合田佐和子(1940〜2016、高知県生まれ)の多岐にわたる創作の軌跡を紹介する展覧会「合田佐和子展 帰る途もつもりもない」が、三鷹市美術ギャラリーで1月28日~3月26日に開催中だ。本展は先んじて2022年11月3日~1月15日に高知県立美術館で開催されており、企画担当は富田智子(三鷹市美術ギャラリー)と塚本麻莉(高知県立美術館)。
それにしても、なんとかっこいいタイトルだろう。「もう帰る途(みち)もつもりもなかった」というのは、作家が晩年の手稿に残した言葉だという。そして本展を見ると、その言葉の通り、創造の情熱を燃やしながら激しく人生を駆け抜けた、アーティストの生き様が浮かび上がる。“本物”の創作者とはなんたるかを見せつける本展は、今年ぜひとも多くの人に見てほしい展覧会のひとつだ。
合田はオブジェに絵画、写真など様々なメディアを通して、生涯に渡り旺盛な制作活動を続けたアーティストだ。しかしその仕事は、作家自身がある種の“特異な”存在と見做されてきたことで、これまで正当に評価されてきたとは言い難いという。
現在、世界中の美術館や研究機関で、(白人)男性中心の美術史のあり方が批判的に再検討されている。日本でもここ2〜3年、これまで十分に評価されてこなかった女性のアーティストにフォーカスする展覧会が注目を集めてきた。本展もこうしたフェミニズムに支えられた美術史研究の流れのなかで見ることができる。また合田の場合はスタイルがひとつに留まらず、ポップカルチャーや演劇などジャンル横断的に仕事をしたことや、その作品が極めて個人的なものとして見えること、美術動向や批評と独特の距離をもっていたことなどが、ますます作家像を掴みづらくした面があるかもしれない。本展では300点を超える作品や資料を体系的に検証し、オリジナリティあふれる作家の全貌に迫る。構成としては、時系列に沿って大きく2つパートに分けられており、その境界となるのは、1985年のエジプト滞在だ。
1940年生まれの合田にとって、幼少期の遊び場は空襲の焼け跡だった。ガラスや金属、石といったものを集めることが大好きで、蒐集癖は成長しても変わることはなかった。1958年に上京し武蔵野美術学校商業デザイン科に進学したのちも、廃品蒐集にいそしみ、それらと手芸を組み合わせたような作品を制作。1965年の初個展では「オブジェ人形」を発表した。
美術評論家の瀧口修造や、詩人の白石かずこらとも交流し、創作活動を大きく後押しされたという。
1960年代の重要なモチーフとして、タマゴや蛇、そして手や足といった女性の身体パーツがある。サイケデリックで、怪奇的で、エロティックな雰囲気。一連のオブジェを合田は「イトルビ」と呼ぶことがあり、それは「オッパイのある海ヘビの名前で、女のセックスを持っているらしく、作者の無精妊娠による分身らしい」というようなことを語ったという記録も残っている。
女性の身体や女性性という、ジェンダー概念への関心がうかがわれる作品たちだ。
そして活動の初期から後期に至るまで、合田の作品に通底するモチーフが「眼」である。作品や彼女自身の写された姿を見ると、「見ること」「見られること」への躊躇のなさと、強い意識を感じずにはおれない。
見る人であり、見られる人であり、「見る」ということに誰よりも自覚的だったのが合田佐和子というアーティストなのではないだろうか。
オブジェに取り付けられた「眼」。作品が合田が語った通り自分の自身・分身だとすると、これらは「見る」主体としての作家本人の姿だと考えられるかもしれない。
いっぽう、合田はたびたび「美人の女性美術家」として雑誌などに取り上げられており、「見られる」対象でもあった。自作のキッチュなアクセサリーを身につけた姿は、「映え」とセルフプロデュースの時代である現在を先取りするかのような、アイコニックな存在感を放っている。
自宅での制作風景を写した写真からは、キッチンで熱心に制作に取り組む姿や、大小のオブジェに囲まれながら堂々たる風格を漂わせる姿を見ることができる。そして同時に、彼女が母子家庭を営み、裕福ではないなかで、制作よりもはるかに多くの時間を家事・育児に費やしていたことも伝えている。
