1960年代より現代アートの最前線を歩き続けてきたアーティストのゲルハルト・リヒター。その待望の大規模個展が、6月7日〜10月2日に東京国立近代美術館、10月15日〜2023年1月29日に豊田市美術館で開催される。
今回は本展を担当するふたりのキュレーター、桝田倫広(東京国立近代美術館主任研究員)と鈴木俊晴(豊田市美術館学芸員)の対談を前後編でお届け! 日本の美術館では16年ぶりとなる大規模個展をより深く知り、楽しむことができるよう、本展のポイントやリヒターが積み重ねてきた芸術観について聞いた。前編では、リヒターの芸術の根幹にある「イメージ」の問題や、本展の目玉であり近年の最重要作《ビルケナウ》を中心に、ホロコーストという主題に作家がいかにして向き合ってきたかを探る。【Tokyo Art Beat】
*後編はこちら:息子を描いた《モーリッツ》、リヒターによる展覧会の構成について語った
──始めに、リヒターの作家像について聞かせてください。リヒターには一般的に「画家」としての印象も強いですが、今回の会場を訪れてもわかるように、実際は絵画や写真、ガラスの作品などを行き来しながら制作しています。鑑賞者のなかには、こうした複数の媒体の関連性を不思議に感じる人もいると思うのですが、おふたりは、リヒターとはこのような活動を通じて何を問題にしてきたアーティストだと考えていますか?
鈴木:たしかに、リヒターには最初に画家のイメージがありますよね。でも、会場を訪れてみるとガラスや鏡、カラーチャートなど、絵具や筆を用いない作品も意外と多くて、リヒターって画家なのかわからなくなる、という方はいらっしゃるのかなと思います。
彼自身も肩書きについては揺れていて、自らを「画家」だと語るときもあれば、絵画はあくまで補助的なものに過ぎず、自分は「イメージメイカー(Bildermacher)」だと半ば諧謔的に言う場合もあるんですね。ただ、僕の理解では、彼はやっぱり画家なんです。けれどそれは古典的な意味での「画家」にはとどまりません。むしろリヒターという人は、今日、絵画というものが従来の絵画に留まらない領域にまで広がるなかで、その広がりを検証するための手段のひとつとして絵画を用いている人である、という感じがします。
たとえば彼にとって、さきの「イメージメイカー」にも含まれる「ビルト(Bild)」というドイツ語はひとつのキーワードです。この単語は「絵画」のほかに「写真」などの意味も含み持つ、英語の「ピクチャー」とか「イメージ」に近い語感の言葉です。リヒターがあえてこの単語を用いることからも感じられるように、彼はそうした「ビルト」が持つ広がりの可能性を検証するために、絵画という手段を使っているんじゃないかなと考えています。
桝田:たとえば1967年に初めて作られたガラス作品には枠がついており、窓のように見えます。西洋美術ではルネサンス期から絵画のメタファーのひとつとして「窓」が使われてきました。こうした伝統的な絵画観を前提としてみれば、リヒターのガラス作品も、なんでも映しうるガラスの表面を明らかに絵画の比喩として使っている。そこが大事なんだと思います。
いっぽうで、彼の活動を見ていくと、画家であることを基軸としつつも、絵画と写真の関係性のなかで仕事をしてきた印象も強くあります。とりわけ象徴的な作品に、今回展示されている写真ヴァージョンの《ルディ叔父さん》が挙げられます。《ルディ叔父さん》は、もともとは戦死したリヒターの叔父さんの写真をもとにした絵画作品として作られますが、リヒターはその絵画を撮影して別の写真作品としました。こうした場合、一般的に写真の方は絵画の複製物ととらえられますが、リヒターはそれを「まったくべつの作品」と言うんですね。
実際、写真ヴァージョンの《ルディ叔父さん》は少し焦点をズラして撮影されています。そのことで絵画の筆触が見えなくなっている。同じイメージに由来するものだけど、絵画と写真という異なる2つのメディアでそれが現れるとき、その現れ方はどのように同じで、どのように違うのか。リヒターはそうしたことも問題にしてきました。
鈴木:リヒターがあるメディアを使う際、それを自明のものとして扱うのではなく、それぞれのメディアが持つ制度の問題や歴史性を強く意識していると感じます。
絵画とは何か。絵画が背負ってきた歴史とは何か。そこに19世紀半ばには写真が、さらに現在ではデジタルデバイスなどが登場し、我々の視覚をほとんど規定するメディアになっていますが、それらははたしてなんなのか。絵画と写真という2つの大きなイメージの文脈を自分の作品のなかでときにせめぎ合わせ、ときに交換させて、イメージについて検証しているのかなと思いますね。
──リヒターはそうした問題意識をどのように育んだのでしょうか?
