ファーガス・マカフリー東京での「Seven / Seven: The Fraught Landscape(訳:荒涼とした風景)」展(以下「S/S」)は、ファーガス・マカフリー NY で開催された「Japan is America」展(2019-2020)の続編であり、14人の日米の作家によるグループ展である。「S/S」展のタイトルは、黒澤明監督『七人の侍』(1954)と、『七人の侍』をジョン・スタージェスが西部劇に変えてリメイクした『荒野の七人』(1960)からつけられている。
「Japan is America」展は、1952年から85年を中心として、日米の作家たちが両国で相互的関係性を持ち活動していたことを実証的に示した展覧会である。「Japan is America」というタイトルは、日本がアメリカの従属国であると指摘されているようでショックを受けるが、現在とは異なる時代の文脈を持っているため、意味が少し異なっている。このタイトルは、「S/S」展にも出品されているエド・ルシェの《Japan is America》(1985/2019) から引用されている。この作品は、バブル経済期である80年代半ばの日本が、欧米を脅かすほどに経済的存在感を増していた状況へのリアクションであった。
日本の現代美術(史)において、欧米からの影響は不可欠なものとして認識されているが、外国の作家が日本や日本の現代美術から受けた影響や関係性について日本人自身があまり関心を持ってこなかった——ジャポニズムやアニメ文化というステレオタイプに日本人自身の想像力が止まっている。たとえば、「Japan is America」展に出品されている、現在最も重要なアフリカンアメリカンの作家のひとりであるセンガ・ネングディが、具体美術協会(とくに元永定正と田中敦子)に影響を受け、早稲田大学に留学していたことや、クレメント・グリンバーグがミニマルアートの先駆的作家と評価したアン・トゥルイットが、1964年から67年に日本で活動していたこと、あるいはフィラデルフィア美術館が、ホイットニー美術館と共同企画で開催したジャスパー・ジョーンズの大規模な回顧展「Jasper Johns: Mind/Mirror 」(2021-2022)で「Japan」というコーナーを設けていたこと、ポール・マッカーシーが学生時代から、50、60年代の日本人のパフォーマンスアート(具体美術協会、草間彌生、オノ・ヨーコ)に影響を受けていたこと、このような事例はほかにも少なからずあるが、これまでは一部の専門家たち以外にあまり興味を持たれて来なかった。
ここで日本賛美(日本すごい!)の自覚化を促したいわけではない。芸術文化の影響関係をトランスナショナルにとらえることで、国によって切り分けることができないグローバルな歴史の視座を持つことを促したいのだ。これらはすべて個人によるミクロなネットワークの束であり、グローバルに構築される「インフラとしての美術(史)」なのである。
このような歴史の再検証、再構築が進められているのは日米だけではない。ホイットニー美術館で開催された「Vida Americana: Mexican Muralists Remake American Art, 1925–1945(訳:ヴィダ・アメリカーナ:メキシコの壁画家たちがアメリカ美術を作り直す、1925-1945)」(2020–21)もそのひとつだ。アメリカとメキシコの作家たちが相互に国境を越えて芸術的交流を行ったことにより、アメリカがヨーロッパの美の伝統から脱却することが可能となった。戦後アメリカに新たな抽象芸術が生み出される文化土壌を作った、トランスナショナルな交流と影響を実証的に提示した展覧会だ。これは、メキシコ国境での壁建設を目論んだドナルド・トランプの政策に抗する「インフラとしての美術(史)」となっている。
日本に折り返せば「インフラとしての美術(史)」は、東アジアの国際関係、入管施設での人権問題、難民、外国人労働者に対する日本の対応などへのしかるべき国際意識を基礎づけるものとなる。
