公開日:2022年6月15日

【プライド月間】クィア・アートをめぐる5つのキーワード:フェミニズムの視点から

6月は、世界各地でLGBTQ、性的マイノリティの権利を啓発する様々なイベントが行われる「プライド月間(Pride Month)」。本稿ではクィア・アートについて、「エイズ危機」「ドラァグ」「メイル・ゲイズ/フィメール・ゲイズ」「インターセクショナリティ」「同性婚」という5つのキーワードから解説する。

ロンドンには、クィア・アートを専門に扱う美術館が2館オープンしたばかり。そのうちのひとつ「Queer Britain」の展示風景より。プライドパレードの歴史やドラァグたちの肖像など、重要な資料が並ぶ © John Sturrock : Kings Cross

2017年に、イギリスを代表する美術館であるテート・ブリテンで「Queer Britain」という展覧会が開催され、話題を呼んだ。これは、英国で初めて「クィア」の名前を冠した美術展であった。いまや「LGBTQに理解のある国」のように見られる英国だが、この場所ではつい数十年前までは同性愛、とりわけ男性同士の関係は法的に禁じられ、犯罪とみなされてきた。そんな歴史を持つ国の国立美術館でクィアの展覧会を開催することは、視覚文化を通じて抑圧への反省と未来への決意を通じて表明する、政治的なアクションであったといえよう。
「クィア」を理解することは、誰もが生きやすい社会をつくるために必要不可欠である。本稿では、クィア理論をより深く理解するためのいくつかのキーワードとそれに関連するアーティストを紹介する。なお、執筆者はヘテロセクシュアルのアライ(出生時の性別と性自認が一致する異性愛者で、性的マイノリティの支援者)であり、反トランス差別フェミニストである。

クィアとは

そもそも、「クィア」とはどんな概念なのだろうか?
しばしば誤用されるケースも目にするが、「クィア(Queer)」という言葉は、たんにゲイやレズビアンといった性的マイノリティのカテゴリを指す言葉ではない。「クィア」という言葉には、もともと「変態」という意味があり、とりわけ19世紀末以降の英語圏では、同性愛者を差別するための侮蔑語として用いられてきた。しかしその後、それまで「お前たちはクィアだ」と侮蔑されてきた性的少数者たちが、あえて「自分たちはクィアである」と、自己肯定的にその呼称を使いだしたのだ。差別に対する抵抗、そして差別主義者たちへの挑発として既存の言葉を「再領有(reappropriation)」する態度こそが、クィアの根幹をなすひとつの重要な特徴である。

キーワード
1:エイズ危機

同性愛者に対する社会的抑圧が蔓延っていた20世紀のアメリカで、当事者たちが差別への抵抗を示す運動は、1969年のストーンウォールの反乱(警察によるゲイバーへの踏み込み調査に反発して起きた暴動)に端を発するといわれている。また、1980年代アメリカにおけるAIDS(エイズ)の流行も、クィア理論の確立と深く関わっている。体液を通じて感染するエイズには(実際は異性間の性交でも感染するのにもかかわらず)同性愛者間の性行為で広がる病気だという偏見が付きまとった。保守的なレーガン政権下、同性愛者への偏ったラベリングはメディアによって拡散され、社会のなかに強烈なホモフォビア(同性愛嫌悪)の波が生み出された。

病気への偏見と医療サポートの欠如が同性愛者コミュニティに暗い影を落とすなか、1982年に非営利団体GMHC(Gay Men's Health Crisis)が発足。彼らは政府のエイズ危機への積極的な介入を求め、患者の保護やコンドーム配布などに尽力した。それに続き、1987年ACT UP(AIDS Coalition to Unleash Power)が結成される。彼らは「SILENCE=DEATH(黙っていたら殺される)」をスローガンに、ウォールストリートでのプロテストをはじめとする直接的な行動を実現した。

また、エイブラム・フィンケルスタイン、ブライアン・ハワード、オリヴァー・ジョンストン、チャールズ・クレロフ、クリス・リオネ、ホルヘ・ソッカラスの6人は、SILENCE=DEATH Projectを立ち上げ、同スローガンを掲げたポスターを制作し、エイズ危機下のアクティヴィズムのアイコン的な存在となった。同プロジェクトのトレードマークであるピンクの三角形は、第二次世界大戦下にナチス・ドイツが同性愛者を収容する際に使用したマークを模している。これらの団体の活動は、いままでその存在を不可視化され、差別の対象となってきた同性愛者コミュニティの結束を高めるひとつの契機となった。

