴って東京に出てきて画家になった」というような話も多いんですね。そのあたりのリアリティが、寅子たちのドラマを見て身に沁みるところがありました。
──並々ならぬ決意と努力や資本が必要であったと。当時は女性の画家は「女流画家」と呼ばれていましたね。
吉良 画家というのは当然男性であるという前提のもと、女性の画家を有徴づける言葉として“女流”画家という言葉が使われていました。女流というのはすなわち二流、三流であるというような価値観です。
戦前は東京藝術大学の前身にあたる東京美術学校には男子しか入学を許されず、それに対峙するかたちで1900年に私立女子美術学校(現在の女子美術大学)が設立されました。しかし、当時日本画は良家の娘の花嫁修行として推奨されていましたが、基本的に洋画は男性の領分とされていたので、女性が洋画を学ぶことのハードルは高かった。一部、神戸のような海外の文化への関心が高い地域では、女性も趣味の範疇で洋画をやることをよしとされていた部分はありますが、そこから職業画家になるのはまた高いハードルがありました。
──女子美といえば、そこで指導を行い、女子への美術教育に熱心に携わった画家・岡田三郎助(1869〜1939)がいます。岡田は花岡奈津子/山口矩子と同様に佐賀県出身ですね。岡田は東京・恵比寿に画塾「女子洋画研究所」を主催し、そこでは三岸節子(1905〜1999)ら、のちに大成する女性画家たちが多く学んでいました。奈津子・矩子より少し上の世代ですが、戦前から女流画家として活躍した甲斐仁代(1902〜1963)は同じく佐賀県出身で、画家を目指して単身東京に同郷の岡田を尋ねたそうです。それを思うと、奈津子も同郷の岡田のもとで学んだり、そこでひょっとすると三岸と出会っていたりするのかな……、なんて妄想も膨らみます。
吉良 物語上の奈津子は佐賀を出て東京で暮らした経験があるか定かではないですが、矩子の父は元大審院判事でしたから、矩子も若い頃東京に暮らした可能性もありますね。
──矩子は個展で20作中8作を最高裁判所に買い上げられたとあり、ドラマの奈津子の絵も同様に法曹界の人間に買い上げられています。戦後すぐに女性画家が個展を開き、作品が売れるといったことは、どれだけ一般的だったのでしょうか?
吉良 無理だったわけではないでしょうが、かなり難しいことだとは思います。そもそも奈津子はシングルマザーになっており、そういう女性が職業画家として仕事を続けていくことがまず困難な時代です。実際に、三岸節子は夫の好太郎と死別したとき3人の子供がいましたが、「画家なんてやめて子供を養うために職業婦人になりなさい」と周囲からプレッシャーをかけられていました。すでに画家として活躍し始めていた三岸ですらこうですから、絵で食べていくのは難しいことでした。
また、ドラマではこの個展が1948年という設定に変わっていますが、実際に矩子が開いた個展は1952年で、それならまだあり得るかなと思います。
──1948年というのはまだ戦後間もないですよね。実際にはこの時期に美術の展覧会は行われていたのでしょうか?
吉良 まだ非常に限られる時期だと思います。じつは、日本で戦後いちばん最初に個展をしたのは三岸節子で、1945年9月に銀座の日動画廊で開催されました。
──終戦から1ヶ月! 凄まじいエネルギーですね。
吉良 三岸節子はさらに1947年に女流画家協会を設立し、ほかの女性画家たちと展覧会を開催しています。また女性画家では1948年に丸木俊が個展を開催しており、これも早い例です。三岸も丸木も戦前から名の知られた画家であったことは大きいと思います。
──男性の画家たちは従軍していたことや、戦争画に関わった問題などで、なかなか戦後すぐは展覧会を開催できなかったという事情もあるのでしょうか。
吉良 そうですね。これはあくまで推測になりますが、男性の画家のほうが、終戦による心理的落ち込みも大きかったと思います。また男性たちは戦前から所属していた美術家団体を再建する必要もありました。たとえば二科会は1946年に再建、第31回展を開催しています。
──戦後、女性の画家たちの状況はどう変化するのでしょうか?
吉良 戦後は日本国憲法によって男女は平等だとされ、女性に選挙権が与えられるなどの変化がありました。小勝禮子さんの研究によると、女性画家たちも一種のブームのように注目を集めました。ただ、それが落ち着くと、結局は少数派として扱われ、美術界のなかで意思決定を下すようなポジションにはほとんど就くことができず、不均衡な状況は続きました。
──想像として、ドラマの奈津子はこのあとどうなっていくと思いますか?
吉良 1950年代以降の美術史においては、若い世代による前衛の潮流が勢いを持ちます。しかし奈津子の画風はアカデミックよりなので、年齢的にも前衛のほうに行くことはないのではないかと思います。前衛は絵の買い手も付きづらいですから。たぶん、日展などの伝統的な美術団体に所属して、奨励賞などを狙っていくのではないでしょうか。アートの世界で何か新しいことをやって歴史に名を残すというより、ふたりの子供を養うためにもしっかり絵を売って、現世的な成功を目指すのかな。あとは挿絵を描いたり、細かな仕事の依頼を受けたりしながら制作をしていくとか。
──思いを馳せてしまいますね。
吉良 本当に、幸せに生きていってほしいです。
──どうもありがとうございました。
吉良智子
きら・ともこ 東京都生まれ。1998年に日本女子大学人間社会学部卒業。2000年に学習院大学大学院人文科学研究科修了。2005年~2008年神奈川県立近代美術館非常勤学芸員、2010年千葉大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。現在、日本女子大学学術研究員、東洋英和女学院大学ほか非常勤講師。主な著書に『戦争と女性画家 もうひとつの「近代」美術』(ブリュッケ、2013)、『女性画家たちの戦争』(平凡社新書、2015)、また、同著をもとに編集・制作し、新規調査で判明した事項を修正・加筆した著書『女性画家たちと戦争』(平凡社、2023)がある。『戦争と女性画家』において女性史青山なを賞を受賞(2014)。専門は近代日本美術史、ジェンダー史。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)