東京国立近代美術館で2月5日まで「大竹伸朗展」が開催中だ(巡回:愛媛県美術館 2023年5月3日〜7月2日、富山県美術館 2023年8月5日〜9月18日[仮])。国際展に出品した作品を含む約500点が一堂に会する、約16年ぶりの大竹の大回顧展。そのなかには、半世紀近くにわたる大竹の創作活動において重要な位置を占める、1987年の「佐賀町エキジビット・スペース」での個展で発表した作品も多数含まれている。
この日本初のオルタナティブ・スペースである佐賀町エキジビット・スペースを開設し、当時まだ新人であった大竹に個展を持ちかけたのが、小池一子だ。小池は1960年代からコピーライター、編集者、クリエイティブ・ディレクターとして日本のクリエーションを牽引し、80年代からはアートの現場でも数々の実践を行なってきた時代の立役者。まだ世の中にはない、しかし自身が「やりたい」と思うことを自分の手で生み出し続けてきたふたりに、その出会いからクリエーションの極意までを聞いた。【Tokyo Art Beat】
——おふたりは、1987年に小池さんが主宰する「佐賀町エキジビット・スペース」(以下、佐賀町)で開催された大竹さんの伝説的な展覧会「大竹伸朗展 1984-1987」の頃からのお付き合いですね。小池さんは、今回の大竹さんの展覧会をどうご覧になりましたか?
小池 一言で言ったら、やっぱり楽しい! 会場のどこに行っても大竹さんの「音」が聞こえてくるのよ。そして同時に、非常に静かなものもある。そこが面白くて、私が佐賀町のときに驚いたのも、そういう喧騒と静謐さの同居だったんです。
今回も奥の部屋に掛かっているけど、たくさんの画面で構成された横長の絵(《東京—京都スクラップ・イメージ》、1984、公益財団法人 福武財団)があって。静かな絵だけど、佐賀町であれが運ばれてきて壁に掛かったとき、本当にすごいと思ったんです。「世界だ」って思ったわけ。
——「世界」ですか。
小池 「この人は世界をとらえた人だ」って。私、小さい頃から世界をどうとらえるのかに興味があって、アーティストはこんな風にそれができちゃうのかって、羨ましかったの。
大竹 あの作品は、真ん中に4枚の風景画があるんですけど、両サイドが平安神宮、真ん中のふたつが南禅寺周辺なんです。南禅寺っていっても、境内じゃなくて裏の方ですけどね。
小池 大竹さんというと、すごく喧騒的なイメージがあるけど、静けさと喧騒なのよね。今回の展覧会でもそれを感じました。
大竹 そうですね。僕の場合、要素が過剰なくらい積み重なった混沌というイメージが強いんですけど、内側は結構シーンとしているんです。音楽でいえば、究極のノイズの先には静寂があるみたいな。絵にもそういうようなの、あるんですよ。
僕は昔から、シンプルな理論にただ従ってシンプルな作品を作るといったことが信じられません。若い頃から、ロートレックでもピカソでもいいですけど、彼らがスタイルを確立する前の混沌とした時期に惹かれていました。
だけど、現代美術の作家は、一般的にスタイルができる前のものを良しとしない印象が強い。破綻した部分をみせようとしない傾向に縛られすぎていると思う。究極にシンプルなスタイルに至った人が、たとえばその直前で混沌とした正反対のものを作っているといったことのほうに、よりグッとくるわけです。でも、さらけ出した結果、一貫性がない、コンセプトがないって散々言われてきました。そういった憤りはいまだにあります。
小池 立脚点は憤りよね、大竹さん。
大竹 その憤りを言葉にしていても虚しいだけなので、それを作品制作に転化してきました。
小池 大竹さんが登場した頃ってある種、現代美術のスター待望論の気運があったと思うのよ。1970年代の終わりですけど、当時はわざわざ私たちが「現代美術」って呼ばないといけないくらい、世の中の人も美術界も「いま生まれてきている美術」に関心がない時代だった。
美術館に若手への扉なんて開かれていなかったし、画廊といえば貸し画廊の時代。ギャラリストには若い作家に伴走する姿勢がなかった。だから私たちにとって、銀座のギャラリーは仮想敵で、美術館も嫌いで。だったら、どちらでもないものを自分たちでつくろうと思って、「オルタナティブ・スペース」って発想に行き着くんです。