展示を見ながら私は、「狂気」「サイケデリック」「不思議ちゃん」(さらには「メンヘラ」)といった、理解不能で、危なっかしく、興味をそそる存在として見做されてきた、数々の女性たちを思い浮かべていた。現在にいたるまで、アートや音楽、芸能など様々なジャンルで、女性表現者へのこうした語りは枚挙にいとまがない。しかしそれは女性の「若さ」や「性的魅力」と結びつくことで、いとも簡単に消費されていく。
そこで終わるか、さらに生き延びるかは、自身のイメージの手綱を他者にあけ渡してしまうか、最後まで自分で握り続けられるかにかかっているのではないか。“美人”で“特異”な女性美術家としてメディアの関心を惹きつけ、セルフプロデュースをしながら、消費とはほど遠い力強さで晩年まで突き進んだ合田の姿から、そんなことを思った。
見られる存在といえば、「スター」である。合田は1970年代から、独学で油絵を描き始めた。初めて着手した油絵は、ニューヨークで拾った銀盤写真をもとに描いた《祖父母たち》だが、その後彼女が数多く描いたのが、写真をもとにした欧米スターのポートレイトや映画スチルだった。
スターや著名人を、己の感覚を通した独特の方法で描いた画家はたくさんいる。たとえば、合田の四半世紀後に生まれたエリザベス・ペイトン(1965〜)が描いたロックスターや俳優らは、その繊細で甘美で内省的な姿が見るものを虜にする。それに比べ、合田の描いたスターたちの禍々しさはどうだ。
モノトーンを基調にした深みのある画面は、少しピントがずれていたり、構図が歪んでいたり、ハッとするようなモチーフの組み合わせがあったり。耽美的で退廃的、死の気配がキャンバスからこちらへと絡みついてくるかのようだ。
色彩については、油絵を始めた頃、キャンバスを購入した時点でお金がなくなり、白と黒と三原色の絵の具しか買えなかった、という作家の言葉が残っている。しかし経済的な理由が発端だったにせよ、こうした色調は合田の世界と見事にマッチし、その技術は研ぎ澄まされていった。円熟の域に達したと本展で紹介される《フランコ・ネロ》(1979)の迫力は凄まじい。
また合田が大ファンであったルー・リードのポートレイトや、後に日本版のレコードジャケットに使われた鉛筆画も展示されている。合田がリードの来日時にインタビュアーとして抜擢され、創作の話を通して意気投合したというエピソードからは、合田の人柄がうかがえる。
また本展では、「天井桟敷」の寺山修司、「状況劇場」の唐十郎といったアングラ演劇を代表する二人との協働についても紹介。
こうした多岐にわたる仕事の人脈づくり、そしてアンダーグラウンドでクィアな感性や社会規範からはみ出したマイノリティへの共感という面で、当時合田が毎晩通ったという新宿二丁目のバーは大きな存在だった。この点についての詳細は、本展の公式図録のコラムや論考を読んでほしい。
合田の人生における大きな転機として本展で紹介されるのが、1985年のエジプト滞在だ。1978年に初めてエジプトを訪れた合田は、最南端の街アスワンの外れにある村の石段で、「はじめて来たんじゃない!」という強い既視感を得、この土地に永住することを決意。85年にふたりの娘を連れて移住した。
非常に厳しい住環境だったそうだが、そこでの美しい景色や、新しい暮らしは、合田に大きな影響を与えたようだ。結局1年ほどで帰国することになったが、その経験は人生と創作を新たな方向へと導いた。
本展はここから後半のパートへと移る。エジプト滞在を経た合田の作品が、ヴィヴィッドに変化したことが一目でわかるだろう。
エジプト前から変化の予兆があったようだが、この頃から合田は、UFOを見たり、手が勝手に動き出す「オートマティズム(自動書記)」現象が起きたり、脳裏に誰かからの通信が届いたり、といった不思議な体験を繰り返していた。
《青いまなざし(リリアン・ギッシュ)》(2点組、1988)は、オートマティズムが発動した最初の作品で、意識とは裏腹に手が勝手に絵に白い線を描き加えた。そして「これをレンズ効果という」という言葉が降ってきたという。
