十人か二十人のニグロが奴隷にされただけなのでしたら、われわれもそれを正義に反した行為と呼ぶことができるでしょうが、奴隷にされたニグロは全国を通じて数百万人に及んでいました。かりにそうした状態が二、三年続いたのでしたら、われわれもそれを正義に反したことと言えたでありましょう。ところが、その状態が二百年以上も続きました。不正が、三世紀の長きにわたって続き、数千平方マイルに及ぶ地域の数百万の人間のあいだに存在している場合は、もはやそれは不正ではなくなります。それは人生の完成された事実となります。––––リチャード・ライト『アメリカの息子』(*1)
エレベーターを出て、外光に包まれたガラス張りの空間に入る。ジャングルジムのような黒いグリッド状の構造物が高くそびえており、内部に大小様々な種類の植物が置かれている。植物園に入り込んだような美しさにまず惹きつけられる。グリッドの構造物の中には、植物のほかにシアバターの首像的彫刻やブロック、本、CB無線機、植物用の照明器具、カーペットなどが置かれている。どれも単体では存在しておらず、同じものや似たものが、複数の場所に配置されている。周回しながら作品を鑑賞していくと、反復的に現れるモノたちが、空間的リズムを構成し、すべてが動的に、有機的に、幾何学的に関係づけられている。つまり《Plateaus》(2014)は、ミニマリズムの文法とエキゾチックな世界観の統合がなされているといえる。
ラシード・ジョンソンは本作をひとつの自画像としてとらえている。作品に持ち込んでいるオブジェクトは、それぞれが象徴性や個人的な文脈を含み選ばれている。もっとも代表的なモチーフはシアバターだ。西アフリカ・中央アフリカに生息するシアの木から採れるシアバターは、アフリカ系アメリカ人が「アフリカ性」を身体にまとうことができる象徴的アイテムである。ただしジョンソンは、自らのルーツとなるアフリカ性を強化するためにシアバターを用いるのではなく、アイデンティティに対する懐疑の象徴として用いている。シアバターを肌に塗ることでアフリカとのつながりを意識することは、あまりに形骸化した儀式的認識に過ぎない。そして、シアバターで作られた像がアフリカ人やアフリカ系アメリカ人を表象しているとなれば、この素材が持つ白さは皮肉となる。だが同時に、首像の顔などにつけられた鋭い刃物の跡は、アフリカ系アメリカ人の歴史的痛みを想起させる。インタビューのなかで彼は、「アフリカ系アメリカ人が自らのアフリカ性を理解するためにはその不信感を持つ必要があります」(*2)と言っている。
この懐疑的姿勢がどのような背景から来ているのかを説明しよう。ジョンソンは「ポスト ・ブラック・アート」を代表するアーティストのひとりである。「ポスト・ブラック・アート」とは、1990 年代後半にキュレーターであるテルマ・ゴールデンと、アーティストのグレン・ライゴンによって考案されたポスト公民権運動の世代のアフリカ系アメリカ人によるアートのカテゴリーである。「ポスト・ブラック・アート」は、黒人と白人、男性と女性、異性愛と同性愛などの二元論の有害性を批判する観点に立ち、人種的ラベリングを回避した上で、アフリカ系アメリカ人のアイデンティティを問う。これは、世界中のアフリカ系黒人が共通の人種的アイデンティティを掲げるネグリチュードとは異なり、人種的ルーツとなるアフリカと、アフリカ系アメリカ人の隔たりを意識化する。
《Plateaus》を正確に理解するためには以上の前提を把握しておく必要がある。愚直な解説になる危険性があるとしても、ここでは作品で示されている文脈を重視する。そのため《Plateaus》の中に置かれている3つの書籍——リチャード・ライト著『Native Son(邦題『アメリカの息子』)』(1940)、飲酒問題を抱える世界中の当事者たちが相互援助活動を行なう団体アルコホーリクス・アノニマスが出版している『Alcoholics Anonymous, Fourth Edition』(2001)。アフリカ系アメリカ人の法学者ランダール・ケネディ著『Sellout: The Politics of Racial Betrayal(セルアウト:人種間で生じる裏切りの政治学)』(2008)——を通して、作品理解を深めていく。