Silence = Death 1987

また、この時期に作品を通じて声をあげたアーティストとしてよく知られているのが、当時アメリカのストリートシーンで活躍したキース・へリング(Keith Haring)だろう。彼の作品《Silence = Death》(1989)は、まさにACT UP/SILENCE=DEATH Projectのスローガンが用いられている。

キース・ヘリング gnorance = Fear / Silence = Death 1989 出典:Wikimedia Commons https://collections.nlm.nih.gov/catalog/nlm:nlmuid-101452842-img 

2:ドラァグ

自分たちに向けられた侮蔑的な呼称を敢えて自称する「再領有」を象徴する存在として、ドラァグたちがいる。「ドラァグ」という名前は動詞のDrag(衣服の裾を引きずる)にあるとされ、彼/彼女らはゴージャスな異性装に身を包み、ダンスやリップシンクといったパフォーマンスを行う。華やかな女性装をする「ドラァグクイーン」は比較的よく知られているが、男性装をする「ドラァグキング」、あるいは女性が女性を演じる「バイオクィーン」も存在している。米国ドラァグクイーン界のスーパースター、ル・ポールが主催する「ル・ポールのドラァグ・レース(RuPaul's Drag Race)」はNetflixでも世界配信されているため、ドラァグの世界を知る第一歩にはうってつけだ。

ドラァグをめぐる議論のなかで欠かせない思想家として、現代フェミニズムの先駆的な論者であるジュディス・バトラーの名前を挙げておこう。彼女はその著書『ジェンダー・トラブル』のなかで、男らしさ/女らしさの差異は生得的ではなく、社会的慣習とイデオロギーのなかに生じるという「パフォーマティヴィティ」概念を展開し、現代フェミニズム・クィア理論の礎を築いた。彼女は、ドラァグたちのパフォーマンスは、たんに固定された女性らしさを強調するだけの行為ではなく、非異性愛的なアプローチで既存の規範を攪乱しうる可能性をもつとして評価した(*1) 。

しかしながら、「パフォーマティヴィティ」をめぐっては、さらに多角的な視点からの更新が求められている。たとえば、ドラァグクイーン/アーティストであるシン・ワイ・キン(Sin Wai Kin、別名ヴィクトリア・シン)は、ドラァグのパフォーマンスとしても白人に扮することが理想とされ、黒人やアジア人はドラァグコミュニティのなかでも差別に晒されていることを訴えた(*2) 。このような反駁は、クィアコミュニティのなかにもなお内在する差異と、二元論的な理解を超えた新たなセクシュアリティのあり方を理解する必要性を浮き彫りにする問題提起である。《It's Always You》(2021)で、シンは敢えて中国の京劇のようなメイクを施し、韓流アイドルのような架空のグループを作り出してみせる。東アジアの伝統と現代的なドラァグパフォーマンスを融合させることで既存のバイナリの攪乱をねらった作品が高く評価され、シンは2022年のターナー賞にノミネートされている。

3:メイル・ゲイズ/フィメール・ゲイズ

「メイル・ゲイズ(male gaze)」とは、女性に対して向けられる男性の視線を意味する。この語を最初に使用したのは、イギリスの映画批評家ローラ・マルヴィである。マルヴィは、映画においてカメラをコントロールするのは常に異性愛者の男性であり、男女のあいだに「見る者→見られるモノ」という不均衡な関係が生じてしまうため、記号化・客体化された女性のイメージが蔓延してしまうことを指摘した。

このような、映画における「見られる」女性の姿をとらえたアーティストに、シンディ・シャーマン(Cindy Sherman)がいる。彼女の「アンタイトルド・フィルム・スティル」シリーズは、モノクロのセルフポートレイト群だ。アーティスト自身がB級映画のなかに登場する典型的な女性キャラクターになりきり、女性に対して向けられるステレオタイプな視線をあぶり出す。

