「鴻池朋子展 メディシン・インフラ」が青森県立美術館とその周辺野外、国立療養所松丘保養園 社会交流会館で開催される。会期は7月13日〜9月29日。企画は青森県立美術館学芸員の奥脇嵩大。
本展は高松市美術館(2022年7月16日〜9月4日)と静岡県立美術館(2022年11月3日〜23年1月9日)で開催されてきた「みる誕生 鴻池朋子展」という「リレー展(巡回展ではなくこの名称が採用された)」の最終地だが、静岡から1年半を経て、これまでとは違う内容になっている。もちろん、「みる誕生」から引き継がれる作品や作家の関心等はあるが、この間の世界の変化、作家の変化、関わる人々の変化、そしてこの青森県立美術館との関わりなどによる必然的な結果として、また新たな展覧会が誕生したと言えるだろう。
青森県立美術館に辿り着くと、まず入口前に広がる原っぱで双頭のオオカミのベンチ/彫刻が出迎えてくれる。腰掛けて自撮りをする人(私も真似してみたが画角が難しい)、学校の引率で来た小学生らしき子たちが「触っていいのかな?」とおそるおそる近づき、次第にわっと取り囲む姿などを観察しながら、内覧会が始まるのを待っていた。青森は雲もあるが晴れていて、風が涼しい。東京から来た身にはあまりに心地よくてしばらくこのまま屋外にいたいくらい。
本展をずっと心待ちにしてきたが、美術の制度や私たちの生の感覚をラディカルに変えようとしてくる鴻池さんの新たな展示に、私は立ち向かえるのだろうかという緊張感も感じていた。道中に読んだインタビュー(*)で「こうした時代に私ができるのは、『あとはあなたの身体しかないですよ』というギリギリのところまで背中を押してあげること。『皮膚を晒すしかない』ところまで持っていくのが私の役目です」と語っていて、ワクワクと同時にめちゃくちゃ怖いなと身震いした。あとは私の身体しかない、か……。
時間になり館内に入ると、マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」のための巨大な背景画が展示された広い吹き抜けホールに、たくさんの車椅子が佇んでいる。これは全国の美術館から借用されたもので、よく見ると一つひとつ型や年季の入り方が違い、「横浜美術館」「京都区立近代美術館」などの札が付いている。とくに強く促すような説明があるわけではないが、鑑賞者はこの車椅子に乗って展覧会を回ってみてはどうですか、ということらしい。「まず身体を変えてもらう」。作家はそう意図を語る。
東日本大震災以降、それまでの自分の作品に「一気に興味が無くなっている」ことに気付いたという鴻池。それまでの材料や技法がしっくりこず、「体に合う画材を探して旅に出るように」なった(引用は展示内の年表より)。そうした旅のなかで、活動の中心に据えられたのが“身体”であり、その身体が根を下ろす“足元”についてもう一度考えること、そして“視覚偏重”とは違う世界の認識の仕方を探ることを、近年の作家は周囲の人を巻き込みながらやろうとしていると思う。
高松市美術館では、「眼ではなく、手で鑑賞される方々のための作品であり、手がかりとなる大事な動線」として館内に紐が張り巡らされた。鑑賞者の身体とその動きに働きかけるこうした仕掛けが、今回は車椅子なのだ。車椅子を使おうと思ったきっかけは、高松市美術館で木下知威 (歴史家/障害史・建築学)と行った「筆談ダンス」というイベントで、美術館の片隅にあった車椅子に鴻池が戯れに乗ってみたこと。体がフワッと軽くなり、違う体に拡張していくような喜びを感じたという。
私は一巡目はまず歩いてまわり、そのあとに車椅子に乗って回ってみたが、実際に感覚も、気づくところも変わった。車椅子についてはもう少し後述するとして、ひとまず会場のなかに進みたい。
囲み取材で鴻池は、数年前に本展が決まってから青森県立美術館を訪れ空間を見た際に、「土でできているなら掘りたいな、と思った」と語り始めた。青木淳による本館は隣にある三内丸山縄文遺跡の発掘現場から着想を得て設計され、床と壁に土が用いられている。「掘りたいな」……まるで無邪気な子供みたいな素朴な欲求だが、相手は美術館建築。普通ならあり得ない発想に驚かされた。「発掘現場のトレンチ(壕)から発想して、土でできた建築なら、掘るのが真っ当な返し方だろう」(鴻池)。すぐに青木のもとへ向かい、床を掘る許可を取り付けたという作家は、実際に今回美術館にいくつか穴を掘ってそこに動物の糞(を模ったもの)を置いた。アライグマやツキノワグマ、シカなど、人間と自然の「境界を行き来している動物たち」だ。その痕跡としての糞は、人間にとっての文字と同じだと作家は語る。
