公開日:2024年5月7日

親パレスチナ団体はなぜ絵画を切り裂いたのか。環境問題やパレスチナ侵攻とアートについて「セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)」の視点から考える(文:Maya Erin Masuda)

イスラエルによるパレスチナへの侵攻は、アートの領域でも大きな議論を巻き起こしている。こうした問題をどう考えればいいのか?

「パレスチナ・アクション(Palestine Action)」による、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジでのバルフォア卿の肖像画への攻撃

2022年から環境保護団体らが抗議活動の一環として行なってきた芸術作品への攻撃が止まらない。そんななか、今年3月8日に親パレスチナ団体「パレスチナ・アクション(Palestine Action)」が行ったバルフォア卿の肖像画への攻撃は、ガラスケースなどではなく絵画自体を直接傷つける攻撃を行った点で、一線を画すものであった。

こうした絵画への攻撃はなぜ止まないのか。また気候危機から、ロシアによるウクライナ侵攻、そしてイスラエルによるパレスチナ侵攻へと至る近年の深刻な政治的問題について、アートを通して何をどのように考えることができるのか。2022年にTokyo Art Beatに論考「ゴッホにモネ、なぜ環境団体は「絵画」を標的にするのか? ウクライナ侵攻後の欧州情勢や思想的背景から探る」を寄稿した筆者が、いま改めて本テーマについて考察する。【Tokyo Art Beat】

連続する絵画への攻撃を改めて考察する

ウクライナ危機、石油価格の上昇、そしてイスラエルによるパレスチナ侵攻──昨年から続く世界情勢の変動を反映するかたちで、活動家による絵画に対する攻撃が増加、またその手法も様々に多様化している。本稿では、セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義、もしくは定住型植民地主義)、エコロジー、そして土地と人を結ぶ「親密さ」といった文脈から、 帝国をめぐる「記憶」と「記録」について考察する。

パレスチナ・アクションによるバルフォア卿肖像画への攻撃

昨年から、環境活動団体による絵画を媒介とした抗議活動が相次いでいる。ゴッホの《ひまわり》につづき、モネの《春》。2024年1月に起きた《モナ・リザ》のガラスへの攻撃(*1)は記憶に新しい。これらの絵画への攻撃は、以前この原稿(*2)で論じた通り、ほとんどのものは作品の破壊を意図しない、ガラスという絵画と観客を隔てる物質を標的にしたものであり、またその手法も、ガラスへの身体の貼り付けや貧しい環境で死んでいった画家への共感など、「親密さ」を基調とするパフォーマンスであった。

だが、それらの活動と一線を画すかたちで現れたのが、パレスチナを支持する団体「パレスチナ・アクション(Palestine Action)」によるバルフォア卿の肖像画への攻撃(*3)である。この絵画はフィリップ・アレクシウス・ド・ラースローによって1914年に制作され、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに収蔵されている。

今回標的にされたバルフォア卿(アーサー・バルフォア、イギリス元首相)は、 パレスチナで後に民族浄化を引き起こす原因のひとつとなった1917年のバルフォア宣言に外相としてサインをした人物である。当時イギリスの領土でもない、かつ当時先住のアラブ人・キリスト教徒などが人口の90%を占めていたパレスチナに、シオニストの「郷土」を建てることへの支持を約束するその宣言は、中東におけるイギリスの戦争責任を問うものとして、現在でも国際社会で物議を醸している(*4)。こうした入植行為はセトラー・コロニアリズムと呼ばれ、植民者が特定の土地を永久的に占領し、すでに存在する社会を植民者のもので置き換える行為のことを指す。

今回絵画への攻撃を通して抗議を行ったパレスチナ・アクションは、こうしたイギリスの戦争責任を追及するとともに、イスラエル最大の武器会社であるエルビット社と、エルビット社に出資をするイギリスの共犯関係について言及しており (*5)、バルフォア卿の絵画を所蔵していたケンブリッジ大学による、エルビット社への多額の寄付(*6)も批判の対象となる。こうした点から、今回の抗議はイギリスの帝国主義そのものに向けられたものであり、これまでの環境活動家のパフォーマンスとは、意図においても手法においてもまったく異なるものであることはまず初めに述べなければならない。