「見る主体としての男性」と「見られる客体としての女性」、古くから芸術作品のなかで繰り返されてきた暗黙の了解のような関係が言語化されたことは、芸術表象におけるジェンダーを考えるための大きな一歩だった。これに対して、クィアの視点からは「映画を見る主体はつねに男性なのか?」という反駁が寄せられる。テレサ・ド・ローレティスは、女性を欲望する視点が常に「男性的」なものとしてとらえられることへの疑問を呈した(*3) 。世界にはレズビアン女性が存在しているのだから、女性が女性を性的に欲望する視点も存在する。しかし、多くの作品のなかでその視点は無視され、「レズビアン女性」は単なる「女性」へと吸収されてしまう。ローレティスは、女性が女性を欲望するレズビアン主体の確立を要請し、同性愛というカテゴリのなかでレズビアンの差異が消去されがちであることへ警鐘を鳴らした。

ここで、1枚の絵画を見てみよう。この官能的な裸婦像は、同性愛が法によって禁じられていた20世紀初頭のイギリスで描かれたものである。この絵を描いたのはドーラ・キャリントン(Dora Carrington)という画家であり、モデルは当時の彼女の恋人ヘンリエッタ・ビンガム。ドーラは統制の厳しい時代にあっても自らのセクシュアリティを「ハイブリッド」と表現し、女性との恋愛経験があることを公にしていた。大学での講義は男女別室、女性がヌードを描くことに強い反発があったこの時代において、女性から女性へのセクシュアルな欲望を素直に描き出したこの作品は、保守的な社会規範を克服したレズビアン主体絵画の先駆であるといえる(*4) 。

ドーラ・キャリントン Female Figure Lying on her Back 1912 ©University College London Art Museum

近年には、「メイル・ゲイズ」のカウンターとしての「フィメール・ゲイズ」という概念が、映画界を中心に盛り上がりを見せている。たとえば、昨年公開され話題を呼んだセリーヌ・シアマ監督作品『燃ゆる女の肖像』では、まさに「フィメール・ゲイズ」が意識されていたことを女優自身が語っている(*5) 。女性が女性に向ける「まなざし」の描写については、こちらのレビューに詳しい。

4:インターセクショナリティ

クィアコミュニティが結束しはじめるいっぽうで、マイノリティどうしのあいだにも不均衡な差異が生まれたり、特定のセクシュアリティの存在が透明化されてしまうことがあるという問題について、本稿でもすでに確認してきた。近年になって、単純に「同性愛者」と「異性愛者」という二項対立のみでクィアを考えるのではなく、人々の経験が人種やジェンダー、階級などのさまざまな要素が交差することによって作られていることを意味する「インターセクショナリティ」という概念が認識されはじめた。ひとことで「同性愛者への差別」といっても、その主体が白人ゲイ男性なのか、黒人レズビアン女性なのか、あるいはアジア人バイセクシュアル女性なのかによって、個人の経験には差異が生じる。人々の経験を一元化せず、複層的な背景を認識する「インターセクショナリティ」の概念は、ジェンダーの問題を考えるうえで避けては通れない重要なキーワードである(*6) 。

2021年にこの世を去ったイトー・ターリは、パフォーマンス・アートを通じてインターセクショナルな性の在り方を表現した東アジア人アーティストの草分け的存在といえるだろう。1996年にレズビアンであることをカムアウトした彼女は、性暴力や差別への抵抗を、身体を通じて表現し続けた。後年には、歴史のなかで無きものにされてきた存在、従軍慰安婦や沖縄戦の被害者に焦点をあて、マイノリティの存在を繰り返し可視化しようと試みた。晩年は全身の難病・ALSに苦しんだが、闘病生活のなかでも自分の身体に向き合い続け、2019年には福島原発をテーマとした《37兆個が眠りにつくまえに》を上演している。

また、ザネル・ムホリ(Zanele Muholi)は、トランスジェンダーに焦点を当てた作品を生み出し続けている。ムホリは、自らの性別をノンバイナリー、「ただの人間(just human)」と規定する。2000年代初頭というかなり早い段階から、ムホリは南アフリカのブラックレズビアン、トランス、インターセックスのコミュニティの生活を記録し、祝福してきた。初期のシリーズ「Only Half the Picture」では、黒人トランスジェンダーの身体に迫り、トラウマ的な出来事さえ暗示する強烈なイメージをとらえている。(参考図版)

