菊池寛実記念 智美術館で見る「走泥社再考」展。親密な空間のなかで、新たな時代の陶芸を希求した創作のエネルギーと強度に浸る

東京・虎ノ門の菊池寛実記念 智美術館で9月1日まで開催中の「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展。本展の見どころをお届け。

「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展 前期 展示風景

菊池寛実記念 智美術館で「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展が、9月1日まで開催されている。昨年の夏に京都国立近代美術館で始まった巡回展の最終地となる同館では、全3章構成の展示を前期(6月23日まで)と後期(7月5日~9月1日)に分け、展示替えをしながら開催する。

1948年に京都の陶芸家、八木一夫、叶哲夫、山田光、松井良介、鈴木治の5人が結成した走泥社は、立体造形としての芸術性を追求した陶芸作品を作り出し、それらは当時「オブジェ焼」と呼ばれた。50年間にわたり活動した走泥社には様々な人材が集ったが、本展は前半期に焦点を絞り、計32人の作家を紹介する大規模なものだ。

戦後の日本で強い光を放った前衛陶芸とは何か、本展と東京会場ならではの見どころは? 智美術館で会場構成を担当した島崎慶子主任学芸員に聞いた。

智美術館での見どころ

──智美術館で開催されている本展は、私が京都国立近代美術館で昨年見たときとは、見え方が違うので驚きました。やや暗い空間の中に作品が浮かび上がるように展示され、ドラマチックな印象も受けました。

当館の展示室は空間デザインが個性的ですし、展示ケース越しではなく間近にご覧いただけますので、作品から受ける印象も違いがあるのではないかと思います。

作品の配置に関しては、他館同様、章の構成にあわせて基本的に年代順に展示していますが、当館ではスペースの都合上、全3章構成の本展を2期に分け、前期では1・2章(走泥社結成から「オブジェ焼」の誕生とその展開)、後期では3章(「現代国際陶芸展」以降の走泥社)をご紹介します。本展は、走泥社の活動だけでなく、同時代に展開された他の前衛陶芸活動や日本の陶芸に影響を与えた海外の作品も併せてご紹介することが特徴のひとつです。それによって、前衛陶芸とは走泥社だけの制作ではなく、その時代のなかに生まれ、存在したものであることをご覧いただけると思います。そのためにも、当館では限られたスペースのなかで走泥社とそれ以外の作品との輪郭を明確にすることを意識した展示構成になっています。

「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展 前期 展示風景

走泥社とは?

──まず走泥社とは何かを、あらためて教えていただけますか。

1945年に終戦を迎え、翌年に日展(日本美術展覧会)が再開するなど新しい時代に向けて美術界が動き出すなかで、京都でも様々な芸術集団が誕生します。そのひとつが1946年に結成された青年作陶家集団です。分業制ではなく、一貫制作による個人の制作物としての陶芸作品を目指しました。しかし、日展への参加を巡る意見の相違から2年足らずで解散し、その会員の約半数によって1948年に結成されたのが走泥社です。

初期の走泥社の作品には、パブロ・ピカソやイサム・ノグチの作品をはじめとした同時代の美術表現からの影響が見られます。そして、器形態を立体造形として成立させようとした初期の制作から、次第に、自身の心象風景を造形化する陶のオブジェへと移行させ、そのいっぽうで当時の新興概念であったクラフトへの視点もありながら、新しい時代の芸術性を持った陶芸制作を目指したのです。走泥社は同人の入れ替わりがありながら1998年に解散するまでの50年間、活動を続けました。

これまで走泥社の展覧会は何度か開催されましたが、八木一夫や鈴木治、山本光ら代表的な作家の作品を軸に構成した内容の展示はあっても、活動全体を見渡す展覧会は実質的になかったといえます。今回の展覧会は、走泥社が何かと明確に答えるというよりも、走泥社の活動とはどのようなものであったのかということを、その時代背景を含め客観的・全体的に把握しようということが趣旨だと認識しています。本展では50年におよぶ活動期間のなかで、日本の陶芸界において重要性の高い前半の25年を対象に、その間に同人だった42人のうち作品が残る計32人の作品をご紹介しています。それらを同時代の作品や資料とともに一堂に展示することで、走泥社の活動の実態を俯瞰的に考えられる場になるのではないかと考えます。

──サブタイトルが「前衛陶芸が生まれた時代」とあるように、本展は「時代」が一つのキーワードになっているのではないかと思います。走泥社が前衛陶芸に取り組むようになったのは、何かきっかけがあるのでしょうか?