また、会場には薄いビニールシートが仕切りとして配され、頑強な美術館建築に柔らかな膜が加えられている。壁に「肺 Lung」の文字が見え、空気の動きによってほのかにこの膜が動くと、空間全体が呼吸しているようにも感じられる。やろうと思えば破いたり通り抜けたりできてしまうようなこの膜に、しかし鑑賞者は方向づけられ、確実に内部へと誘き寄せられる。
小さめの部屋には《物語るテーブルランナー》が。これは2014 年から続くプロジェクトで、旅先で個人の物語を聞き取った鴻池が下絵を描き、語り手たちがそれをランチョンマットに仕立てるというもの。最近本プロジェクトはアーティストの弓指寛治に受け継がれている。
会場内のところどころに不思議な動物のかたちをした「指人形」が置かれ、鑑賞者の道案内をするかのよう。広い展示室の天井からは、振り子の作品や円形に配置された狼の毛皮が開閉する機械仕掛けの作品が吊られており、思わず息を呑む。シンプルな仕掛けだが、その動きが心地よくずっと見ていられる。
スロープには鴻池の作家としての歩みを紹介する年表を展示。でも展覧会や作品を中心に“アーティストらしい”経歴を紹介するものではなく、むしろその周囲にあったもの、たとえば展覧会の前後でどんなことを思ったかとか、震災などから影響を受けた作家の心身の揺れや変化、動きに焦点が当てられているのが面白い。
その先にある展示室にはたくさんのベッドが配置され、上にかけられたオオカミのフワフワ毛皮や黒々ツヤツヤしたツキノワグマの毛皮が「触ってみる? 寝転んでみる?」と鑑賞者の体を誘惑する。普通の展覧会では「作品は触ってはダメ」と教育されている私たちの硬直した頭と体を弛ませるように、本展では作品に優しく触れることが許されている。監視員さんたちにとっては緊張もあるだろうが、「壊れないように大事に触るという力加減を(鑑賞者と)監視員さんと探っていく展覧会」だと鴻池。「禁止」という思考停止のその先で、作家と鑑賞者と監視員、そして美術館による共犯関係を築くということかもしれない。
ほかにも触り心地のいい布に刺繍が施されたベッドカバーがかけられている。これらは近年、ウクライナをはじめとする世界中の戦争詩を読んできた作家が、その言葉に力にやられ、体が動かなくってしまい、「詩をなんとか体の外に出して、この手に触れられるものにしないと! という危機感」(会場の説明文)から生み出されたものだ。刺繍のモチーフは、各地の戦争で家を追われた難民や動物たち。「詩をこの手で触れられるものにする。そういうヒリヒリとした摩擦、心ではなく手触り」(同上)。
また展示室には、同じく刺繍が施されたカーテンが吊られている。作家は現在、能登半島地震の被災地の仮設住宅に設置するために、珠洲市の人々らとともにカーテン作品を制作中だ。これまでも様々な人と手芸を介したプロジェクトを行ってきた作家が、布の調達や縫製、刺しゅうなどを全国の知人に依頼し、約40人の“手弁当”で制作されている。
高松での展示では「手でみ(看)る」という作家の言葉が印象に残ったが、近年作家がやろうとしているのは、視覚や言葉という速くて強い伝達方法によらない、手で確かめ、手繰り寄せるような世界との関わり方やコミュニケーションなのだろう。
展覧会タイトルにもなっている「メディシン・インフラプロジェクト」(詳細)とは、作家が住む東京から青森県立美術館までの道中にある個人宅やカフェなどの場所に、鴻池の作品を設置し保管してもらいながら展示をするというもの。
これまで各美術館で展示されてきた大型作品《皮トンビ》は相馬市のある裏山に設置されたが、そこで破損し、現在は美術館で一時的に“休憩”している。東京から青森といっても、作品が点在するルートは直線的な最短距離ではない。設置場所は北海道にもあり、すなわち本州から海を越えて北海道を迂回して青森まで来ている。本プロジェクトの構想を記した手書きマップを見れば、さらに日本を飛び越えてユーラシア大陸、アリューシャン海峡のその先をも可能性としてとらえているようだ。