だが、絵画を標的とした切り裂き、ヴァンダリズムと呼ばれるものは、これが初めてではないのも事実である。イギリスでフェミニズムを訴えたサフラジェットのメアリー・リチャードソンが、女性の参政権への訴えとしてベラスケスの絵画を切り裂き(*7)、それが環境団体「ジャスト・ストップ・オイル(Just Stop Oil)」のインスピレーションとなったように(*8)、これらの運動同士は、長いあいだ互いに有機的に手法的影響を与えてきた。そしてジャスト・ストップ・オイルを初めとする複数の環境団体は、パレスチナ・アクションによるこれらの活動の公式な支持を表明しているのである(*9)。これらの運動が交差する場所に、いったいどのような背景があるのだろうか。また我々はこれらの破壊行為の正当性を、どのように見出せば良いのだろうか。

相互作用するアクティビズムたち

双方の活動の交差地点を考察するにあたり、帝国主義と、それがもたらすエコロジカルな共同体の解体、またそれと視覚文化との歴史的に続く共犯関係を無視することは不可能であろう。

たとえばエコロジーを専門とする美術史家のヘザー・デイヴィスは、パレスチナのイブン・イブラク(Ibn Ibraq、またはアル・ハイリーヤ/Al-Khayriyya)というかつて村があった土地の実例から、植民過程における土地認識のポリティクスについて論じている。この事例においてイスラエルは、かつて草原であった歴史的に重要なパレスチナのこの土地に、海抜80mにもなる巨大なごみ廃棄場を建設する際、その土地が「不毛」な「砂漠」(*10)であり、その有効利用が「サステナブル」(*11)であるという新自由主義的レトリックを用いた。エコロジカルなイメージを戦略的に打ち出すことで、より大規模な植民地支配や環境破壊を覆い隠すこの手法は、グリーン・ウォッシング(*12)と呼ばれ、今日に至るまで、石油会社や国家によって戦略的に用いられてきた。本件において植民者は、そこにある「草原」を、視覚認識に基づいて「不毛な土地」であると主張し、その有効活用はより環境問題に貢献しているとアピールすることで、植民地主義を正当化するのである(*13)。草原であった土地に数百トンの廃棄物を埋めたとしても、入植者にとってその土地の光景はそこまで変わらないかもしれない。だがデイヴィスが指摘する通り、問題となるのは、本来息づく共同体としての土地を、植民者が視覚的に「不毛な土地」として還元する行為そのもの(*14)なのである。

こうした手法に共通するのは、それが土地の匂い、音、そして空気における化学物質の構成(ケミカル・インフラストラクチャー)(*15)などを変容させることで、パレスチナ人の土地からパレスチナ人を情動的に切り離し、その土地との親密な心的関係性を組織的に排除してきた(*16)ということであろう。これらの行為は、視覚に依るものに限らない水、風、土といった様々な媒質を通して共同体の新陳代謝に影響を与え、人間を含め「共に息をする」共同体としてのエコシステムを破壊する。前稿において私は、「共に息をすること」を含む親密さのパフォーマンスが黒人公民権獲得のための鍵となったことを議論した(*17)が、本件はそのダイナミクスが逆照射され、 息をすることのポリティクスが特定の住民から土地への親密さを切り離すための戦略として用いられたひとつの事例なのである。

ここからもわかる通り、セトラー・コロニアリズムを初めとする数々の植民地主義が共同体から奪ってきたものは、土地という記号に到底限定できるものではない。

ダナ・ハラウェイ(*18)、セシリア・オスバーグ(*19)など数々のフェミニスト研究者がポストヒューマニズムの文脈から指摘してきたように人間が周囲の存在たち(agencies)とのあいだに生かされている多孔的な存在である以上、空気や水など人が生きる環境は、そこに根付くネットワークとして、ある種人間という存在そのものの一部をかたち作っているのである。そしてそれは、絵画・彫刻などの視覚芸術を用い、人々の生活を植民地から、植民地を人々の生活から切り離すかたち(*20)で、明快かつ簡略化された権力のナラティブを描いてきた帝国と、そこから取りこぼされてきた土地と人々とのつながりや帰属意識 (belonging)、そして共同体の記憶との差異への、重要な手掛かりとなる。

共同体の記憶はいかにして保存されうるのか。帝国のナラティブ/共同体のナラティブ

次に、この周辺に位置する議論について、実際の展覧会を取り上げながら読み解いていきたい。

カリム・アイノズ

ベルリンDAADギャラリーにて開催されたカリム・アイノズ(Karim Aïnouz)の個展「Blast! 」(*21)は、ブラジル系アルジェリア人である映像作家の個人史を、太陽という概念を媒介に取り上げる展覧会である。

