「芸術」という人間的な枠組みなしの「芸術」はありうるか。現在、島根県立石見美術館で開催されている平川紀道と野村康生の二人展において展開された作品群に潜在するのは、おそらくそのような問いである。宇宙や科学への関心など、平川と野村の仕事はいくつかの共通点を持つ。人間という枠組みの外で思考された両者の作品は、必然的に、芸術というフレームそれ自体のスケールを拡張することに結びつく。本展は、島根県にゆかりのある美術家を取り上げるという趣旨のもとに企画されたものだが、そのようなローカルな枠組みを超えて、両者の作品は、ともに、宇宙論的、科学的拡張性をもつと言える。
本稿では、都合により野村作品のみを取り上げるが、平川紀道の作品もきわめて高い水準にあるものだった。本展のように、公立美術館が業界の動向に左右されず地道な活動を展開する実力ある中堅作家を取り上げ展示することの意義は大きい。
本展は、平川の3作品、野村の1作品に加え、二人の共同制作1点で構成される。本展に野村が出品したのは、《InsideOut》(2022)と名付けられ、現場で制作と設置が行われた大型の構造物である。タイトルにある「インサイド・アウト」とは「裏返し」を意味する。展示室のなかでもっとも天井高のある部屋の空間を全面的に使用して制作されたというこの構造体は、さしあたって巨大な半球状のドーム型の構造物であると要約することが可能だろう。
が、この半球状のドームを経験する前に(つまり、展示室に入る前に)、観者はまず小さな「洞窟」ないし「トンネル」を通り抜けなければならない。そこをくぐると、空気の流れとともにデフューザーから放たれたかすかな芳香が漂ってくる。トンネルを抜けた先には、直径10メートルのドームが姿を見せる。ドームは、バックミンスター・フラーのドームで知られる正四面体を基軸とした三角形のユニットの連続からなるジオデシック構造を持つ(フラーは、正四面体を宇宙の原理的な形態であると考えていた)。ドームは、半透明の薄いフィルムの膜で覆われ、天窓から送り込まれた空気の揺らぎによって静かに振動する。観者の身体は、フルフルと震える大きなシャボン玉の内部に入ったような感覚に包まれる。さらに部屋の奥では地元・島根県の高津川で録音されたという環境音が流される。反復的な持続音は、加工なしの音響でありながら、環境系の幾何学的秩序を伝える。
さらにドームの内側の頂部から、同じく正四面体のユニットで形成されたピラミッド型の構造体が吊り下げられ、ゆっくりと回転する。正四面体のすべての面は多彩な色で着彩され、その回転にしたがって、外側のドームの膜に様々な色の断面が映り、変幻する。こうしてドームの膜の表面には、赤、緑、黄、ピンク、紫などの無数の三角形が、展示室の天窓から差し込む光と共鳴し、乱反射しながら映し出されることになる。このとき、空気や光といった自然現象が介在することによる不定形な運動が展開されるいっぽう、視覚に映るすべての形態は幾何学的に統御された三角形の面のみであるという二極性が、観者の経験を抽象化する。そのため、ここで問題とされているのは、作品形態それ自体の抽象性というよりも、空間の抽象性、経験の抽象性である。
そこで観者は、ドームのフィルムの膜に投影された正四面体の構造物が、バラバラの三角形の断片に散開していく様を目撃することになる。それは、立体が、光の重なり合いが生み出す無数の鏡像=映像へと変換されることだ。そこに見られるのは、三次元を二次元の断面に切断することから生み出される幾何学性である。ゆえにこの現象は「次元」という位相の流動性を視覚的に提示することになる。それを作り出すのは、人間の知覚を超えた、四次元方向から放たれた光である。
野村によれば、このドームは地球を表しているという。したがってタイトルにある「インサイド・アウト」は、〈地球を裏返す〉というこの作品のコンセプトが隠されていることを示す。そのため、経験的に私たちがこのドームに入ることは、裏返った地球の表面を、その内側から観測するというトポロジカルな位相の反転を意味することになるのだ。地球の表面が裏返り、その内部から地球を観測するというこのドームのトポロジー的特異性は、様々な三角形がいたるところで乱反射するように折り重ねられ、やがて方向失認に至るこの作品の経験的位相とも連動している。