作品が大事なものならしまってないで、持ち出して使ってもらおう。こうした作家の態度は、作品を保管する役割を持ちながら、収蔵庫が満杯だという問題に悩まされる美術館制度への揺さぶりでもある。同時に、パワーゲーム的なアートマーケットにも疑問を投げかけ、売買だけに限定されない作品のやりとり、たとえば一時的に貸す、託すといったほかの可能性を探る試みにもなっている。アートのインフラや美術館制度を頭や口で批判するのは簡単だが、鴻池は自分の体を使ってそこに切り込み、様々な人とともに新しい方法をトライしている。このように新しい「術(すべ)」を生み出し、それを共有することこそ、アーティストの創造性であり仕事なのだと思わずにおれない。かっこいいし、しかもなんだか楽しそうだ。
タイトルは、メディシンマン(アメリカ先住民の祈祷や治療を行う人)と関係があるのかと作家に聞くと、「直接的に関係はないけれど」と前置きしつつ、以前狩猟採集をする友人が鴻池の手を労ってカナダ・ユーコンの先住民の薬草をくれたという経験を聞かせてくれた。そして、「そのときから“メディシン(薬草)”という言葉が心にあったのだけど、そういえば同じように旅の先々でいろんな人と出会って、いろんなものをもらって、命拾いしてきたことは多かったなと思った」という。そして東京から青森へのルートも、「新幹線のようなすでにあるインフラで目的に向かってダイレクトに答えを出していくのではなくて、途中下車したり、ものをもらって食べたり、自分なりの小径を歩いて感じていく」、そんな旅を言葉で言うなら「メディシン・インフラ(薬の筋)」になるだろうと思ったそうだ。
「そういう流れの途中、折り返し地点に美術館がある。だから大事なランドマークではあるんだよ、無くなっていいものではない。でも観光地に向かうようなこととは違う、人が生きて辿っていく、そういう道を探り出したいと思った」。
「目は速すぎる。視力を使って判断すると、目は先に目的地に辿り着いてしまう。だから速度としては手で探っていくような道なのかもしれない。手を使ったり、匂いを嗅いだりしながら辿っていく……そういうセンサーをみんなが欲している感じはする」。
ところで、館内に掲示されている「メディシン・インフラ」に関する作家のテキストを読んで、大笑いしてしまったところがある。鹿児島で知り合い親しくなった猟師とともに、罠にかかった鹿を解体して食べたとき、腹に落ちていくその肉を不思議な薬草(メディシン)だと感じたこと。そして「罠」という仕掛けと、作品を介して鑑賞者をぐっと引き寄せる「展覧会」の仕組みが似ているという気づき。そのあと。
「けれども、猟と展覧会とでは完全に違うことが一つありました。それは、作品を介してやってくる観客は『食べられない』ものである、ということでした。これは決定的な違いでした」(鴻池のテキスト)
えー! 鴻池さん、ひょっとして私たちのことを食べようとしていた? それで「あ〜あ、動物と違って食べられないのか、残念。おなかがすいたなあ」って思ってたの? 怖いよ! まるで宮沢賢治の「注文の多い料理店」だ。どうりで“体内”みたいな展示室だと思ったし、よく見たら壁にもご丁寧に「罠」って書いてあるじゃないか。恐ろしい、可笑しなアーティストだなあ……。
さて、本展で印象的なのは、鴻池が本展を典型的なアーティストの個展ではなく、自身に影響を与え一緒に何かを作ってきた人たちの展覧会として構成していることだ。他領域の学者・研究者はもちろん、《物語るテーブルランナー》やカーテン作りに関わった人々、後述するハンセン病患者・回復者の画家たち。そして学芸員。「プロジェクト・ラボ 新しい先生は毎回生まれる」というセクションには鴻池の作品を媒介として独自の展開を行う18組が、フリーマーケットの出店みたいに紹介されている。ここに登場する人々は、ある意味で鴻池の罠にかかった人たちなのかもしれない。そしてその人たちから受け取ってきたものが鴻池の「メディシン」となり、これまで命をつないできたということか。
本展で車椅子を全国の美術館から借用するにあたり、「中継ぎ役」として高松市美術館の毛利直子学芸員が全国の美術館に依頼をするなど奔走した記録も「プロジェクト・ラボ」に置いてある。あまり目立たないかたちでテキストがあるだけだが、ぜひ読んでほしい。