その場所でやりたかったのは、まさに大竹さんみたいな新人の個展だった。そんなことを考えていたとき、ロンドンから帰ってきた大竹さんに、「スクラップブック」っていう言葉で初めてその「世界」を見せてもらって。そのショックは、いまも忘れられないの。
——小池さんのご著書(『美術/中間子 小池一子の現場』)によると、1979年に小池さんがデザイナーの田中一光さんの事務所を訪れていた際、たまたまムサビの学生だった大竹さんがスクラップブックを持ってきたのを見て、「この感性はすごい!」と感じられたそうですね。
大竹 それで、小池さんたちが手がける「スタジオ200」(かつて池袋の西武美術館にあった多目的ホール)のポスターにすぐに使っていただいたんです。その場で決まって。
小池 田中一光さんもすごい目利きで。そういう勢いのあるディレクターのいた時代ね。
大竹 あれが初めて作品がカラー印刷になった経験です。池袋駅の地下の柱にぶわーっと貼られているのを写真に撮りに行きましたね。
同じ頃、「K2」(黒田征太郎と長友啓典が設立したデザイン事務所)が『野生時代』という雑誌をやっていて。ある日、友達の企画の一連で黒田さんが作品を見てくれると聞いて、企画に無関係な自分が描いた絵を100枚くらい持って行ったんです。そしたら黒田さんが全部見てくれて、「こいつに仕事やれ」って。それが初めて自分の名前4文字が1センチくらいの活字になった経験です。
あの頃のアートディレクターって、そういう風にすごい即興的に、直感的に物事を決めていましたよね。会議通すとか、そういうのではなかった。
小池 信頼関係がありましたね。作る人とオーダーする人の。
——そして小池さんは、大竹さんに個展をやろうと声をかけたわけですね。
大竹 当時、唯一個展の依頼をしてくれたのが小池さんだった。
小池 画廊事情の余波ですぐには開催できなくて、依頼から3年待ちました。とにかく、この場所は大竹さんみたいな人の場所なんだからって説得して。結果、それが良い発酵期間になったのね。
大竹 覚えているのは、佐賀町に向かう永代橋を渡りながら、「これがラストチャンスなんだ」って思っていました。佐賀町の空間って石造りで、重厚で、ビルの記憶の痕跡が半端なかったんです。そこを作品で埋めるプレッシャーもすごくて。そんななかで作ったのが、今回展示した《ゴミ男》(1987、東京都現代美術館)です。
しかも当時は宇和島に行く前で、東京の20畳くらいの事務所をアトリエにしていた頃。30歳過ぎだったけど、あの頃の作品をみると反省します。広い場所や時間があれば何かを作れるわけじゃない。あのときの状況のような理不尽でしかない究極に圧縮されたプレッシャーと、それを跳ね返そうとする熱量。それさえあれば、場所などの制作環境は一切関係ないと改めて思いました。
小池 1987年の展示は、田中一光さんや同じくアートディレクターの石岡瑛子さんも訪れていました。当時、デザイン側からアートの状況は見えにくかったから、非常に表現力のある人が出てきたことをみんなで喜び合ったんです。
大竹 当時はデザインとイラストレーションに勢いがありましたね。美術のほうは欧米コンプレックスがすごくて、学生時代、東京の画廊を回っていると、すでに認められた海外の作品ばかりだった。日本の若い層から「アート」が出るわけないって、端から馬鹿にしている感じがありました。ここにいても仕方ない、早く海外に行こうと思っていました。
小池 私も銀座で見る美術には興味が持てなくて、海外によく行っていたから、大竹さんがロンドンに飛び出していたことに、見る側としてすごい共感があったのよ。
——大竹さんは1977年に訪れた初めてのロンドンで、のちに盟友となるラッセル・ミルズと出会い、「初めて成熟した同世代のアーティストと会った」とおっしゃっていますね。日本の美大ではいまだ破天荒な芸術家像が信奉されるなか、日常と制作が一体だったと。
大竹 ラッセルは学生のうちに結婚していて、普通の仕事として雑誌や新聞にイラストレーションを提供していました。初めて彼の作品を観たとき、作品にマックス・エルンストとか、ダダやシュルレアリスムの匂いがしたんです。ヨーロッパのアートヒストリーが、日常に根差した若いアーティストに、真似事ではなく自然に伝播している。しかも、卒業制作展で見たその作品に、それらを踏襲したインパクトを感じ、衝撃をうけました。
——そういう土壌の厚さ、豊かさは当時の日本の美術には感じられなかったですか?
