“線表現の可能性”というコンセプトは、本展で何を可能にしたか? 国立国際美術館「線表現の可能性」レビュー(評:石川卓磨)

“古くて新しい線”がテーマ。版画・素描を中心に、絵画、彫刻、写真を加えた約150点のコレクション作品を選び、現代アートにおける線表現の多様性を紹介する

会場風景

大阪・国立国際美術館で11月2日から2025年1月26日にかけ特別展「線表現の可能性」が開催中だ。本展は、美術館のコレクションのなかから版画・素描を中心に、絵画、彫刻、写真を加えた約150点を選び、現代アートにおける線表現の多様性を知ることができる。4章を通して絵画における線の役割とその可能性について検証する本展を、美術家、美術批評家の石川卓磨が読み解く。【Tokyo Art Beat】

タイトルが可能にしたもの

「線表現の可能性」とは、多くの作家の関心を惹きつける、美術史全体を貫く大きなテーマを成している。しかし同時に、この射程の広さは、本展を語ることの困難さを与えている。この困難を乗り越えるための方針を見つけなければ、「線表現の可能性」を論じることはできない。本展も「線表現の可能性」の全体を包括するものではなく、国立国際美術館の所蔵作品を基に構成された展示である。したがって、美術史における線表現の可能性を網羅的に示すものでもなく、現代の新たな表現を紹介する試みでもない。

展覧会は、第1章「線の動き、またはその痕跡」、第2章「物語る線たち」、第3章「直線による構成」、第4章「線と立体」、そして「2020年代の物故作家」という5つの章立てで構成されている。シンプルな章立てを見ただけでは、展覧会の全容はまだぼんやりとしか見えてこない——本展を論じるもうひとつの難しさは、この「2020年代の物故作家」という別テーマが唐突に加わっている点にある。この構成の解釈については後述する。

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記者発表会において、担当学芸員の安來正博と国立国際美術館館長の島敦彦は、「線表現」はあらゆる作品に適用できるが、このタイトルによって普段では展示されないコレクションの展示が可能になったと語っていた。どの作品がそれに当たるのかは、具体的に示されなかったものの、「線表現の可能性」というコンセプトが、本展で何を可能にしたのかを考察していきたい。

本展で「線表現の可能性」を明らかにするためには、選ばれた作品と同時に選ばれなかった作品についても整理することが有効である。まず前述の通り、本展はコレクション展であり、戦後以降のドローイングや版画が中心となっている。具体的にはアメリカの抽象表現主義以後の国内外の抽象および具象の作品が含まれる。この文脈では、ポストモダニズム的な美術の言説が関連するものの、「線表現」という概念はティム・インゴルドが論じる人類学的に拡張されたものではなく、絵画や彫刻といった芸術や美学の枠組みに根ざしているといえる。

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“線”とふたつの対立概念

線は絵画における主要な構成要素にとどまらず、美学上で重要な概念でもある。線はしばしば二項対立の概念として扱われ、その対立概念として「色彩」が挙げられる。マティスをはじめとするモダニズムの文脈では、線と色彩の統合が模索されてきた。しかし、本展にはそのような作品は含まれておらず、ほとんどの出品作品はモノクロームまたは抑制された色彩の作品に限定されている。

もうひとつの代表的な対立概念は「面」である。本展では、色面的な構成や塗りの行為が重視された作品はほとんど見られない。では、線表現が塗りや塗りつぶしの行為とは異なるとは、どういうことを意味するのか。それは、線と線のあいだに隙間が存在するという事実にほかならない。このことが何を意味するのかについては、説明を進めたうえで検討していきたい。

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線表現の傾向性

また、「線表現」といっても、あらゆる線が集められていたわけではなく、ここでの線表現には一定の傾向性が認められる。白髪一雄やフランツ・クラインなど、アクション・ペインティングや「熱い抽象」と呼ばれる作品に見られる躍動感の強い太い線は、本展では微妙に外されていたように思えた。偶然性や運動性を生かした有機的な線も、その繊細な細さが際立っていた(サイ・トゥオンブリー、中原浩大、木村忠太)。具象的な絵画の線も、表現主義的というよりは、むしろ神経質な鋭い線を特徴としており(須藤由希子、池田龍雄、浜口陽三)、計画的に引かれた直線を構成した作品は、近づいて初めてディテールが見えてくるような細い線で描かれていた(アグネス・マーチン、沢居曜子、辰野登恵子)。

木村忠太 南仏の六月 1980 キャンバスに油彩 国立国際美術館蔵

本展の「線表現の可能性」の特徴を要約すると、色彩や面による構成を抑制し、有機的・幾何学的、具象・抽象を問わず、繊細さが強調された柔らかい線、神経の集中を感じせる鋭い線、そして機械的に引かれた細い直線の作品が、「線表現」として提示されていたのである。この条件から外れる例外的な作品は、ペインティングに限られており、ここでの「線表現の可能性」は、ドローイングと版画というメディア・メディウムとの関係性が中心に据えていたといえる。ただし、ペインティングの存在が軽視されていたわけではない。並べて壁に掛けられていた山田正亮とゲルハルト・リヒターのストライプの作品は、構造的な類似と、メディウムや線の太さの違いによって生じる視覚的エフェクトや印象の差異を際立たせていた。これらは、本展における「線」のコンセプトを伝えるものとして象徴的な役割を果たしていた。

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ドローイング・版画の条件が成立させたもの

ドローイングや版画の作品は、絵画や彫刻と比べて安価である。いくら国立の美術館であっても、著名な作家のペインティングを10点以上購入することは容易ではない。しかし、それがドローイングや版画であれば、その構想は現実的な可能性を高める。本展ではその特徴が表れており、ペインティング作品は1、2点で展示されているのに対して、ドローイングや版画作品は、シリーズや複数点で展示されていた。アグネス・マーチンやブライス・マーデンの作品をまとまった数で展示することは、ドローイングや版画という形式でなければ成立し得なかったものである。