野村が明言するように、このドームは数学の世界で「クラインの壺」と呼ばれる形態に構造的に接近している。たとえば彼が執筆した展覧会のハンドアウトにはこのように書かれている。
「数学の世界にはクラインの壺と呼ばれる不思議な壺がありますが、この壺には内と外がありません。ただ内と外を隔てる薄い膜があり、この膜にそって進むと内側だと思っていたらいつの間にか外側になってしまうという壺です。あなたがトンネルを抜けている間に空間が裏返ったとしたら、外に広がっているはずの宇宙の果てはどこになるでしょうか。美術館での体験をからだの隅々まで使って感じてみてください。138億年前に生まれた星々から作られたあなたのからだの内側にも、同じだけ広大な宇宙が広がっていることに気づけるかもしれません。」
ゆえに、野村の《InsideOut》において、観者の鑑賞経験は、はじめ洞窟を通り抜け、その後様々な芳香を嗅ぎ、室内に響く音を聴きながら、ふわふわとしたドームの膜に沿って進むと、いつの間にかクラインの壺のような空間的な裏返しを経験していた、というプロセスによって設計されている。そこで、匂い、音、色、空間の感覚は、あいまいに溶け合い混じり合っていく。
私がここで想起したのは、チャールズ・サンダース・パースが『連続性の哲学』のなかで書く、クラインの壺を思わせる限界のない空間についての奇妙な記述だった。少し長くなるが引用する。
「わたしは同じようにして、われわれが知っている空間とは異なった、限界のない三次元空間について説明してみようと思う。まず、どこにも出口のない。四方をすべて壁で塞がれた洞窟を想像してもらいたい。この主題に無関係な光学上の問題を無視するために、洞窟は漆黒の闇に包まれているとする。さらに、人がこの洞窟のなかで重力を離れて、空中を遊泳できるものとする。この人は洞窟のなかの様子に完全に精通していて、全体の温度はかなり低いが、場所によっては暖かい場所もあり、それがどこかを知っているとする。さらに、洞窟内部の個々の場所はそれぞれ固有の匂いをもっていて、それぞれの場所が匂いによって同定できるものとしよう。これらの匂いは全体として似たような匂いで、例えば、オレンジ、レモン、ライム、ベルガモット、橙など、柑橘系の香りだとする。そしてさらに、人はこの空中を遊泳しながら二つの大きな風船に触れることができ、風船は洞窟の壁から離れているばかりでなく、互いからも離れているが、それぞれ同じ場所に留まっているものとしてみよう。[中略]この人は冷たい洞窟の中を泳いで、その風船に触って確かめてみようとするであろう。そうすると、たしかに風船は通り抜けることができる。ただ、通り抜けるときに、体に今まで感じたことのないような奇妙なひねりの感じがして、手の触覚からして、自分が通っているのがかつて経験した暖かい洞窟のなかの風船のように思われる。実際に、洞窟の暖かさも感じられるし、匂いも、壁の感触も暖かい洞窟のものである。この人は風船を通り抜けて何度も往ったり来たりしているうちに、通り抜けのできる場所は風船の膜全体であることが分かってくる。そのうちに、同じ洞窟のもうひとつの風船も同様の状態にあることを伝えられ、こちらの方も何度も確かめてみる。最後に、洞窟の入り口の壁が取り除かれたと聞かされる。そこで前に入り口があったところへ泳いでいくと、風船の場合と同じ奇妙な体のひねりの感じがして、そこからもうひとつの洞窟に通り抜けられることが分かる。さらに、天井も床も、皆同じ状態であることが確かめられる。壁はもはや存在していない。空間には境界がまったく無くなっていたのである(*1)。」
ここで記述されたパースの思考実験において、観測者は空中を自由に遊泳しながら洞窟を潜り抜ける。そのとき、観測者は様々な香りに包まれている。それを手がかりに遊泳を続けると、大きな風船が現れる。観測者は、その膜に触ることもできるばかりか、その風船には特異面が存在し、通り抜けることもできることに気付く。通り抜けるとき、「奇妙なひねり」の感じがする。そこは最初の洞窟のなか、風船の内部であった。そこには壁はもはや存在しておらず、「空間には境界がまったくなくなっていた」のだった。