大竹 そうですね。正直すごく退屈に感じていました。
小池 そうね。美術は、そうではなかった。演劇も音楽も動いてきていたのに。
大竹 当時はまだ無頼を気取って油絵を描くといった大昔の芸術家像が美大にもかすかに残る時代で。同じころ、タイムカードと一緒に写るフランク・ステラのポートレイトを見ました。普通に「通勤」するイメージでアートをやっているかのようなジョーク的なポートレイトに、日本の美術界にはない社会に根差したアートの世界を感じ、憧れました。
また、当時は自分が挑戦してみたくなるような登竜門的なアートのコンペティションがありませんでした。それより、イラストレーターの湯村輝彦さんとか河村要助さんとか、矢吹申彦さんとか、自分が高校時代に憧れていた人たちのほうに感覚的な活路を見出していました。特に湯村輝彦さんには大きな影響を受けました。
——そんな新しい感性で美術シーンに登場した大竹さんのスクラップブックを採用したポスターに、小池さんは「もっと感覚的に生きられるはずだ。」というコピーを書いています。
小池 お互い、あの時代に対して言いたいことをぶつけ合えたんでしょうね。拾ってきたもの、見つけてきたものであんな作品が生まれるってことが、まずドキドキするような仕事でしょう? スタジオ200自体が、パフォーミングアーツやレクチャーや、たんにビジュアルアートだけでない幅広い美術館の方向を探る企画で、それとも合っていたんですね。
——佐賀町の展示のあと、大竹さんは1988年に決まっていた個展での立体作品制作のために、東京と愛媛県宇和島市との行き来を始めました。そこから、東京の美術館での初個展は、50歳を過ぎた2006年の「全景 1955-2006」展(東京都現代美術館)までありません。この間のいわゆる「シーン」から離れた土地での大竹さんの長い時間を想像すると、言葉にしがたい感じがあります。そのなかで、いかに制作を続けて来られたのですか?
大竹 その間の気持ちをひと言で言葉にすることはできません。アートとか制作とかに限らず、家族も持ち生きることと密接な関係がありました。
小池 佐賀町の次に、1989年の「アゲインスト・ネイチャー : 80年代の日本現代美術」展という世界巡回展に選ばれて、海外の人にも知られる機会になったんですよね。あれはそういう意味では慧眼でした。でも、そのあとは静かな時間が続いたね。
大竹 そうでもなかったです。作品制作と並行して、1990年代半ば頃から再び「音」の活動(PUZZLE PUNKS・ダブ平&ニューシャネル)も始めたりして、結構慌ただしい15年間でした。
——1999年の「日本ゼロ年」(水戸芸術館 現代美術ギャラリー)のような重要なグループ展にも参加されましたが、いかがでしたか。
大竹 それなりに楽しめました。
——宇和島では、アトリエにいる以外は何をしていたんですか?