「S/S」展と「Japan is America」展は、以上のような世界史的状況のなかにある展覧会だ。ただし両展の性格は同じではない。「S/S」展は、日米の現代美術史の再検討を進める実証性がそれほど強くない。展覧会の枠組みはより曖昧で、必ずしも日米の直接的な関係性を持たない作品もある。美術館の展示でも研究論文でもない「S/S」展に実証的な美術史を構築する必要はとくにない。むしろ私は、この曖昧さが良いと思えた。「S/S」展は、多様性に着目しながら、国籍や人種などアイデンティティの固定化を避け、相互の作品が有機的に結びつくような文学性が設定されていた。実証性ではなく、文学性にウェートを置いたことで、国籍や人種にとどまらず、時代や世代の異なる作家や作品をつなげることが可能となっていた。文学性とは、作品に多義性を持たせる不純性(情報のノイズ)である。副題「荒涼とした風景」は文学的キーワードとなるモチーフとして本展覧会の通奏低音になっていた。
さらに、この文学性が作品のサイズに依拠しない小品によって構成されていたことが、ある種の政治性として目論見を成功させていた。「S/S」展は小品展と言って差し支えないが、それは展覧会のコンセプトのスケールを矮小化するものではない。文学の世界と比べてみよう。小説や詩の偉大さは、本という物理的フォーマットの差異に拠らない。小説や詩は、同じ出版社の文庫本であれば、有名無名に関わらず同じ紙で製本されている。この物質的条件は、美術と文学のグローバルな作品の評価の在り方にズレを引き起こしていないだろうか。美術作品における「文学の効果」の見直しが、グローバルなアートの評価において不可欠であると考えるのは、こう言った経済的格差の側面も大きい。たとえばノーベル文学賞受賞者と著名な現代美術作家を比べてみてほしい。ベラルーシ出身のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチのような世界的評価を受けた小説家の存在が、現代美術ではなぜ出てきにくいのかを考えてみてほしい。
「文学の効果」と書くのは、グリンバーグが批判した視覚芸術における「文学の効果」に関わるものであり、自己純粋化や純粋視覚性を妨げる不純なものだからである。ただし、ここでの「文学の効果」は、グリンバーグが感傷を伴ったアカデミズムと矮小化したものではない。この効果は美術史全体に浸透しているものとして、現代美術の場で改めて検討すべきものである。なぜ、ここで「文学の効果」を検討するかといえば、ひとつに以下の状況がある。自己純粋化を求めるフォーマリズムが規範となり形骸化していく過程で、サイズ、素材、技術、道具などの物理的フォーマットが序列を構成するようになった。その後ポストモダンにおいては、資本主義的生産物の前提を取り込んだことで、物理的フォーマットの序列が、より強固なものとなったからである。ダミアン・ハーストやアンドレアス・グルスキーの作品を、物理的な豪奢さを抜きにして語ることはできない。この資本主義的な物質の経済性は、中心と周縁のヒエラルキーを固定化する最も強固な感性や制度になっている。
私たちは、戦後欧米の現代美術が肥大させていった物質的価値基準や規範をアンラーンする必要がある。たとえば民藝をはじめとした陶磁器の新たな評価もそのレッスンを抜きにして考えることはできない。
「S/S」展を観て、アメリカの現代美術と比べて、日本の現代美術の「貧しさ」に落胆することはない。日本とアメリカの間にある格差ではなく等価性を感じ取れる。このことにポジティブな価値観を持てるのは、Instagramを始めとするSNSによって教育・実践されている感性に接近しているからかもしれない。
Instagramは、先述した小説と似て、誰もが同じプラットフォームを共有し、同じフォーマットで作品と呼べる映像や写真を提示している。そこで生まれる評価や共感に、現代美術が推し進めてきた物質的差別化とは異なる民主化を見ることが可能だ。この情報化社会による変化を迎えた私たちは、グローバルな現代美術史を「文学の効果」から再検討できるのではないだろうか。
「S/S」展の作品から具体的に論じていこう。アナ・コンウェイ《Mrs. Lance Cpl. Shane Toole and Mrs. Staff Sgt. Brandon Stevens》(2007)では、昼間の薄暗い部屋の中で、筋トレに励んでいる2人の女性が描かれている。タイトルから2人が軍人の妻であることがわかる。2人の体型、表情、服装、陰影の設計から、社会との距離感、孤独、葛藤などの心理的状況が読み取れる。ここに描かれる社会的弱さとヒロイズムへの屈折した意思は、アメリカ社会の陰影としてクリント・イーストウッドの映画のテーマを想起させる。画面の小ささと「文学の効果」が、最も調和的に表現された作品だ。