鈴木:1932年生まれのリヒターは、いくつかの政治体制を生きてきた人です。10代初めまではナチス・ドイツ。それが1945年に崩壊して、49年にドイツは東西に分裂します。リヒターは東ドイツで20代後半まで過ごした後、1961年に西ドイツに移るわけですね。
ナチス・ドイツでも、東ドイツでも、共同体が人々を導くためにイメージを利用しました。リヒター自身も東ドイツでは、人民に新しい国家への肯定的なメッセージを伝えるべく壁画を描いていました。しかし、西側の自由な美術を見るにつけ、自分の仕事は嘘なのではないかと感じ始めるわけです。要は、ナチス崩壊から西側に移るまでの過程は、リヒターにとって何を信じていいのかわからなくなる体験だったのだと思います。
さらに移住先のデュッセルドルフでは、これまで見たことのないような無数のイメージ、とくに広告ビジュアルが溢れていました。自分が何を見て、信用したらいいのか、さっぱりわからない。これは非常にキツい体験だったはずで、巷に溢れるイメージを1個1個、自分で検証しなければいけなかった。それがひとつ、イメージそのものを疑いながら自分に何が作れるのかを実践する姿勢につながっているように感じます。
もうひとつ言えば、リヒターのイメージへの関心の形成には、彼が後に作品で扱うことになるホロコーストや、ドイツ赤軍派の問題も入ってくるでしょう。そうした惨劇を、果たして我々はイメージにすることができるのか。リヒターはこうした問題をオブセッショナルに抱えていて、その問いに対して絵画を用いて取り組んできた人でもあります。
桝田:人がものを見るということは、いくら自分が主体的に「見ている」と感じても、じつは何らかの慣習によって「見させられている」という状況があるわけですよね。リヒターがあるイメージを提示するとき、「それがそのように見えるのはこうだからだ」という、見えていることの成立要件も同時に提示しているように思います。それは、鈴木さんのおっしゃる通り、彼が時代に翻弄されるなかで感じてきた、あらゆるイデオロギーや制度に対する不信感に起因しているのだと思います。
もう1点、時代的な補助線を引くと、1960年代は作者の主体性に対する疑義が浮上した時代でした。たとえば、ウンベルト・エーコの「受容美学」のように、天才的な主体が生み出した作品を鑑賞者が一方的に受け取るのではなく、鑑賞行為のなかにある作り手と受け手の相互作用に着目する考え方が出てきた。60年代後半には、ロラン・バルトやミシェル・フーコーがそれぞれの観点で「作者の死」を問題にしました。また、マスメディアと消費社会を批判するギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』も67年のテキストですね。リヒターはそうした時代に登場してきた作家である、とも言えると思います。
──リヒターは西ドイツへ移住後、デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学し、教鞭を執っていたヨーゼフ・ボイスや、学生だったジグマー・ポルケ、コンラート・フィッシャー、ブリンキー・パレルモらと交流しました。そうした人間関係は彼にどう影響したと思われますか?
