シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの大規模個展「消息の将来」展が、BankART StationおよびBankART KAIKOの2会場で開催されている。日本を代表するアーティストの包括的な仕事の足跡をたどる重要な機会である本展は、パフォーマンス、映像、コンセプチュアル・アート、絵画、彫刻と様々なメディアを横断し続ける活動のなかでも、モノとしての作品に焦点を当てている。その意味で、2020年8月27日から2021年4月18日にかけてMoMAで開催され、映像作家としてのシュウゾウ・アヅチ・ガリバーの横顔をとらえた個展「Shuzo Azuchi Gulliver’s Cinematic Illumination」とは対照的である。
BankART StationとBankART KAIKOにはそれぞれ100を超える作品が展示されており、その手法と内容は極めて広範に及ぶ。2会場に設定された順路などはないが、会場ごとにおおまかな主題が見出せるだろう。
BankART Stationは、作家の代表作のひとつであり、作家の肉体を80の部位に分割し、死後にそれを保管するという契約それ自体を作品化した《肉体契約》や、立つ・座る・寝るという身体の状態を固定化する箱の中に240時間閉じ込められて過ごす《デ・ストーリー》などの作家の肉体に関する作品とともに、4時7分を示す時計の写真と、4時7分を示す時計が20分の時を刻む様子が記録された映像が、毎日4時7分から20分間上映されることで成立する《Watch》など、時間に関する作品を主として会場が構成されていた。
ここで気付かされたのは、《Watch》《肉体契約》《デ・ストーリー》が共通して「予告─実行─成立」という構造を持っていることである。そしてまた本会場で際立ったのが、「時計」という名詞とともに「見る」という行為を意味する《Watch》における観測者(来場者)と、《肉体契約》における契約を交わした者たち、そして《デ・ストーリー》における10日間外界と隔絶した作家に食事を与えた監視役/後見人、すなわちシュウゾウ・アヅチ・ガリバーの作品を成立せしめる「他者」の存在だ。
法の解釈における契約は、対立する複数の意思表示の合致により成立する行為を指すが、《肉体契約》について作家は、contractやagreementなどの語を引きながら、契約というものの構造を「限定」と「合意」と「交換」に求め、「私は、この‘肉体契約’において、この我々の人工性や文化の構造を、そのきわどい限界を、あらためて問題にしたい」と書いている(*1)。《肉体契約》は作家が存命の間は未完の作品であり、本作における「契約」が真に完了したかを作家本人は知ることはできない。つまり本作もまた、観測者を、後見人を必要とする。それは我々である。観測者の存在が作品の成立に不可避に組み込まれているという点で、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの作品は、現代美術における「参加」の意味合いを根本から問い直していると言えるだろう。
他方、BankART KAIKOにおいて印象深かったのは、マルセル・デュシャンや河原温などの仕事を参照した作品や、DNAの塩基配列、言語、貨幣などシステムや概念を扱う作品だ。先行する、あるいは同時代のアーティストを参照し新たな文脈を付与する作品と、DNAの塩基配列、言語、貨幣などの既存のシステムと概念を逆手に取る作品に通底するのは、引用と逸脱の手つきである。その意味で本会場に展示された作品群は、それぞれに「現代美術」の成立条件を問うていたと言える。
さて、BankART StationとBankART KAIKOは、本展のために制作された新作《横浜ポスター》によってゆるやかにつながっている。《横浜ポスター》は30点の大型ポスターで、うち18点は横浜駅や元町・中華街駅などの各所に掲示されている。このポスターには、横浜の風景とおぼしき写真の下方に、デジタル時計の時刻が重ねて表示されている。おそらく写真はその時刻に撮影されたのだろう。ここには、その写真が撮影された時刻がもう二度と繰り返されることはないという一回性とともに、しかしこの時刻が毎日繰り返しやってくるという反復性──これはかつてジャック・デリダが『シボレート:パウル・ツェランのために』において日付に関して指摘した事柄と共通する──が同時に示されていた。
展覧会カタログにも注目したい。本展のカタログは1冊の書物のように見えて、じつは個別の14冊で構成されている。1冊ずつ主題が分けられており、作家の自著とともに、山本浩貴、エリック・シェーネンベルク、ブランデン・W・ジョセフ、ソフィー・カヴラコス、エマニュエル・ランビオン、福住廉、山本淳夫、ウィリアム・マロッティ、長谷川新、宇佐見康二らが論考を寄せている。ただし、1冊とは言っても綴じられているわけではなく、折り重ねられているのみなので、たやすくバラバラにほどけてしまう。このような確定と不確定のあわいを反映した造本にも、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーという作家の姿勢を見ることができた。
主に日本国外を作品発表の拠点とするシュウゾウ・アヅチ・ガリバーにとって、本展は2010年に出生地の滋賀県立近代美術館で開催された「シュウゾウ・アヅチ・ガリバー EX-SIGN」展以来の大規模個展だ。本展カタログでも指摘されているように、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの作品をめぐる言説は決して十分ではない。本展を機に、作品研究や評論がよりいっそうの広がりを持つことが期待できるだろう。その意味でも、カタログに収録された論考「芸術においてツチブタを「ナポレオン」と呼ぶこと」において山本浩貴が指摘したように、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの再評価における嶋田美子と富井玲子の貢献は、強調してもしたりることはない。
本展は、2004年設立以来、18年間BankART1929を牽引した池田修による最後の企画のひとつであるという。多岐にわたる実践を重ねてきた作家の道行きを本展においてたどることは、「現代美術史」の内実を検証することと同義と言っても過言ではない。このような機会が、たゆまぬ変化を遂げ、日本のアートシーンに特別の存在感を示し続けているBankARTという場所で実現したこともまた、特筆に値するだろう(*2)。
*1──本展カタログに収録された1984年10月2日に書かれた佐賀町エキジビットスペースでの展覧会へのメモより
*2──本稿を2022年3月16日に急逝した池田に捧げる
小田原のどか
小田原のどか