ここでパースが記述する観測者は、様々な匂いと触覚を頼りに「風船」と呼ばれるドーム状の空間の膜を通り抜け、移動する経験のなかで、やがて内と外が境界なくつながっていることを知る。そこは、あらゆる境界や限界が消滅した、いわば「生きられたクラインの壺」である。
こうして見ると、パースの記述と野村のドームとは、ほとんど完全なまでの並行性がある。が、じっさいには野村はパースのこの議論を知らなかった(だからこそ、この並行性にはオカルト的な驚きすら覚えた)。野村とパースとのあいだに明確な影響関係があるわけではない。だからこれは哲学と芸術の、時空を超えた邂逅であり対話である。そこに野村の作品の現代性=パースの哲学の先駆性が示されている。
両者の並行性が明らかにするように、パースと野村の構造体はともに、内と外の空間的連続性だけではなく、色、匂い、音、触覚などの様々な感覚質の連続性、諸形相の連続性を包含するものであったと言える。パースは、このような諸形相の連続性を「それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していた」ものであると言い、それを「感覚質の宇宙」と呼ぶ(*2)。野村の構造体が追求するのは、まさしく、次元間の区分がいまだ存在せず、内と外の空間的連続性と諸感覚の連続性が一体となった「感覚質の宇宙」である。
パース研究者の伊藤邦武によれば、パースは、アインシュタインの相対性理論などに先行して、宇宙が全体として不変な状態で永遠に存在し続けるという「定常宇宙」の考えを否定する、先駆的かつ今日的な独自の宇宙論を展開していた(*3)。引用した『連続性の哲学』の一節は、相対性理論や量子論が形成される以前に、19世紀の科学や物理学のパラダイムシフトに促されるかたちで展開されたパースの形而上学的ヴィジョンである。伊藤はこれを「パースの宇宙論」と呼ぶ。ゆえに、パースの記述が奇妙なものに見えるとして、それはそれだけ彼が宇宙の時空間の不可解さ、奇妙さに接近していたということだ。
メビウスの輪やクラインの壺のような多次元性、多空間性において生きられる観測者の経験、そしてそれを可能にする特異な空間的・時間的条件を形而上学的に構想するパースのヴィジョンは、現在のマルチバース論(多宇宙論)や超弦理論などとも無関係ではないばかりか、むしろその先駆ともとらえられる。
野村が作り出すのもまた、内と外、表と裏の区分が無効化し、宇宙の果てと地球の内側が反転する宇宙観である。そこでは宇宙の果てが、いま、この場に召喚される。このような実践は、野村自身が、現在の宇宙物理学の展開と呼応するように作品を展開してきたことともちろん無関係ではない。現代の宇宙物理学は、野村のこの発想に現実性を与えるほどに、宇宙の時空の不可解さに接近しつつある。
よって、この限界のない空間は、野村が一貫して追求してきた「高次元」という概念とも関わることになるだろう。なぜならクラインの壺のような限界のない形態は、三次元の空間では実現することが不可能であり、四次元の世界において矛盾なく成立するとされるからだ。ゆえにこの構造体は、従来の芸術が依拠してきた次元の形式、すなわち二次元の絵画、三次元の彫刻とは理念的に区別されることになる。その意味で野村の構造体は、チャールズ・シラトらが1936年に創始した芸術運動「Dimensionism(次元主義)」を継承する「Dimensional Art(次元芸術)」の系譜につらなることになるのである。
*1──パース『連続性の哲学』伊藤邦武訳、岩波文庫、2001年、243-245頁。
*2──同前、257頁。パースによれば、現在感覚されるものは、過去の感覚質の連続体の残骸である。「われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体から遺された残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じである。」(同前)。
*3──伊藤邦武『パースの宇宙論』岩波書店、2006年、2頁。