2024年1月15日、国際美術館会議(CIMAM: International Committee for Museums and Collections of Modern Art)が「戦時下における展覧会キャンセルと検閲について(Cancellation and censorship in times of war)」と題した記事を発表し、イスラエルとパレスチナ自治区ガザとの戦争に関連して、展覧会の中止が相次いでいることに警鐘を鳴らす声明を発表した。昨年末より、アメリカ、カナダ、ドイツなどで、キュレーターやアーティストが親パレスチナと理解される発言をしたことを理由に、主催者から展覧会をキャンセルされることが頻発している。
そのなかにはたとえば、今年ドイツのザールブリュッケンにあるザールラント美術館で開催されようとしていたキャンディス・ブライツの個展が、彼女がSNS上で行った発言を理由に中止されたことがあり、その後、展覧会中止の決定をした美術館館長が辞任するなど現在まで議論の余波が続いている。しかしこうして中東情勢にまつわるアーティストやキュレーターの態度表明が展覧会に影響するのは、いまに始まったことではない。
2022年のドクメンタ15でのタリン・パディによる作品の撤去問題や、2013年にパリのジュ・ド・ポーム国立美術館で開催されたパレスチナ出身の写真家アハラム・シブリによる個展が、「テロを美化している」という批判を受けて、建物の爆破予告や館長への殺害予告などの脅迫に晒されることになったことなど、枚挙に暇がない。シブリの個展では、美術館は脅迫に負けず展覧会を継続しようと尽力し、館長と美術館の支援を呼びかける署名活動を、CIMAMが国を超える規模で行ったことでも記憶されている。いっぽうでは、今年4月に開幕するヴェネチア・ビエンナーレの参加アーティストやキュレーターら1000人以上が、イスラエルのパビリオン参加に反対する署名を提出したが、こちらはビエンナーレ主催者により、あらゆる立場からの参加を排除しないという発表がなされたばかりだ。(なお、前回のヴェネチア・ビエンナーレにロシアは参加しなかったが、それはロシア側からの辞退によるものであったという。今回もロシアは不参加であるが、その理由は明かされていない)。
このように、美術館の安全確保と表現の自由をめぐる議論は、世界中で絶え間なく続く終わりの見えない課題である。そして、こうした解決の糸口が見つからない(=Impossible/不可能な)議論に対して、最大限の敬意を払った態度表明でありキュレーションからの提案(=Choreographies/振り付け)をしようとしたのが、昨年9月から12月にかけて開催されたサンパウロ・ビエンナーレ「Choreographies of the impossible」であった。
1951年に始まり、今回35回目を迎えたサンパウロ・ビエンナーレは、ブラジル、スペイン、ドイツを拠点にするキュレーターやアーティスト、研究者ら4名による共同キュレーションで構成された。121名の参加アーティストのうち、8割以上はアフリカ系をはじめとする有色人種、アメリカ大陸をはじめとする世界各地の先住民など、「非白人」による、世界の実態と齟齬のない人種構成が企図されたものであった。ブラジル国民の約半数はムラートと呼ばれる白人と黒人の混血の人々であるといわれるが、本展の大半がアフリカ系のアーティストの作品によることは、ブラジルのルーツ探しのようにも映り、それと同時に作品の大半には、近代的な制度上の分類、地理的・地政学的なカテゴリーなど、枠組みや構造からの自由を考えようとする意識が現れていた。
なかでも展覧会の前半、ラテンアメリカのルーツを考えるうえでも重要な展示は、マドリッドを拠点に活動するデュオのアーティストCabello/Carvellerによる作品《A Voice for Erauso. An Epilogue for a Trans Time》であった。これは、スペインやポルトガルにアメリカ大陸が植民地化された大航海時代の後半である17世紀前半、バスク地方からスペイン領アメリカに渡った半伝説的な人物であるカタリナ・デ・エラウソをモチーフにした作品である。