インド・ニューデリー出身のスニル・グプタ(Sunil Gupta)は、現在はロンドンに拠点を置いている。オープンリーゲイかつHIV陽性患者であり、1970年代から当事者としてゲイ解放運動に取り組んできたグプタは、同性愛と人種的マイノリティ、宗教や階級にアプローチする。映画やドラマといったフィクションのなかにさえ、インド人の同性愛者がいないのはなぜだろう? インド系の同性愛者たちは、国内では保守的な価値観に紐づく同性愛への不理解に、欧米では肌の色の濃さゆえに視覚表象のなかで無きものとされる不平等に、それぞれ苛まれてきた。彼の代表作「Exiles(亡命者)」シリーズは、これまで不可視の存在だったインド系同性愛者、二重のマイノリティとして生きる人々の姿に焦点をあてた、ドキュメンタリーのような写真作品である。グプタは、現在ロンドンで同性パートナーのチャラン・シンと結婚生活を送っており、ふたりで同性愛者やHIV患者のための社会的プロジェクトを行うアクティヴィストとしても活躍している。

5:同性婚

最後に、日本にいる私たちこそが考えなくてはいけないキーワードに「同性婚」を挙げたい。
2001年にオランダで認められて以降、欧州を中心として31か国で同性婚が法的に認められている(2022年7月に法施行予定のスイスを含む)。また、同性間での関係であっても、異性婚とほぼ同じ権利を保障するパートナーシップ協定、シビル・ユニオンを許可している国も多い。いっぽうで、日本ではすでに知られているとおり、G7のうち唯一同性婚もシビル・ユニオンも認められていない国である。

日本が法制化に足踏みしているなか、すでに同性婚を認可した国ではさらに多様な家族の在り方が広がっている。たとえば、イギリスの老舗デパート・ジョンルイスが昨年公開したこの広告はどうだろうか?

女性カップルと、彼女たちのあいだに誕生した子供たち。この広告が公開されたのはプライド月間の6月ではなく4月であり、添えられたキャプションにも彼女たちが同性カップルであることについての言及はない。それはもはや当然のこと、彼女たちは社会のどこにでもいる普通の家族だからだ。

長谷川愛は2015年に《インポッシブル・ベイビー/(Im)possible Baby, Case 01: Asako & Moriga》を発表し、同性愛者どうしのカップルの遺伝子情報から、ふたりの子供の姿を3DCGで再現した。長谷川の作品は、ありえるかもしれない未来の姿を思索する「スペキュラティブ・デザイン」の姿勢に基づいている。異性間のセックスに代わって科学技術によって家族と子供を作ることを想像したこの作品は、賞賛と批判の双方を同時に浴びるコントラバーシャルなものとなった(*7) 。

長谷川愛 インポッシブル・ベイビー/(Im)possible Baby, Case 01: Asako & Moriga 2015
長谷川愛個展「4th Annunciation」(2021)展示風景より。作品横に来場者が自由にコメントを書けるスペースが用意されていた

同性婚の法制化は、マイノリティの人権を守るために必要不可欠なアクションである。しかし、同性婚を法制化すればそれですべての問題が解決するというわけではない。日本が世界的に見てもジェンダーギャップの激しい国であることは、すでに周知の事実であろう。世界経済フォーラムが毎年発表するジェンダーギャップ指数ランキングではここ10年ほど100位以下をキープし、G7のなかでは圧倒的な最下位を独走している。このような状況下で、シスヘテロ女性たちは日々さまざまな偏見と戦っている。婚姻制度をめぐっても例外ではない。「〇〇歳までに結婚できなければ負け組」、「子供を産んでなきゃ半人前」……シスヘテロ女性たちにとって、こんな言葉を浴びせられることは日常茶飯事だ。

同性婚の法整備だけが進んでも、恋愛や婚姻に関する家父長的なジェンダーロールの偏見が改善されなければ、差別はそこに残り続ける。「同性婚が許可されているのに、まだ結婚してないの?」──いままで異性愛者たちが苦しんできたイエ制度に基づく社会規範を、同性愛者に対しても再度押し付けてしまうような状況は避けられるべきだ。愛するふたりが法律婚で結ばれる自由があるのと同様に、年齢を重ねてから結婚する自由も、子供を持たない選択をする自由も、一生結婚しない自由もある。同性婚の法制化によって婚姻の自由を保障するとともに、その枠に入らない人々の生き方も尊重する、そんな社会こそが求められている。

誤解を恐れずに言えば、この文章は「最後まで読めばクィアについて完全に理解できる」というものではない。本稿で取り上げることができなかった重要なトピック、魅力的なアーティストはまだまだ存在する。私たちは、プライド月間が終わってからも、クィアとして歩み続ける、あるいはクィアに寄り添い続けることとなる。本稿が、「無きものにされる人」がいない社会をめざすための一助となっていればうれしい。