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本展で特筆すべきは、第3章「直線による構成」の作品群を大胆に展示できたことである。この試みこそが、本展をほかでは見ることのできない独自性を持つものにしたもっとも重要な点であると指摘したい。なぜなら、物語性を持つ版画やドローイングのシリーズ展示は、ゴヤや浮世絵の版画などは、ほかの美術館でも可能である。しかし、マーチン、マーデン、辰野、沢居といったミニマルな幾何学的抽象作品を、これほどの広いスペースを使って一度に見る機会は稀だといえるからだ。それらの線表現の体験は、ささやかさをラディカルに提示する試みであった。

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「あいだ」を見ること

とはいえ、「直線による構成」が(スペクタクル的な盛り上がりとは正反対の意味で)ひとつのクライマックスを形成しているとしても、展覧会全体の可能性がそこに凝縮されているわけではない。したがって、展覧会全体へ再び視点を戻そう。色彩や面が抑制された線表現の作品は、画面上で描かれた部分(メディウムが乗っている部分)と描かれていない部分(紙やキャンバスなどの支持体がそのまま見える部分)が対等な存在感を持つ。中原やトゥオンブリーの空白、町田久美や山本容子における余白、あるいはマーチンや辰野の線と線の間隔は、描かれた部分と描かれていない部分の平等性を示している。本展では、ドローイングや版画を基盤とすることで、塗り残しや余白が未完成性を示すことから独立した存在として成立している。伝統的な油絵制作では、塗り残しは未完成を意味するものであったが、セザンヌ以降、塗り残しと未完成の相関性は曖昧化していった。しかし、いまだに油絵というメディウムにおいて、塗り残しが作品に与える未完成性の印象は完全に解消されたわけではない。

中原の《ミツバチ》(1988)や町田の《雪の日》(2008)は、輪郭線を引きつつも、画面を塗りつぶさずに支持体の紙の表情を多く残すことで、内と外が細胞膜のように透過し合う感覚を持ち、線表現の可能性を提示している。これらの作品が一堂に集まることで、描かれた線を見るだけではなく、線と線の「あいだ」を見ていることに気がつかされる。

また、シリーズ作品は作品と作品の「あいだ」を設計するものである。ここでは、具象と抽象の作品が、「あいだ」にふたつの方向性を示していた。ひとつは、連作によって絵画の物語性に広がりを与える作品群であり、もうひとつはグリッド構造の反復と差異を見せていく作品群である。以上のように、本展の「線表現の可能性」とは、線と線、作品と作品の「あいだ」を認識することでもあったと指摘できる。

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「いまだ」と「もはや」

ここまで、展覧会の第1章から第3章までの展示について論じてきた。ここからは、第4章「線と立体」と「2020年代の物故作家」を接続させるかたちで論じてみたい。本展に「2020年代の物故作家」が含まれていることは、構成として唐突な印象を与えるのは否めない。ただ、「線表現の可能性」と「2020年代の物故作家」を対照的な連続性としてとらえるならば、第4章がその蝶番になると思えた。

第4章では、植松奎二、宮﨑豊治、湯原和夫のプランのドローイングと彫刻が展示されている。線とは、下描き、設計図、エスキースなどのかたちで計画する行為と深く結びついている。そして線は、実現していない作品の着想を、ドローイングで示すことに特有の魅力を持つ。これは、彫刻や立体作品のためのドローイングに顕著であり、本パートではそのような線表現が提示されていた。

この第4章の後に続く、この5年で亡くなった物故作家の作品を見ることは、私にとって予想しなかったかたちで納得できる実感をもたらした。訃報に接した記憶がまだ生々しく残っている作家たちの作品を見ること。それらの作品は、モニュメンタルな印象をまとい、まるで墓地に足を踏み入れたかのような感覚を呼び起こした。記憶の生々しさが失われていない物故作家たちの作品が一室に集められることで、これまでのように作品を鑑賞することができないことに気がつかされた。美術館はしばしば「芸術の墓場」として語られるが、この展示はその認識を文字通り強化し、メメントモリ(死を忘れるな)を提示する試みであった。

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作者の生の時間から切り離されたマスターピースといってよい作品は、前章で示されていたまだ実現されていない着想としての小さなドローイングと、物質的にも意味的にも強いコントラストを成していた。とくに、2024年に若くして亡くなり、日本の多くの作家に慕われた竹﨑和征の作品が展示されたことは、深い印象を残した。また、センチメンタルな感情を認めざるを得ないが、展覧会の最終部にイリヤ・カバコフの《天使と出会う方法》(1999)が置かれていたことは、展覧会を美しく締めくくる役割を果たしていたと思う。

整理しよう。美術館における喪の儀礼としての展示は、「線表現の可能性」から一見離れたものに思えるが、対照的な関係によって結びついていた。本展における「線表現の可能性」では、本展に出品されているわけではないものの、クレーの天使のドローイングに象徴されるような、紙の上に現れつつも未だ明確な実在性を獲得していないものが持つ軽さと繊細さが示されていた。いっぽう、「2020年代の物故作家」の作品は、墓としての存在感を伴い、作家自身がもはやこの世界にいないことを再確認させるものであった。つまり、これらのふたつのパートのコントラストは、「いまだ」と「もはや」を認識させるものとなっていたのである。

石川卓磨

石川卓磨

いしかわ・たくま 1979年千葉県生まれ。美術家、美術批評。芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織「蜘蛛と箒」主宰。