カタリナ・デ・エラウソは、十代の頃、修道女になるための修行に耐えられず修道院を脱走し、アントニオ・デ・エラウソという男性の名で兵士となり、アメリカ大陸へ渡ったとされる人物である。男装の女性兵士として、小説や演劇の題材ともなって人気を博したこの人物は、そのセクシュアリティについて様々な推測がなされている存在でもある。
展示では、エラウソの17世紀に描かれた肖像画と、Cabello/Carvellerの映像作品が並ぶ。《A Voice for Erauso. An Epilogue for a Trans Time》では、3人のノンバイナリーとトランス・セクシュアルの人々が、エラウソの肖像画を前に、300年以上の時を超えてエラウソに質問を投げかけるかたちで進行する。その過程で、エラウソが裕福な家庭に生まれ、宗主国の戦士となっていくマスキュリンな側面が明らかになり、ひとりの人物の中にマイノリティと征服者という異なるアイデンティティが共存する、コロニアリズム的思考とジェンダー・クィアとが相反するようでいながら、矛盾を抱えたままひとりの中に内在化した様子が語られていく。
理想を語るのでも、冷静に分析したり断罪するのでもなく、ある種の矛盾を抱えながら生きている人間のリアリティが浮き彫りになっていく様子は、10年前にフランスで大きな議論を呼んだパレスチナの写真家アハラム・シブリによる、パレスチナの戦士の家族を写した写真群にも現れている。難民キャンプで長年生活を送る人々の日常、レジスタンスの戦士となった家族に宛てた手紙、戦死した家族を悼む肖像写真やレジスタンスを呼びかけるポスター。それはパレスチナに生まれた人々にとっての日常であり、選択不能な人生の中で、普遍的な家族や兄弟への思いを写したものなのである。
展示全体で植民地時代に端を発する先住民族や入植者、奴隷から成る階層構造や、ジェンダーなどの社会的・政治的問題、戦争などの避け難い暴力が扱われ、そうしたものへの対処として生まれた芸術表現が多く見られた。そして歴史的表現と現代の作品とを織り交ぜつつ、同時に注意深くある種の表現が「神格化」されることのないように展覧会は進んでいく。
ヨーロッパや北アメリカのアート界での膠着した議論に対して一石を投じるようなこの展覧会は、4名のキュレーターたちの功績であるのは言うまでもないが、加えて重要なのは、その空気を後押しするブラジル政府の力も大きかったことだ。2023年1月、極右政党出身のボルソナロ政権を倒して、12年ぶりに政権に返り咲いたルラ大統領による左派政権は、低所得者層や先住民族の支援に力を注いでいる。とりわけアマゾナス州での森林破壊や違法採掘の問題に取り組む姿勢は、ビエンナーレとも呼応するものがあった。本展では、ヤノマミ族の映画監督アイダ・ハリカ・ヤノマミによる『トゥエ・ピヒ・クウィ(ウマ・ミュラー・ペンサンド)(考える女性)』が展示され、宣教師との接触を経て現在に至るヤノマミ族の生活と文化を紹介する本作を通じても意識される構造になっている。
今年、4月20日に開幕する第60回ヴェネチア・ビエンナーレのキュレーターはサンパウロ美術館(MASP)のディレクターであるアドリアーノ・ペドローサが務めることになるが、彼もまた、ブラジルの美術館改革に大きな役割を果たした人物である。館長就任以来、彼が推し進めたのは、コレクションの男女比・民族比のアンバランスの解消(それはたとえば性的マイノリティの中でのジェンダーバランスにも及ぶ)、そして美術館活動を支える職員間の人種格差解消にも及んだ。
こうしたブラジルの空気は、ひとつの展覧会やひとりのキュレーターや美術館、ひとりの大統領だけで実現できるものではない。今回のサンパウロ・ビエンナーレは、ヨーロッパや北アメリカに由来する古い構造から脱却し、自分たちの国や文化をみんなで考え直そうとするブラジル全体を動かす時代のうねりのなかで生まれたものと言えるだろう。
木村絵理子
木村絵理子