鈴木:若い頃のリヒターは彼らとよく協働をしました。パレルモと絵画制作をしたり、ポルケとつるんだり、フィッシャーと展示を企画したり。そうしたほかの学生に対し、すでに30歳を超えていたリヒターはやや年長でした。けれど、さきの話につなげれば、彼は当時のアートシーンに明るいわけではなかった。東ドイツで絵画の技術は鍛えたけれど、それを西側の美術にどう適応すればいいかわからなかった。それゆえ、大学で出会った切磋琢磨できる若い友人の刺激は大きかったのでしょう。とくにパレルモは同時代のアメリカの美術にも明るかったですから、彼から海外作家の情報を得て、真似したりもしたはずです。
──パレルモの作品は、最近、鈴木さんも企画に携わった「ボイス+パレルモ」展でも紹介されていましたが、「絵画」を解体するような彼の当時の仕事を見ると、その横でリヒターが「イメージ」の検証を行っていたというのはとてもリアリティがあります。
鈴木:そうですね。扱っている素材は違っても、ほとんど同じことをしていると言えそうな作品がじつは多くあります。パレルモとは「絵具がどうカンヴァスにのっているか」など、感覚的な部分も含めて、絵画について率直に語り合えたとリヒターは振り返っています。
いっぽう、ボイスについてですが、リヒターがボイスのクラスにいたことはありません。しかし当時のデュッセルドルフのアカデミーでボイスの影響力は凄まじかった。おそらくですが、そのスキャンダラスで、それこそ「作者の死」の真逆を行くような作家性はリヒターの望むところではなかったはずで、ある種の憧れを抱きながら、自分とは決定的に違うと感じる存在だったんじゃないでしょうか。
じつは、ボイスが亡くなった際のリヒターの日記がありまして。そのなかで彼は、「ボイスはいつも限界を突破している男だった」と書き、それに対して「自分もいつか限界を突破したいけど、それは少し怖い」という書き方をしているんですね。この短いフレーズのなかにも、ふたりの作家性、あるいはリヒターのボイスへの見方が現れている気がします。
──今回の展覧会の目玉のひとつが、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で盗み撮りによって撮影された4枚の写真に基づく4枚組の絵画作品《ビルケナウ》(2014)です。この作品はリヒターの活動のなかでどのような重要性を持っているのでしょうか。
桝田:リヒターは、キャリアのかなり早い時期からホロコーストの表象をどう描くかに取り組んでいた作家です。彼のイメージのアーカイヴである《アトラス》を見ると、西ドイツに移住してから2回ほど取り組み、断念した痕跡が見られます。さらに、今回のカタログに収録されたベンジャミン・H・D・ブクローのエッセイでは、じつは東ドイツ時代にもすでにアンネ・フランクの日記に関連するイラストを描いていたことが紹介されています。
そう考えると、本当に早くからホロコーストは興味の対象だったけれど、作品として発表するには至らなかった。それが《ビルケナウ》で初めて発表できた。だから、彼にとっては、ずっと心に抱えてきた責務を果たした、本当に意味のある作品なんですね。
作品の経緯としては、フランスの研究者、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』という書籍のドイツ語版が2007年に出版されます。この書籍は例の強制収容所での4枚の写真について詳細に論じたもので、リヒターは新聞に掲載されたその書評を読み、過去に断念したホロコーストのイメージを再発見するんですね。それで再び何かを試してみたいと考え、仕事場にホロコーストの写真を飾っていたそうです。
そして2014年、4枚の写真をキャンバスに投影し、具象的に写し取ってみたのですが、これはうまくいきませんでした。ただ、リヒターは時折、断念した具象絵画を潰して「アブストラクト・ペインティング」と呼ばれる作品群にすることがあるんです。このときも結果的にその方法に転じることになり、そうして生まれたのが《ビルケナウ》です。
《ビルケナウ》ではもとの写真の痕跡はほとんど見えず、イメージだけではそれがホロコーストに紐づくものだと感じることは難しいでしょう。実際、2014年に初展示された際、同作はたんなる「アブストラクト・ペインティング」というタイトルで展示されました。作品の前に置かれた椅子にハンドアウトがあって、そこに制作背景が記載されていたそうですが、気づかない人もいたことでしょう。しかし、その次の展示でタイトルを《ビルケナウ》へ改称し、さらに元ネタの4枚の写真の複製も併せて展示。抽象的な表面の下層に、ホロコーストのイメージが描かれているとほのめかして見せたわけですね。