なかでも奥の部屋に展開され、展示の中核となる役割を担う《Brighter than the sun》は、かつてフランスの植民地支配下にあったアルジェリアにおける原爆実験(*22)を取り上げた映像作品だ。

日記を書き始めたのは14歳のときだった。みんな私が物事を忘れていると言った。
私の記憶力は本当に私を裏切っていた。それが怖くなり、書くことに夢中になった。
大人になった私はカメラを買い、撮影に夢中になった。
私は自分の足跡を残すこの方法を完璧なものにした。レコーダーも買った。視力を失い始めると、書いたり撮ったりすることが意味をなさなくなった。だから私は話し始めた。自分に。そして他人に。私は忘却することがとても怖い。
未来を想像できるようになりたいんだ、博士。私は生存者です。モロー博士。生き残ったんだ。"レガネス "にされたこと... 
それ以来、私の視界から消えることはない"燃える光 "を...。

視力が悪くなるにつれて、嗅覚が強くなった。そして奇妙なことに、私を恐怖に陥れるもうひとつのものが、目に見えないものであることを知っているでしょう。私たちが呼吸する空気。忘れることと、そして呼吸すること。じつはこれが私の最大の恐怖なんだ。ここパリでさえ、呼吸が怖い。時折舞い降りるこの奇妙な埃は、それを思い出させるものだと思いませんか、モロー博士? 日が経つごとに、すべてが少しずつ暗くなっていく。闇は私を煩わせないが、光は私を悩ませる。

太陽より明るいものを見たことがありますか?(*23)

生存者の証言に基づき制作されたフィクションである本作において、原爆実験により徐々に視覚が失われてゆくなかで生きる主人公は、次第に嗅覚に、持ち歩くレコーダーに、そして呼吸にその存在の記憶を見出すようになる。そして主人公がアルジェリアのレガネスを離れ、遠く離れたパリで暮らし始めるなか、その物理的な距離を超えて主人公を過去の記憶へと引き戻すのも「息をする」という行為なのである。ここでは、原爆実験の記憶が、視覚とその喪失という象徴的な出来事として描かれるのと対照的に、主人公のそれ以降の記憶、そしてそれ以前の記憶の懐古は、嗅覚や呼吸など複数の肉体感覚に結びついた、苦しみと回復のあいだの多面的なナラティブとして表象される。

サラ・アーメッドが、「息のできる生活のための闘争は、クィアが呼吸するスペースを得るための闘争である。呼吸するスペースを持つこと、あるいは自由に呼吸できることは、[......]願望である。呼吸には想像力が伴う。呼吸には可能性が伴う。クィア政治が自由についてであるならば、それは単に呼吸する自由を意味するのかもしれない」(*24)と述べる通り、息をすることの自由は、物質的・環境的要因だけでなく、社会的・心的安全性が確保されることによって初めて担保されるものでもある。主人公の土地との関係性の断絶は、呼吸という行為を通し、嗅覚・聴覚などの複数の感覚から構築される記憶として描かれることで、逆説的に説得力を持って故郷の喪失/不在について語ることになるのである。

グエン・チン・ティ

またベルリン・ギャラリー(Berlinische Galerie)のタイムベースト・メディアを扱う作家を紹介するプログラム「IBB-Videoraum」にて3月より上映されている《How to Improve the World》(*25)は、ハノイで育ち映像作家となったグエン・チン・ティ(Nguyễn Trinh Thi)による、アメリカ人の父を持つ作家の娘と、またベトナムに暮らす音楽家クソール・セップ(Ksor Sep)に対するインタビューから構成されたエッセイフィルムだ。

「あなたは音とイメージどちらが信じられると思う?」。グエン・チン・ティのベトナム訛りの英語の投げかけに対し、英語と英語訛りのベトナム語を話す娘は「イメージだよ、ママ」とアメリカ英語で答える。また続く場面において、ベトナムの中部高原地方に居住する少数民族ジャライの音楽家のクソール・セップは、キン(ベトナムの主要民族)に侵略される以前、かつて自分の土地があった山々や、そこにいた人々の生活の音の記憶について、ジャライ語で語るのである。映像が先行するのでなく、動物や雨、様々な人間以外の存在の音が映像に先立つかたちで構成された本作は、西洋的視覚中心主義とは別の、音と物語を中心とする記憶/歴史構築のあり方を丁寧に拾い上げる。