ジョセフ・オリサエメカ・ウィルソンは、荒野を舞台にしながら、自然と文化あるいはオンラインとオフラインを二分しないイメージの現在性を作っている。即興的なイメージの連鎖、コラージュ的表現、それらの制作形態と野営的なモチーフには象徴的連関がある。近年台頭しているアフリカンアメリカンのペインターは、密度のある画面構成、完成度の高い技術、身体性に訴える強いインパクトを強調するが、ウィルソンの作品は、それらとは異なり、ドローイング的な軽やかさと未完成性を持たせながら、繊細な文学性を作り出している。その繊細さは、鳥取の砂丘を舞台にして、シュルレアリスム的家族写真を展開させた植田正治の文学性と共鳴していた。
文学性は具象的表現に限定されるものではない。抽象にも「文学の効果」を持たせることは可能である。SNSは、抽象の「文学の効果」をより開かれたものにした。BLMの賛同を表明するため、多くの人が「#BlackLivesMatter」のハッシュタグに真っ黒の画像を投稿し画面を埋め尽すというアクション。あるいは、ロシア軍によるウクライナ侵攻に対するリアクションとして、黄色と青で構成されたマーク・ロスコの作品などを投稿することがそれである。抽象における「文学の効果」は、抽象表現が生まれた最初期からある。(キュビスムではなく)象徴主義を源流として抽象表現主義を再検討することは、「文学の効果」としての抽象を見ることにつながる。
人類学者として活動した後、人類学の視点から、ミニマリズムの造形的語彙を開発したリチャード・ノナスは、本展で重要な位置を占めている。彼の作品は、写真を支持体にしたドローイングで、純粋な抽象芸術とは呼べないが、そこで引き出されている効果は抽象的だ。写っている5人の男性を、赤と黒のオイルスティックで荒々しく塗り囲んでいる。彼らが誰で、どのような集団で、何をしているのかはわからない。彼らは白人ではなく、中南米にいるネイティヴ・アメリカンの労働者ではないかと推測してみるが確証を持てる材料はない。オイルスティックの生っぽいメディウムと血生臭さを感じさせる色彩によって、彼らが暴力的に拘束されているような感覚を作り、写真には表現されていなかった印象を画面に与えている。被写体のアイデンティティの見え方に介入する抽象である。
デヴィッド・ハモンズの《Orange is the New Black》(2015)も、色彩を用いることでアフリカの伝統的な仮面を批評的作品に変換している。このタイトルは、高い人気を誇るNetflixドラマから引用されている。オレンジは、囚人服の色のことであり、「〇〇 is the New Black」という慣用句は、 次のファッショントレンドとなる色を示す。黒はファッション業界ではつねに人気のある色であり、ここでの「Black」はそのことを指すが、ハモンズはこれをアフリカンアメリカンの意味に読み替え、仮面にオレンジの塗料を塗りたくるジェスチャーで、商業主義に絡め取られるアイデンティティの構造に批評性を与えている。
セシリー・ブラウンは、ウィレム・デ・クーニングなど抽象表現主義の絵画作品を踏襲しながらも、彼らとは異なるナラティブを作品のなかに織り込ませる。彼女の転倒した享楽性のある混沌は、中村宏の《一つ目娘の乱痴気騒ぎ》(1969)のエロティックな混沌と結びつけることが可能だ。
最後に、表現している内容のスケールは、作品のサイズに制限されないことを指摘したい。鴻池朋子の《Pendulum Earth Baby Unit 3》(2021)は、吊られた球体の青い顔が、電気モーターによって振り子運動を続けている作品だ。このシンプルな仕組みで作られた小さな球体の作品は、気候変動や国際政治の不安定性を暗示しているようであり、刻々と進んでいく時間と重力の存在を伝えている。スクリーニングとして紹介されていたフランチェスカ・ガビアンニのアニメーション作品《Sea of Fire》(2021)も、地球規模の変動と個人の小さな生活・制作の実感が共存していた。
冷戦構造が崩壊し、歴史が終わったかに感じられた20世紀末から、再び大きな物語が強力なかたちで再帰している現在において、大説に回収されない「小説」たちは、アイデンティティの差異や国境を超えて、対等につながり得るネットワークの束となり、理不尽な暴力に抵抗しうるインフラとなる。