大竹 宇和島は妻の地元なので、お義父さんと一緒に、よくスナック巡りをして、カラオケ番などをしていました。
地元のおじさんおばさんの持ち歌の十八番を覚えて、流れをみてその曲を入れておくんです(笑)。その経験で、昔の歌を沢山覚えました。あとから考えると、当時、無意味だと思っていたような宇和島での日常経験が、じつはすごく大事だったことに気づきました。
宇和島という場所とは無関係に、当時の精神状態は、自分を閉じ込める得体知れずの場所から、絶対に「破獄してやる」といった思いが強くありました。なので、楽しくものを作るといったことではなく、作っても作っても満足感からは遠い精神状態でした。
小池 いやいや、作られた物は楽しいよ。見るほうはね。
——わかります。個人的に大竹さんの作品や文章に触れると、変な言い方ですけど、元気になるんですよね。あれが不思議で。
大竹 そういう突き抜ける感じを、僕はアートに求めていたんだと思います。
——実際、1987年の大竹展に強く触発されたアーティストの声はよく聞きます。
小池 今回の内覧会に来た村上隆さんも、あの展示を見て現代美術をしようと思ったって。
大竹 「佐賀町の作品は泣けてきますよ」と言ってましたね。とてもありがたい感想です。当時は東京の狭い仕事場でよくあれだけ作ったと自分でも思います。《ゴミ男》も、今回は横向きに展示していますけど、縦に並べると4メートルあって、狭い事務所で作っているときは全貌が見えていない。頭の中で想像しながら作って、佐賀町で初めて全貌を見るわけです。こういうの作ってたんだって。
小池 佐賀町で5メートルくらいの高さの空間に作品を立てたとき、「これ、全部東京のゴミなんだ」って。その迫力はほかの現代美術の人にはできない世界を作っていたよね。ゴミは20世紀末からのアートの大きな主題でどこでも取り上げられているけれど、あそこまで作品化する。そしてそれがいま東京都現代美術館のコレクションであるということに身震いします。
——今回も2階の会場で体感できますが、《ゴミ男》には「音」の要素もありますね。
大竹 佐賀町では、作品タイトルをバルサ材で作ったボックスに表示して、その1個1個に人体感知センサーを組み込みました。人がタイトルを覗くと照明を遮る人影が作用して音が鳴るようにしました。音は、知り合いからカセットテープレコーダーを何台も借りて、壁裏に設置し、テープを回しっぱなしにしていました。
小池 今日ゆっくり展示を見て、それを思い出しました。絵1枚しかなくてもどっかに大竹さんの音を感じる。アナログの音の豊かさっていうかな。それをあらためて感じましたね。
——「音」というテーマの展示室に掲出されていたテキストで、大竹さんは、自分の作品は音や光や匂いのような非物質的要素が触媒となって生まれているのに、美術評論が音や音響に関心のないまま、ただ造形的側面だけを見ることに違和感を示されています。
大竹 それがずっと理不尽だと思っていました。
1980年代中頃にはロバート・ロンゴとトーキング・ヘッズが組んだり、海外では音楽と美術は自然に混ざり合っていました。他方、日本にそうした状況はなく、その差に絶望的な気持ちになったのを覚えています。
小池 だからこそ、大竹さんがソノシート(1958年に開発されたレコードよりも薄い録音盤。雑誌の付録などにも使われた)やカセットテープに夢中なことが新鮮に見えたのよね。1988年のアートフォーラムでの「キャンバシズム展」のカタログに付録として200枚限定でソノシートを作りましたよね。あれもすごいことで、結局自分で自分をファンドするしかない。自己投資とも言えるけど、そんな言葉は頭になくて、「なけりゃ作るしかない」という。そこを共有していたわね。
大竹 ソノシートのほかに、画集『SO: 大竹伸朗の仕事 1955-91』の中に縦長の小型絵本を入れました。付録が結構重要で、それがあるだけで見え方が全然違ってくる。いまの子たちがZINEを作るのにも近いかもしれないけど、ある時期までモノクロコピーだけだから、カラーコピーが出てきたときは感激しました。
小池 アトランタの田舎でカラーコピーしまくったって言っていたよね。
大竹 アトランタ・オリンピック(1996)に向けたアーティスト・ブック企画に参加したんだけど、なぜか製版代がなくて。そのとき、コダックのカラーコピーに「4色分解モード」をみつけて、製版フィルムを作り、本製作に利用しました。それもある種、究極に縛られた状況で、諦めるのかやるのかって話で、そこで「やる」を選ぶと新しい場所が見えてくる。お金があればプロに頼めるけれど「やりたいこと」があるなら自力でやる。それは大事にしてきましたね。
——本展には「時間」や「層」というテーマの部屋もあります。おふたりは長いキャリアを積み重ねていますが、年齢とご自身の活動はどのように関係していますか?