*1──バトラーのパフォーマティヴィティ理論とその問題点をクィアの観点から再考するテキストは、日本語圏からも複数提出されている。例として以下の文献を挙げておく。井芹真紀子「<トラブル> 再考: 女性による女性性の遂行 (パフォーマンス)と攪乱」、『ジェンダー&セクシュアリティ』5号、国際基督教大学ジェンダー研究センター編集委員会、2010年、23-43頁。小宮友根「行為の記述と社会生活のなかのアイデンティティ:J. バトラー「パフォーマティヴィティ」概念の社会学的検討」、『社会学評論』60(2)、日本社会学会、2009年、192-208頁。藤高和輝、「J・バトラーのジェンダー・パフォーマティヴィティとそのもうひとつの系譜」、『ジェンダー&セクシュアリティ』12号、国際基督教大学ジェンダー研究センター編集委員会、2017年、183-204頁。

*2──シンのインタビューはこちら。なお、「ヴィクトリア・シン」はドラァグとして活動するときのニックネームであり、アーティストとしてはシンの中国名である單慧乾を用いている。“ヴィクトリア・シン:アジア系女性ドラァグ・クイーン,” I-D, 26 Dec 2016, accessed 05 June 2022, https://i-d.vice.com/jp/article/3kb87v/talking-race-and-intersectionality-in-drag-with-victoria-sin.

*3 ──Adams, Alice E. “Making Theoretical Space: Psychoanalysis and Lesbian Sexual Difference.” Signs 27, no. 2 (2002): 473–99, pp490-494.

*4──彼女の作品は、本稿冒頭でも紹介したテート・ブリテンでの特別展「Queer Britain」でも紹介された。“Five Stories of Queer Artists,” Tate, accessed 05 June 2022, https://www.tate.org.uk/art/five-stories-queer-artists.

*5──主演女優のひとりであるノエミ・メルランは、以下のインタビューで「フィメール・ゲイズ」について語っている。“『燃ゆる女の肖像』ノエミ・メルランインタビュー,” Neol, 26 Nov 2020, accessed 05 June 2022, https://www.neol.jp/movie-2/101641/. また、映画界におけるフィメール・ゲイズ概念の拡大については、久保豊による以下の記事に詳しい。“『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』におけるフィメール・ゲイズ 視覚が提示する読みの可能性,” Wezzy, 06 June 2020, accessed 05 June 2022, https://wezz-y.com/archives/77722 

*6──このキーワードは、近年SNS上で拡大しつつある、トランス女性に対する差別とも深く関連する。本来であればフェミニズムとクィアはその地平を分かち合う思想であろう。本稿では文字数を割けなかったものの、筆者は出生時の性別を理由にトランス女性を特定の場から排斥することは、極端な二元論的思考と既存の不平等をさらに強化するおそれがあると考える。世界におけるトランス排除論の現状については、以下のサイトに日本語で詳しくまとめられており、トランスインクルーシブなフェミニズムの実現に向けてぜひ一読されたい。”TRANS INCLUSIVE FEMINISM,” https://transinclusivefeminism.wordpress.com/

*7 ──同性カップルが家族を考える際に、出産の問題は避けて通れない。諸外国では、結婚の法整備が進むとともに、代理母出産をめぐる議論も盛んになりつつある。たとえば、イギリスではすでに代理母出産は法律的に許可されているが、代理母に報酬として実費以外の金銭を渡す商業的代理出産は禁止されているため、卵子提供者と出産者が一致するトラディショナル・サロガシーのみが認められている。商業的代理出産を認める国が複数あるなかで、一部地域の女性たちが搾取的な代理出産ビジネスの標的となってしまう現状は、すでに大きな問題となっているからだ(https://www.bbc.com/news/world-asia-india-37050249)。同性カップル間において子供を持つ自由を保障するため、生殖医療の発展はもとより、特別養子縁組や里親制度など、様々な選択肢が拡大することが期待される。

齋木優城

齋木優城

齋木優城 キュレーター/リサーチャー。東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻修士課程修了後、 Goldsmiths, University of London MA in Contemporary Art Theory修了。現在はロンドンに拠点を移し、研究活動を続ける。