陶芸が前衛化する背景には、前衛いけばなとの関係性も指摘できます。前衛いけばなは、独立した造形物として「オブジェ」を制作の中心に据え、新しい表現を追求しました。走泥社よりも1年早く結成され前衛陶芸を牽引した四耕会は他分野の芸術家との交流の中でも特に前衛いけばなの作家たちと共同しました。走泥社の展覧会でも陶芸作品に花が生けられ、華道展に走泥社の作家の作品が登場しています。

また、戦争が終わり、それまで抑えられていたエネルギーが解放された時でもあります。敗戦国となった戦後の混乱と再生のなかで、いかにして自身のアイデンティティをそれぞれの場所で打ち立てていくのか。美術界の動向もあるなかで、20代30代で終戦を迎えた若い陶芸家たちが次の時代の陶芸を模索していく、そのひとつのかたちとして前衛陶芸が現れたと言うこともできるのではないでしょうか。

鈴木治 《ロンド》 1950 華道家元池坊総務所所蔵

──第1章で見られる走泥社の設立メンバーの作品は絵画的な文様が多く、造形的にも抽象彫刻を連想するものがあります。

器形態を立体造形として成立させるための模索が初期の制作にあります。鈴木治の《ロンド》は、人間が踊る姿が抽象的に表現されて、器をキャンバスに見立てたようでもあります。八木一夫の《白釉レビュー図蛤形水盤》は、女性が歌い踊るレビューの場面を見込みに描き、日本の陶芸の中にある文様ではない絵画的な表現が為されています。

八木一夫 《白釉レビュー図蛤形水盤》 1949 華道家元池坊総務所所蔵

走泥社の名前は、中国の均窯の釉に見られる「蚯蚓走泥文(きゅういんそうでいもん)」というミミズが泥を這った跡のような曲線状の模様に由来しますが、走泥社の初期の制作は、技術そのものは中国・朝鮮に由来する伝統的な陶芸の方法を土台にしながら、同時代の美術表現からの影響が窺えます。

造形においても、陶磁器が持つ造形上の要素を現代の造形に昇華させようとする様々な試みを行いました。たとえばひとつの器には一つの口が通常であるところ、それを複数にした作品があったり、または、ロクロで成形した壺の一部を切り取って、再構成する作品もあります。

山田光 《切った壺》 1953 岐阜県現代陶芸美術館所蔵

──走泥社の作品としては、八木一夫《ザムザ氏の散歩》がとくに有名です。

1954年に制作された《ザムザ氏の散歩》は、日本の陶芸におけるオブジェ陶の記念碑的存在として評価を受ける作品です。フランツ・カフカの小説『変身』になぞらえて《ザムザ氏の散歩》と名付けられ、八木自身の変身を象徴する、作家の内面を表現した作品であるとされました。

八木一夫 《ザムザ氏の散歩》 1954 京都国立近代美術館所蔵

現在、日本で最初に制作された陶のオブジェといわれるのは、《ザムザ氏の散歩》以前の1948年に制作された四耕会の林康夫の《雲》です。林康夫は1928年生まれで、《雲》は20歳で制作した作品で、1918年生まれの八木に対しては次の世代ということになります。《雲》は入道雲のスケッチをしていた際に、そのボリューム感が人体に感じられたところからイメージを展開させ、頭のない抽象的な前かがみの人体像として制作されました。当時、陶のオブジェとは作家の心象風景、イメージを造形化したものであるととらえられていましたが、会場をご覧いただいても、《ザムザ氏の散歩》以前に、《雲》だけでなく、例えばフグを連想させるロクロ成形の壺に花と蝶の文様をあわせた《春の海》(八木一夫、1947年)など、イメージの造形化は行われていたことをご確認いただけると思います。

右手が林康夫 《雲》 1948 京都国立近代美術館所蔵、左手が林康夫 《無題》 1950 京都国立近代美術館所蔵

《ザムザ氏の散歩》が高い評価を受ける理由は、産業において重用され職人技の象徴とも言えるロクロで、非実用的な造形を作り、器とはまったく異なる表現に昇華させた点にあります。この作品は中央の環や無数についたパイプもロクロでできています。ロクロを機械であると再定義するところに既成概念にとらわれない新しい視点があります。そしてそのような制作を「ザムザ氏」として、さらに環に足がついた形態を「散歩」と表すセンスは知的で効果的です。本展において、同時代のほかの作品とともに展示することで、《ザムザ氏の散歩》の存在についても改めて客観的にご覧いただけると考えています。