ベトナムは、1960年代にアメリカを初めとする資本主義陣営と、ソ連・中国などが支援していた社会主義陣営の代理戦争の現場として、多数の民間人が亡くなり、また過酷な戦場として無数の共同体・記憶が失われることとなった歴史的複雑性を持つ(*26)。ベトナムにおいて消えゆく音や伝承を中心とした世界のあり方と、そして矛盾するように育つ視覚中心的な世界認識の存在は、トランス・ナショナルなアイデンティティを持つ娘と映像作家本人との対話により、アメリカとベトナムとのあいだの、安易な植民 - 非植民(支配 - 非支配)という構図を退けるかたちで浮かび上がる。作家が「グローバリゼーションが進み、西洋化を遂げた文化が視覚メディアに支配されるようになったいま、視覚的イメージの権力に抵抗し、未知なるもの、目に見えないもの、アクセスできないもの、聴覚的風景により注意を払うことで、[......]よりバランスの取れた繊細なアプローチを模索する必要性と責任を映画監督として感じている。」(*27)と後に語っているように、この映像作品もまた、伝承や音を通じて形作られてきた共同体の「記憶」と、帝国主義が戦略的に用いる、視覚中心主義的「記録」のあいだの断絶を浮き彫りにするのである。

ヴァンダリズムなのだろうか?

さて、バルフォア卿の絵画に対する切り裂きに話を戻すと、それが紛れもない破壊行為であり、同時に帝国主義のナラティブへ一石を投じる行為であることは言うまでもないだろう。本稿を書くにあたって、今回の事件は正当化しうるのかという議論に筆者も大変悩まされ、検討の為に長い時間を要した。というのも本件は、セトラー・コロニアリズム、帝国主義、絵画史、非暴力抗議の歴史、視覚政治、そして様々な記憶と記録の政治が交差する、大変複雑な領域に位置しているからである。同時に、(私も含む)グローバル・ウェストがひとつの絵画への攻撃について議論を重ねているあいだにも、アメリカがその輸出源の53パーセント、ドイツがその輸出源の47パーセントを担う爆薬・ドローン・ロケットなどの兵器(*28)が、パレスチナの図書館を、大学を、文化を破壊し、病院を爆破している。10月から虐殺が続き、大量の共同体が、命が奪われているこの世界の面前で、この圧倒的な武力と権力の不均衡をどう受け止めようか。

だからこそ、本件について私にまだ書けることがあるとすれば、それはこれまで帝国が用いてきた、またあらゆる未来の帝国が武器化しうる記憶の上書きについての手法を分析し、未来の批評的土壌を作るということなのではないかと思う。上記の議論で示したとおり、植民地を理想化して描く風景画(*29)や、植民者の称揚としての肖像画・彫像などに見られるように、植民地支配やインペリアル・アートの本質の一端が、「歴史」という名の下における別の共同体の記憶の忘却・ナラティブの上書きに宿るとしたら。そして、視覚文化そのものが、その戦略の構築に大きな役割を担ってきたとしたなら(*30)。一連の抗議は、バルフォアの肖像といった描かれた記号だけに向けられたものではなく、帝国の視覚政治(ヴィジュアル・ポリティクス)そのもの、そしてそれに伴う記憶の上書き行為や、人々と環境の間に形成される「親密さ」・もしくは相互補完関係の、恣意的な排除に向けられたものだと理解することができる。

絵画を守ることが重要なのであれば、いま我々にできることは、そうした帝国主義と芸術のつながりについて誰よりも批判的になることではないだろうか。帝国主義が芸術を利用する手法について学び、他方にある失われた記憶を知り、そしてそれを「知る」ということの限界を理解し、それでも向こう側を想像しようと苦戦することではないか。帝国のナラティブを別の単純化されたナラティブで置き換えるのではなく、複雑さを複雑さとして受け止め、そこに表出しない共同体の存在に耳を傾けること。失望する前に、できることはまだ沢山あると信じている。