《Plateaus》には発行年や出版社の異なるバージョンの『Native Son』が集められている。そして、ジョンソンは本作の舞台を現代に置き換えた映画『Native Son (邦題『ネイティブ・サン アメリカの息子』)』(2019)を監督しており、特別な存在である。
アフリカ系アメリカ人の小説家ライトによって書かれた本作は、アメリカでの黒人差別を描いた歴史的抗議小説である。舞台は1930年代のシカゴ。貧しい家庭で育った黒人の青年ビッガーは、白人の慈善家・資本家であるダルトンに、運転手として雇われる。ここで急進的な人権思想と共産主義に関心を持つダルトンの娘メアリーと知り合うが、ビッガーは誤ってメアリーを殺害してしまう。この殺人が引き起こされた原因の背景には、人種的差別が根深く浸透した社会構造と、その抑圧のなかで生きてきたアフリカ系アメリカ人に染み込んでいる恐怖がある。この恐怖は、白人の一方的な善意や平等主義では理解できないことが示され、彼らの友好のジェスチャーはむしろ暴力的なものとして働いてしまう。また黒人が白人を殺害することは過失致死であったとしても、白人を殺した残忍な黒人として死刑が免れないものと認識される。その重圧によりビッガーは、恋人の黒人ベッシーも殺してしまう。
『Alcoholics Anonymous』には、アルコール依存症の当事者と専門医による過剰飲酒とそこからの回復の体験談が掲載されている。ジョンソンがこの本にどのようなエピソードを込めているのかはわからない。ただ、アルコール依存症に陥ってしまった人々には、個人の意志や自己責任に集約できない不安や堪え難さが存在している。これは犯罪を犯罪者の人格や責任の問題に収斂させない『Native Son』の語りと問題を共有している。
哲学者の國分功一郎は、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(2017)の中で「中動態」を説明するため、冒頭でアルコールと薬物の依存症の話を取り上げ論じている。
「誰でも容易に想像できるだろうが、その人がアルコールを過剰摂取しはじめたのは、何か理由があってのことである。一言でいえば、何か耐えがたいものを抱えていたがために、アルコールによってそれに対処したのである。その意味では、アルコール依存症者がアルコールの過剰摂取を自らの意志で能動的に選択したのだと言うのは難しいだろう。(略)そこには、たしかに自ら進んで手を伸ばしたとはいえ、自らの意志による選択なのかはっきり言うこともできず、強制されてはいないという意味では受動的ではなかったにせよ、かといって能動的であったともいえない状態がある。そのことを考慮せずに一足飛びに責任を問うとすれば、それはあまりに粗雑ではなかろうか?」(*3)
國分が指摘するように、犯罪者や依存者の罪や過ちを自己責任であると片付けることは、深刻な暴力とその連鎖の構造を含んでいる。この認識の重要性を理解することは難しくないように思えるが、現実はそうではない。ここに対する想像力の欠如は、自己責任の考え方が非常に強く、さらにそれを強めている日本の状況を鑑みれば、重要性を強調することは無駄ではないだろう。
再び『Native Son』に戻ろう。この小説を抗議小説というと、「ポスト・ブラック・アート」とは異なり、黒人と白人の二分法を強調するように思えるだろう。もちろん、黒人と白人の断絶や不平等は強く描かれるのだが、ライトの批判はそう単純ではない。『Native Son』では差別や対立の構造が、人種のみならず、ジェンダー、階級、政治思想など複数の枠組みが重なり合うインターセクショナルな状況として成り立っている。特徴的なのは、反社会的な危険分子としてラベリングされていた黒人と共産主義者に向けられた差別を並走させるところだ——ビッガーは、共産主義に対する差別を利用して、白人に罪を着せようと試みる。この小説には、白人による黒人への差別だけでなく、黒人による白人への差別、白人による白人への差別、黒人による黒人への差別が存在している。ライトは、当時共産党員であったため、この批判的アプローチにかなり説得力を持たせている。