昨年当館で回顧展を開催した河本五郎もロクロの再定義を行った陶芸家です。河本五郎は走泥社とは関係ありませんが、八木の一つ年下で、瀬戸を拠点に活躍しました。河本の場合は、ロクロを量産のための一つの道具、手段にすぎず、唯一無二の存在ではないと捉え、制作に合わせて手法を変え、あるいは開発します。ロクロから離れた最初の作品は《ザムザ氏の散歩》と同年の1954年に日展に出品されました。このようなロクロへの視点は、産業、伝統の中で育ちながら、新しい時代の陶芸を模索する若い陶芸家が持ち得るものだったともいえるのではないでしょうか。

──なるほど。既成の価値観への反発のようなものを感じます。

それが時代の力というか、ひとつのエネルギーだったと思えます。戦後は、様々な分野で新しい創造を希求する動きが起こり、本展の図録にも「当時、前衛はアンチアカデミズムやあらゆるものへの抵抗として」認識されていたとあります。

しかし、だからといって走泥社の制作は陶芸の用途性や生活のなかで使われるやきものの存在を否定するものではありません。陶芸を否定して乗り越えていく姿勢とは少し違います。それは前衛いけばなとの関係や1章から2章にかけての器形態からオブジェへの移行でもご覧いただけますし、1950年代半ばに走泥社はクラフトの展覧会を開催していることにも表れています。芸術性と実用性を兼ね備えた生活工芸を志向した「クラフト」は当時、新しく起こった考え方でした。そのクラフトへの視線が、心象風景の表象として陶のオブジェに新しい陶芸制作の可能性を見出していくその頃に存在するのです。既成の権威や価値観へ別の角度から視線を向け、新しい方向性を探る姿勢が窺えます。

2章でご覧いただくのはそのような1955年以降のオブジェ陶になります。そして、走泥社以外で前衛陶芸活動をしていた作家たちが合流してきて、作家の世代も陶芸へのスタンスも広がり、草創期とは異なる多様性が見られるようになります。

「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展 前期 展示風景

──「多様性」と言われましたが、走泥社は思想や哲学を共有して活動したのでしょうか。

展示作品からは、相互に影響しあっていることが窺えます。しかし、統一的な思想に沿って活動したわけではないことを八木一夫が以下の通り1978年に走泥社30周年記念展の図録に書いています。

「オブジェ制作という作風の体勢から、この集団には、何らかの思想や主張があるのではないか、と考えられがちだが、実はそのような理念的支柱の設定を考えたこともない。ただ常に前向きに、という姿勢、さらに、材料や技術を認知した、一工人としての思辯や行為の角度が、おのずと醸成してのそれは自律的現象なのであった」

展示作品から、各人の制作の方向性が大きな流れはあっても、それぞれに異なっていることは感じていただけると思います。ただ、「材料や技術を認知した」とありますが、それぞれの作家が素材に近いといいますか、素材について使い方を理解していて、技術があるからこそ表現ができるという、陶芸、工芸制作の在りようを改めて作品から感じさせられます。

学芸員の推し作家は?

──本展は、作品を目にする機会があまりない作家も多く取り上げています。前期展示で、島崎さんが今回とくに刮目した「推し」の作家はありますか?

草創期の同人たちの作品は勿論魅力的ですし、迷いますが、第2章で最後の小さい展示室でご覧いただく寺尾恍示、川上力三の作品はとても印象的です。寺尾恍示の《プラスの世界》は高さ約1.2メートルあり、板状の構造体に釘を打って焼いたもので、異質な物質を土と共に熱を加えて変容させた制作です。川上さんはご健在で、当館でも作品を所蔵しています。本展で展示している《かたりべ》は、陶土と磁土が組み合わされ、ひだ状になった造形の構造そのものも面白い作品です。

左手の作品が寺尾恍示の《プラスの世界》1963 京都国立近代美術館所蔵、右手の作品が川上力三の《かたりべ》1963 ギャラリーヒルゲート所蔵

藤本能道は、当館創立者の菊池智が同時代に作られた陶芸のなかでもっとも集中的に作品を収集した作家です。色絵磁器で重要無形文化財保持者に認定され、東京藝術大学学長も務めました。本展で走泥社同人時代の作品をご覧いただくと、のちに手がけた写実的な色絵磁器をご存じの方は驚かれるのではないでしょうか。同一人物の作品とは思えないようなギャップがあります。