*1──https://www.smithsonianmag.com/smart-news/climate-activists-throw-soup-mona-lisa-leonardo-da-vinci-180983677/
*2──https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/climate-art-protests-maya-yasuda-202211 
*3──https://www.artnews.com/art-news/news/lord-balfour-portrait-slashed-israel-palestine-protest-1234699348/ 
*4──https://www.aljazeera.com/features/2018/11/2/more-than-a-century-on-the-balfour-declaration-explained
*5──パレスチナ・アクションによる今回の事件への声明:https://www.palestineaction.org/lord-balfour-painting/  
*6──https://www.artnews.com/art-news/news/lord-balfour-portrait-slashed-israel-palestine-protest-1234699348/ 
*7──https://artuk.org/discover/stories/fighting-for-representation-suffragettes-and-art-vandalism 
*8──https://juststopoil.org/2023/11/06/women-didnt-get-the-vote-by-voting-its-time-for-deeds-not-words-just-stop-oil-supporters-smash-suffragette-painting/ 
*9──https://x.com/JustStop_Oil/status/1746893873455014110
*10──Demos, T. J., et al. The Routledge Companion to Contemporary Art, Visual Culture, and Climate Change. Routledge, 2021.
*11──Hughes, S. S., Velednitsky, S., and Green, A. A. "Greenwashing in Palestine/Israel: Settler colonialism and environmental injustice in the age of climate catastrophe." Environment and Planning E: Nature and Space, vol. 6, no. 1, 2023, pp. 495-513.  https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/25148486211069898
*12──https://www.un.org/en/climatechange/science/climate-issues/greenwashing  
*13──Demos, T. J., et al. The Routledge Companion to Contemporary Art, Visual Culture, and Climate Change. Routledge, 2021.
*14──Demos, T. J., et al. The Routledge Companion to Contemporary Art, Visual Culture, and Climate Change. Routledge, 2021.
*15──Murphy, Michelle. “Chemical Infrastructures of the St Clair River.” Toxicants, Health and Regulation since 1945. Ed. Soraya Boudia and Nathalie Jas. Pickering & Chatto. 103–116. Print.
*16──Demos, T.J., Emily Eliza Scott, and Subhankar Banerjee, editors. The Routledge Companion to Contemporary Art, Visual Culture, and Climate Change. Routledge, 2021.)
*17──https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/climate-art-protests-maya-yasuda-202211 
*18──Haraway, Donna. "Otherworldly Conversations; Terran Topics; Local Terms." The Haraway Reader, Routledge, 2004, pp. 125-150.
*19──Åsberg, Cecilia. "The Timely Ethics of Posthumanist Gender Studies." Feministische Studien: Zeitschrift für interdisziplinäre Frauen- und Geschlechterforschung, vol. 1, 2013, pp. 7–12.
*20──Pratt, Mary Louise. Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation. Routledge, 1992.
*21──https://www.berliner-kuenstlerprogramm.de/en/events/karim-ainouz-blast/  
*22──https://www.architectural-review.com/essays/nuclear-powers-frances-atomic-bomb-tests-in-the-algerian-sahara  
*23──Karim Aïnouz. “Brighter than the sun”. 2023. Blast!, DAAD-Galerie Berlin, Berlin, 02.02.–24.03.2024. プリントより著者訳 
*24──Ahmed, Sara. The Promise of Happiness. Duke University Press, 2010. E-book, p. 120.
*25──Berlinische Galerie: IBB Video Space, https://berlinischegalerie.de/en/exhibitions/current/nguyen-trinh-thi/ 
*26──小倉 貞男『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』, 岩波書店, 2005
*27──https://nguyentrinhthi.wordpress.com/2021/11/28/how-to-improve-the-world-2021/ 
*28──Stockholm International Peace Research Institute (SIPRI) https://www.sipri.org/sites/default/files/2024-03/fs_2403_at_2023.pdf 
*29──Pratt, Mary Louise. Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation. Routledge, 1992.
*30──Mirzoeff, Nicholas. The Right to Look: A Counterhistory of Visuality. Duke University Press, 2011. 

Maya Erin Masuda

Maya Erin Masuda

ベルリン、ロンドン、東京を拠点に活動するアーティスト/研究者。英Royal College of Artを経て、現在ドイツUniversität der Künste BerlinにてQueer Ecologyを研究。Feminist Queer Journal『i+med(i/e)a』 の共同設立者であり、キュレーション、出版、アクティビズムなど幅広く活動している。京都芸術センターCo-program 2023のキュレーターを担当。主なキュレートリアルワーク・個展にGround Zero (京都芸術センター, 2023)、Sleep, Lick, Leak, Deep….(Daiwa Foundation Gallery London, 2024) など。