大竹 小池さんに比べたら若輩者だし、僕が小池さんにお聞きしたいですよ。
小池 とんでもない。年重ねてもその辺りのことは全然わかんないわよ。
——わからないですか。
小池 わかんないまま消えていくんだろうと思います。意識のなかに年齢のことって案外来ないのよね。いつでも好奇心と、それから現状への不満とか怒りがまずあるから。
——いまの小池さんにとっての不満や怒りとは何ですか。
小池 また戦争が起きちゃったりとか、アメリカの分断はどうなっちゃうのとか。日本の政治とか見ていても……国家に顕彰されるような事態になって、本当考えましたね(小池は今年11月に「芸術振興」の業績によって「令和4年度文化功労者」に選ばれた)。結局、それは仕事仲間に言われてお受けしたけれど、そういうことを考えない日はないわね。私は昨日までの教科書を墨で塗りつぶすということをやらされた世代です。
大竹 僕も年齢のことは23歳ぐらいから考えていないですね。目の前にある(会場の入口に展示されている)《男》(1974-75、富山県美術館)は19歳の頃の作品で、20歳になるのが死ぬほど嫌で、それまでに何かを作ろうと段ボールを拾ってきて6畳間で組み立てたものです。そこからしばらくは意識の中に年齢があったけど、そのあとはどうでもよくなりましたね。
——そのお答えは予想外でした。失礼ながら、歳の話は盛り上がるものだと……。
小池 考えている暇がないのよね。私が私でなくなる日がいつ、どのようにやってくるのだろうと他人事のように想像はしている。
大竹 (デイヴィッド・)ホックニーの最近のインタビューで面白かったのは、「生まれたもんは死ぬんだから特に何にも考えないよ」って。その発言がやけに腑に落ちました。
——今日お話を聞いていて、おふたりにとって怒りが創造の重要な原動力であることを感じました。でも、その負の感情が、非常にハッピーでご機嫌なものを生み出す。そのつながりがとても不思議で面白いですね。
大竹 僕の場合は、怒りが必ずしも負ではないっていうか。世の中の人が「お前、何でそんなのにいちいち怒るの?」ってことでも、それが絵になればハッピーなんです。とにかく全部をクリエーションの方に転化する。そのきっかけさえあればなんでも良くて。
小池 ただ怒っていても、何も生まれないからね。だから、どっかで自分でも突破口を見つけて、その方向に向けて力を注いでいくっていう。
——行動に変えていくっていうことですね。ただ怒っているだけでなく。
小池 石垣島を拠点にした友達のヨーガン・レールというデザイナーは、とにかく浜辺のプラスチック・ゴミに怒っていました。怒って怒って、その末にいくら言ってもわかってもらえないから、廃棄物を使える美しい物にしたら見てもらえるだろうと、それをランプにするプロジェクトを始めて。その過程で彼は亡くなりましたが、そういうことは私のなかにすごく残っていて。負の感情や怒りや不満というものは、煮えたぎれば煮えたぎるほどほかに転化するともっと力が出てくる、表現力が増すというのかな。そう思いますね。
——もうひとつ、おふたりの共通点は、編集的な感覚、何かをゼロから生み出すのではなく、世界にはすでにいろんなものが溢れていて、それとの応答で何かを生み出していくという世界との向き合い方だと思います。そのことを大竹さんは見事に一言で表現していて……。
小池 「既にそこにあるもの」(大竹のエッセイ集のタイトル)。
——はい。その共通性が、小池さんが大竹さんのスクラップブックを初めて見たときに即座に反応した点なのかなと。
小池 まさにそうだと思います。だって、みんなも道を歩いているわけよね。ロンドンのポートベローの店や街並みは見ているわけだけれども、大竹さんにはそれがクリエーションの「素」に見えている。そういう人が世界にいるっていうことが、希望だと思うのよ。
——個人的に大好きな大竹さんのエピソードがあって、パソコンで絵を描くツールが登場した頃、描いてみようと新規作成の画面を立ち上げたら、何の根拠もないところにキャンバスの縦横のサイズを入力しなければならず、上手く制作に入れなかったと。でも、その後に路上で拾った紙切れの裏にはすぐ描くことができた、という話がありますよね。
大竹 落ちている紙にはすぐ描きたくなるのに、パソコンに設定する白紙にはあんまり描く気にならないっていう。あれ不思議ですね。
——創造性というと自分の内から生まれるものと思われがちですが、じつは「既にそこにあるもの」とのインタラクションから生まれることをよく示したエピソードです。