藤本能道 《無題》 1958 京都国立近代美術館所蔵

──先ほど別の美術館で拝見したときとでは、本展の見え方が変わったとお伝えしました。それは、いわゆるホワイトキューブの空間でないことも関係がありそうです。

当館は現代の陶芸、工芸を展示するために作られた空間だからではないでしょうか。展示ケース越しではなく、間近から直接ご覧いただけますし、作品と親密になれるような場所ではないかと思います。

照明も作品ごとにその個性を考えながら設置しています。暗がりに作品が浮かび上がるようなドラマチックな効果にもなりますし、作品だけが明るい空間ですので鑑賞に集中していただく効果にもなっています。

走泥社の作品は、窯変や釉薬の美しさを見所にしたものではありませんが、驚くほど素材の力を感じさせます。その素材感、物質感をダイレクトに感じながら、じっくりご鑑賞いただけると思います。

後期展示の注目ポイント

──7月5日から始まる後期はどのような展示内容になるのでしょう?

海外の陶芸表現が初めて日本にまとまった形で紹介された1964年の「現代国際陶芸展」以降に展開された走泥社同人の制作をご紹介します。日本の陶芸家は、伝統や素材、技術の捉え方の異なる海外の陶芸表現に衝撃を受けて自身の創作を顧みるようになり、心象風景の表象として始まった陶のオブジェは、それぞれの自己表現として成熟していきます。

この時期の走泥社は、新メンバーがさらに増え、若い世代も多くなります。草創期からの同人と次世代の若手が併存し、多彩な制作が行われたという意味で充実期でもありました。全体的に作品が大型化し、インスタレーション形式の作品も出現して、表現方法が多様化します。

高野基夫 《ノンセンシカル・ムード》1973 北海道立近代美術館所蔵
林康夫 《ホットケーキ》 1971 和歌山県立近代美術館所蔵

たとえば、壺形態から無数のスパナがあふれ出た高野基夫《ノンセンシカル・ムード》があり、また、林康夫《ホットケーキ》ではナイフを当てた際の弾力を感じさせるような膨らみのある形が陶で表現されています。

テーマやモチーフも多彩になり、里中英人《シリーズ:公害アレルギーⅠ―Ⅵ》のように社会問題を扱った作品も発表されました。現在も萩を拠点に活躍する三輪龍作(現・龍氣生/十二代休雪)の《愛の為に》は、ロクロ成形のハイヒール形態でフェティシズムや女性への憧れを感じさせます。

里中英人 《シリーズ:公害アレルギーⅠ―Ⅵ》 1971 京都国立近代美術館所蔵
三輪龍作(現・龍氣生/十二代休雪) 《愛の為に》 1968 国立工芸館所蔵

八木一夫ら創立メンバーも意欲作を精力的に発表しました。後期の展示では、鈴木治の代表的なシリーズ「馬」や、数字をモチーフに理知的な制作を展開していった山田光の作品もご覧いただけます。

──制作された時代の匂いも感じられそうで楽しみです。島崎さんは、現代の陶芸作品に接することが多いと思いますが、走泥社の活動を振り返る本展を現在開催する意義をどのように考えていますか。

そうですね。当館では物故作家だけでなく、現在活躍する陶芸家を紹介する展覧会を企画していますし、ギャラリーで作品を見る機会も多いです。もちろん当時と現在では時代も社会情勢も異なりますから容易に比較はできませんが、陶のオブジェ黎明期の試行錯誤や展開の過程には、新しい概念を生み出す変革期の躍動感があります。

戦後の前衛陶芸活動を経て展開した現在の陶芸では伝統的な器形態の作品からオブジェ的な造形作品まで当たり前に存在しますし、現代美術の方面から紹介される作品もあります。自己表現の方法としての陶芸が定着し、制作は多様です。何でもあり得るがために、自由ではあるけれど、対抗したり反発したりする軸はなくなっていて、その分、新しい何かを作り出す事は困難であるようにも見えます。そうすると技巧的になったり、反対に原始的になったり。全体に均整の取れた形で、繊細で綺麗な表情が多いと感じますし、素材と造形に正面から取り組んでいる作品が減っているとも感じます。

現代の陶芸作品にいわゆる愛好者ではない外からの興味も増していると実感するいっぽうで、閉塞感もあるいま、日本の20世紀後半以降の陶芸制作を考える土台ともなってきた走泥社の活動を見直し、その実態を客観的に把握することが、現在、そして未来の陶芸制作を考えるひとつの方法になるのではないかと思います。

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。