作品の貸し借りには慣れている美術館だが、車椅子は備品である。当然、他館への貸し出しなんて経験したことがないし、総務部など館内中を巻き込んでの検討となる。保険をどうするか、利用状況はどうかなど、美術館ごとに様々な状況と難しさがあったこと。協力を仰いだ他館の学芸員から、「このプロジェクトが障がい者の追体験的なことにならないように願う、という実直な感想」を受け取ったこと。
この車椅子は、訪れた鑑賞者の身体を変えるだけでなく、「美術館」という大きな体をも変えるものだった。普段は多くの美術館職員すら気に留めてない車椅子にアプローチすることで、全国の美術館の凝り固まっていた体(制度や概念)を見直させ、動いていなかったところを動くようにする。小指の先に鍼を打つことで、全身の血の巡りを良くさせるみたいに。
(ところで普段は歩いている人にではなく、日常的に車椅子に乗っている鑑賞者に対し「身体を変える」ように働きかけるにはどういうことが可能なのか。そもそもそういう提案をすべきなのか。こうした課題はまた個々で考えなければいけないと思う)
もうひとつ印象的だったこととして、開幕日である7月13日午前中に「プロジェクト・ラボ」の展示室内で行われた「旅する学芸員と指人形一座」というワークショップがある。中心となったのは、高松市美術館の学芸員、石田智子と福田千恵だ。鴻池が作った指人形を使って、ふたりによるお手製の紙芝居で鴻池の人生ストーリーをお話しするというもの。紙芝居は自主的に制作したもので、鴻池にその存在が知らされたのも直前だとか。リレー展でつながっているとは言え、他館の学芸員が何日も青森に滞在し、いろいろと独自に準備や創作をし、展示室で“好き勝手”やっている。その自由さ、楽しさに、私は胸を打たれた。
行政的なルールや予算的な問題もあるだろうから普通はこんなことできないし、きっと知恵と工夫で様々なことをクリアしてここまで来たのだろう。これこそが鴻池による「メディシン」の効能であり、新しい「インフラ」だ。美術館やそこで働く人たち、その仕事にふれる多くの人々をじわじわと変えている。作品1点1点というより、このような人々の「関わり方」「仕事の仕方」なんなら「生き方」みたいなものの現れにこそ、本展の創造性が爆発している。展覧会場の様々なところに、鴻池が人々と交わしたメールがプリントアウトして置いてあるのも象徴的だ。
では、私はどうだろう? 自分の道のひとつの中間地点としてこの展覧会と交わったことで、どんなふうに変わるだろうか? 私だってもっとタフになりたい。本展が薬草としてじわじわ体に効いてくる、その感覚を逃さずに進んで、もっと遠くに行きたい。……これは私の感想だが、本展はこんなふうに、訪れた人が自分の身に引きつけて、何かを考えたり感じたり行動せずにはいられないものになっていると思う。
最後に、美術館の外で行われている展示について紹介したい。鴻池はこれまでハンセン病療養所がある瀬戸内海の大島で展示を行い、高松・静岡でのリレー展では熊本県にある国立療養所菊池恵楓園で入所者が活動する絵画クラブ「金陽会」の絵画を展示してきた。
今回は、国立療養所松丘保養園 社会交流会館をサテライト会場に、ハンセン病とともに生きた人々の作品や、鴻池と地元の中学生たちとの交流の記録等を展示している。松丘保養園は国のハンセン病隔離政策により1909年に創立された。ここでの展示の主役は成瀬豊という人物だ。成瀬は金陽会の発足メンバーだったが、その後熊本の菊池恵楓園から青森の松丘保養園に移って制作を続けた。残念ながらすでに亡くなっているが、金陽会の調査や作品保管を行い、成瀬の遺品整理も行った、本展を担当するキュレーター藏座江美によれば、成瀬はとても魅力的な人だったそうだ。作品から溢れるユーモアと他者への慈しみは、確かに一度見たら忘れられない。
本展にも2点展示されている金陽会の吉山安彦は、成瀬が青森に移った後も手紙を通じて交流を続け、芸術を介したふたりの友情を示す資料も展示されている。会場に置かれた蔵座による熱いテキストとともに、どうか見逃さないでほしい。
*──杉原環樹「アーティスト鴻池朋子――身体に問いかけるアート【後編】」、『T JAPAN』、https://www.tjapan.jp/art/17704767?page=1
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)