大竹 笑い話だけど、ロンドンに行ったとき、路上に落ちているゴミに全部英語が書かれていてびっくりしたんですよ(笑)。でも、結局そういうことで、環境が変わってものの見え方が違ってくると、生まれるものが変わってくる。ロンドンでも、その後に行った香港でも、ドラッグストアで売られているもの、道端に落ちているものが愛おしくて、欲しくてたまらなかった。それを片っ端から集めたことが、スクラップブックの始まりになりました。
そういう意味で言うと、若い子はバンバン外国に出た方がいいと思います。パソコンで向こうの路上を見ていても仕方ない。
——自分の手元に来ている時点で、誰かが見た風景ですしね。
大竹 行かないともったいないです、たった1回の一生で。僕は若い頃から、自分は絶対に死ぬということをネガティブではない感覚でとらえていました。さっきのホックニーではないですけど、生まれたものは死ぬ。それは確かじゃないですか。
小池 いつまでも生きるわけじゃないしね。枯れる木が教えてくれている。
大竹 そして、ある瞬間、ある土地に生まれたことも確かで。その人生のなかで、1日たりとも同じ1日はないという思いが強かった。だから、今日見たものは今日残さないといけないとも思っていました。そこに「意味」があるかなんて、べつに考えないんです。そんなこと考えてもわからない。それが生理的な感覚としてありました。
いま、目の前(最初の展示室内)に10代の頃の別海で撮った写真が大量にあります(大竹は大学入学直後に休学し、北海道・別海の牧場にて一年間、住み込みで働いた)。牧場の仕事は重労働だから絵を描いている余裕はないけど、写真はシャッターを押せば何か写るじゃないですか。そうやって、とにかく今日何かを残さないといけない。
それは人にとって何の意味も価値もないかもしれないけど、自分はそういうふうに今日の何かを残して過ごしていきたいという強い思いがありました。この会場にあるすべての作品は、そういう毎日のなかから生まれてきたものなんです。
大竹伸朗
おおたけ・しんろう 1955年東京都生まれ。主な個展に熊本市現代美術館/水戸芸術館現代美術ギャラリー(2019)、パラソルユニット現代美術財団(2014)、高松市美術館 (2013)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(2013)、アートソンジェセンター (2012)、広島市現代美術館/福岡市美術館(2007)、東京都現代美術館 (2006)など。また国立国際美術館(2018)、ニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート(2016)、バービカン・センター(2016)などの企画展に出展。ハワイ・トリエンナーレ(2022)、アジア・パシフィック・トリエンナーレ(2018)、横浜トリエンナーレ(2014)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2013)、ドクメンタ(2012)、光州ビエンナーレ(2010)、瀬戸内国際芸術祭(2010、13、16、19、22)など多数の国際展に参加。また「アゲインスト・ネイチャー」(1989)、「キャビネット・オブ・サインズ」(1991)など歴史的に重要な展覧会にも多く参加している。
小池一子
こいけ・かづこ クリエイティブディレクター。1936年東京都生まれ。1980年「無印良品」の創設に携わり、以来アドバイザリー・ボードを務める。また「現代衣服の源流展」(京都国立近代美術館、1975)、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館「少女都市」(2000)、「横尾忠則 ⼗和⽥ロマン展 POP IT ALL」(十和田市現代美術館、2017)などの展覧会の企画、ディレクションを行う。1983年に日本初のオルタナティブ・スペース「佐賀町エキジビット・スペース」を創設・主宰し、内藤礼、森村泰昌、大竹伸朗、杉本博司など多くの現代美術作家を国内外に紹介した。武蔵野美術大学名誉教授。2022年「オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動」(3331 Arts Chiyoda)開催。主な受賞に、1985年毎日デザイン賞、2018年エイボン女性年度賞2017大賞、2019年第22回 文化庁メディア芸術祭功労賞、2020年令和2年度文化庁長官表彰、2022年伊丹十三賞。2022年文化功労者として顕彰。
杉原環樹
杉原環樹