映画版では人種的対立が小説以上に曖昧化しており、ビッガーは文化経験からの人種的矛盾や疎外を抱えている。この主人公は、パンク・ファッションに身を包み、ヒップホップではなくパンクやベートーヴェンを愛聴している。いっぽう、ダルトンは知的で高尚な「ブラック・アート」のコレクターである。ビッガーは、ダルトン家に身を置くことにある種の心地よさを感じながらも、人種的コミュニティに対する裏切りや後ろめたさを感じている。このビッガーは、ジョンソンの鏡像だといえよう。《Plateaus》は、白人が作り上げてきた芸術的文法と、アフリカ系アメリカ人のアイデンティティを重ね合わせる文化的混血化を行っている。穿った見方をすれば、この混血性とは、エスタブリッシュされた白人中心の美術界に参入し、自らを成功させた処世術だともいえる。ジョンソンの成功は、アフリカ系アメリカ人への裏切りともいえるのではないか。だが、いっぽうでアフリカ系アメリカ人が、白人が作り上げてきたモダニズムなどの美術に魅了されることは罪なのだろうか。あるいは美術界で、白人と対等な存在として、評価されることは裏切りなのだろうか。このジレンマは解消されることがない。この不安が新しい黒人の「怯え」としてジョンソンの作品に存在している。
この「怯え」は、ランダール・ケネディによる著作『Sellout: The Politics of Racial Betrayal』と接続される。この本は、かつてケネディがアフリカ系アメリカ人の子供の育成を考慮し、異人種間の養子縁組を支持したことで、アフリカ系アメリカ人に対する裏切りであると強い攻撃を受けた経験に由来している。そして彼は、歴史的にアフリカ系アメリカ人の著名人たちが、人種的な「裏切り者」のレッテルをどのように貼られてきたのか、そして、彼らがそうなることにいかに怯えてきたのか、その歴史的実態と影響を明らかにする。歴史的事例としては、元奴隷で奴隷制度廃止の活動家として奴隷解放運動を率いたフレデリック・ダグラスが、白人女性と結婚した際に強い批判を浴びたこと。あるいはケニア出身の黒人の父親とアメリカ人の白人の母親を持ち、ハワイで母親と母親の家族によって育てられたバラク・オバマを、アフリカ系アメリカ人として認めないという攻撃が引き起こされたことなどが挙げられる。ただし、オバマをアフリカ系アメリカ人として決定づけてしまうことも、彼の複雑なアイデンティティを単純化してしまう。そのようなジレンマを抱えながらも、自らのグループから批判され見捨てられることに対する不安を、アフリカ系アメリカ人は常に抱えているのである。
ケネディが支持した異人種間の養子縁組も、ジョンソンの文化的混血性も、絶対的に正しい言説とは言えないだろう。ジョンソンは、このことに自覚的であるように思える。《Plateaus》は、超越的なポジションからの批判や、当事者としての抗議ではなく、内省的自画像として自らの立場を示している。批判されることがあるとしても、ジョンソンが抱え込んでいるアイデンティティの不安は、消去することのできないアフリカ系アメリカ人のひとつの社会的現実なのだ。
最後に再び《Plateaus》に視線を戻してみよう。本作品に不安や怯えが内在しているとしても、冒頭に書いたように鑑賞者を魅了する美しさを持っていることを忘れてはいけない。作品は時間が止められたものではなく、植物の生命力が全体を支えている。植物は、エキゾチックな効果を作り出していると書いたが、原産地が異なる様々な種類の植物を集めている。この文化的混血性を持ったアサンブラージュは、植民地の歴史と切り離せないプランテーションに存在として対立している。また《Plateaus》の中には、竹の絵が描かれた陶器が置かれている。それは安価な模造品だが東洋風である。そこに金色のスプレーでタギング的な文字が書かれ全体の要素と馴染んでいる。つまり《Plateaus》での文化的混血性は、白人と黒人だけではない。これらの混血的造形言語は、すべての構成要素を孤立することなくネットワーク化させ、美的統合を行うことで、ひとつのユートピアを構築していると言えるのだ。
*1──リチャード・ライト『黒人文学全集第二巻 アメリカの息子Ⅱ』橋本福夫訳、早川書房、1968年、259頁。
*2──フォンダシオン ルイ・ヴィトン「アート/アフリカ—新たなアトリエ」展(パリ、2017)に際してのラシード・ジョンソンへのインタビュー。
*3──國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』医学書院、2017年、27-28頁。