──今回の展示室では《ビルケナウ》の4枚の絵画群やもとの写真の複製のほかに、絵画の対面に同サイズの4点の写真ヴァージョン、さらにその間の壁に横長のグレイの鏡が合わせて展示されていました。この組み合わせには、どのような意味があるのでしょうか。
桝田:今回の展示空間は、2020年にメトロポリタン美術館で開催されたリヒター展の《ビルケナウ》のインスタレーションに準じています。ただし、これまで、これらは必ずしもセットで展示されてきたわけではありませんでした。
そのうえで写真ヴァージョンについて考えると、イメージの真正性の問題がひとつにはあるのではないかと思います。もともとのホロコーストの写真群にもかなりの修正が加えられていることが知られています。たとえば裸の女性が森を歩くイメージがあるのですが、そのプロポーションがより女性的だと思われるようにレタッチされていると言われています。その意味では現実を忠実に映し出した写真とは言えないのかもしれません。さらにホロコーストで残された数少ない資料体によって、ホロコースト全体を表象しうるのかどうか。この点についてもドイツ国内のみならず欧米圏で長く議論があったんです。
それでは事実にたどり着くことのできる真正なイメージとはいったい何なのか、と。ビルケナウ、あるいはホロコーストを「正しく」認識するということはきわめて難しいわけです。もしかしたらそれは複製であってもできるかもしれないし、逆に真正なイメージであっても不可能かもしれない。
もうひとつ、《ビルケナウ》という象徴的な意味性を帯びた絵画のコピーには、「唯一無二だと思える大きな厄災も反復しうる」という含意も指摘できると思います。これはまさに現在のウクライナの状況に重なる視点です。どんな悲惨な事柄さえも反復されうる。そのことを我々は、絵画と写真と鏡に取り込まれた空間で感じるわけです。《ビルケナウ》の想像力は、そんなふうにホロコーストという固有の出来事を超越している面もあると思います。
また個人的には、展示しながら「鏡って面白いな」とあらためて思いましたね。鏡に映った像だと、絵画も写真も区別がつかないんです。これもまた、最初の方で述べた写真と絵画における現われの差異の問題と関連します。そのように考えると、ただ長年の課題としていたテーマを作品にすることができたというだけでなく、リヒター作品のエッセンスが詰まっているという点でも重要な作品だろうと思います。
鈴木:2018年にミュンヘンのレンバッハハウス美術館で、《ビルケナウ》の写真ヴァージョンと、もとの4枚の写真の複製だけの展示を観ました。最初、絵画のつもりで近づいたら写真パネルだと気がついて、「リヒター、何しているの?」と非常に驚いて。しかし桝田さんの話にもつながりますが、そもそもの4枚の写真が加工されているなら、それが表すものは本当のイメージなのか。絵画自体と、絵画を写した写真と、どちらが真実のイメージを表しうるのか。その曖昧さや、写真より絵画にプライオリティがあるわけではないということが、そのとき体感的にわかったんですね。
一般的な価値観では、作家が直接描いた絵画をオリジナル、写真をコピーとして順序をつけがちですが、リヒターの場合、その優劣はすでに崩されていて、むしろ、コピーだからこそ機能しうる作品としてのポテンシャルがある。そして、それが鏡やガラスに映り込むことでより強調される。そこが、彼の制作のすごく面白いポイントのひとつですね。
桝田倫広
ますだ・ともひろ 東京国立近代美術館主任研究員。1982年生まれ。企画した主な展覧会に「高松次郎ミステリーズ」(2014–2015)、「No Museum, No Life?―これからの美術館事典国立美術館コレクションによる展覧会」(2015)、「アジアにめざめたら:アートが変わる、世界が変わる 1960–1990年代」(東京国立近代美術館、韓国国立現代美術館、ナショナル・ギャラリー・シンガポール、2018–2019)、「ピーター・ドイグ展」(2020)など。
鈴木俊晴
すずき・としはる 豊田市美術館学芸員。1982年生まれ。企画した主な展覧会に「村瀬恭子 fluttering far away」(2010)、「奈良美智 for better or worse」(2017)、「開館25周年記念コレクション展 光について/光をともして」(2020)、「ボイス+パレルモ」(埼玉県立近代美術館、国立国際美術館と共同企画、2021-22)など。 ゲルハルト・リヒターについての論考に「バランスをとること──ゲルハルト・リヒターとブリンキー・パレルモのミュンヘンオリンピックのスタジアムへの提案をめぐって」中尾拓哉編『スポーツ/アート』(森話社、2020)。
杉原環樹
杉原環樹