合田の言う「レンズ効果」とは、「クローズアップレンズを通して見た世界。あるいは、そうしたレンズを通して撮影した写真を描く行為そのもの」(図録、P164)をおおよそ意味するようだ。
1980〜90年代初頭にかけて合田はクローズアップレンズで貝や花などを描き、またそうした写真を描くようになった。1988年に再開した油彩画では以前と同様にマレーネ・ディートリヒら銀幕の女優が描かれるが、以前とは色彩や様相が異なる。「レンズ効果」を取り入れ、画面に光と色彩が溢れているのだ。
レンズというものの機能への熱中。そして再び現れた、たくさんの描かれた「目」。「見る」ことにこだわった合田だが、その見方や視覚というものへの感覚は変化を遂げてもいる。
本展の最後には、初公開作品を中心に、最晩年の鉛筆画シリーズが展示される。幾何学的であり有機的でもある色とりどりの形態は、これまでの創作の歩みを彷彿とさせながら、身体が衰えても尽きぬ創作への意欲を窺わせる。
ここまで見てきて、晩年に綴ったという「もう帰る途(みち)もつもりもなかった」という言葉が、改めて心に響いてくる。
本展を見ていると、あまり広くない展示室に充満する合田の“私の世界”の圧に何度も当てられ、クラクラするようだった。しかし合田は、作品を自身の分身や自分自身と語ることはあっても、ナルシスティックだったり、露悪的だったりするかたちでの「自意識」の発露には向かわなかった。彼女にとって自意識は、誰かに見せびらかしたり、承認を欲したりするようなものではなく、徹底的に彼女自身と創作のためのものだったのだろう。その圧倒的な孤立、気高さ、強さに惹かれた。
合田は、雑誌などのメディアに求められる“美人の女性美術家”として、自身のイメージを露出することは厭わなかったようだが、自身の姿を直接的に創作のモチーフにすることはしなかった。たとえば、フェミニズム・アートと見なされるような、「女性」である自身の身体を批評的に曝け出すパフォーマンスや、自身の精神の深淵をのぞかせるような「自画像」は彼女のやりたいことではなかったのだろう。
こうした態度や関心は、正史としての男性中心的な「戦後の日本美術史」から合田の存在をこぼれ落としてしまうのみならず、“女性作家”に対してこれまでほぼ唯一と言っていい体系的な評価であるフェミニズム美術史の文脈でも、語られづらい状況を生むことにつながったのかもしれない。そんな合田について、2003年の渋谷区松濤美術館「合田佐和子 影像―絵画・オブジェ・写真―」展ではジェンダーの視点からも検討が行われたが、約20年後に開催された本展では、企画者のフェミニズムへの関心やジェンダー視点がますます明確に提示されながら、合田への新しい評価を促すものになっていた。
学芸員の富田智子はこのように語る。
「男性主体の社会の構造に、消費されるかのように見せつつ、それをバネにして乗っかっていくような強さとしたたかさ。それが、私が展覧会を準備するなかで見せられたことでした。セルフプロデュースをしながら、したたかに、正直に突き進んだ。そうした面も、ひとつの作家性と言えるのではないかと思います。展覧会に入ると、最初はこちらが見ているつもりでも、逆に強く見返してくる強さがある」。
「合田さんの生き方は、現代の人々の先駆けと言えるところもあるし、さらにその上をいっている。同時代の女性作家のなかでも別格と言えるようなところがある。1970年代の前衛美術のホモソーシャルな構造の不自然さに、いまでこそ私たちは違和感を感じ始めています。合田さんは、そんな現代美術史の表舞台からは抜け落ちていたところもあったと思うが、これからこの時代を見直すときに、決して無視できない存在になっていくのではないでしょうか」。
自身の内的世界を追求すると同時に、時代の寵児でもあった合田佐和子。その幅広い作品と力強い人生の足取りに、現代という地点から改めて出会うことができるパワフルな展覧会だ。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)