写真家、安井仲治(1903〜42)の20年ぶりとなる大個展「生誕120年 安井仲治」が、2023〜24年にかけて3館で開催される。会期は10月6日〜11月27日に愛知県美術館、12月16日〜2024年2月12日に兵庫県立美術館、2024年2月23日〜4月14日に東京ステーションギャラリー。
大正デモクラシーの時代を若者として過ごし、10代から関西の写真界で頭角を現した安井。わずか38年の人生で残した写真は、日本の写真史の流れとも符合する。本展では戦災を免れたヴィンテージプリント140点に加えモダンプリント60点の合計約200点を展示し、安井の歩みの全貌を紹介する。
今回は本展の企画を担当した中村史子(愛知県美術館学芸員)、小林公(兵庫県立美術館学芸員)、若山満大(東京ステーションギャラリー学芸員)に、安井の魅力と本展の見どころについて聞いた。100年前に活躍した写真家だが、3人の視点を通して語られることで、その姿がいきいきと親しみを持って立ち上がってくるはずだ。【Tokyo Art Beat】
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──まずは、写真家・安井仲治について教えてください。戦前の日本写真界を代表し、後世に多くの影響を与えたアマチュア写真家として知られますが、作品のスタイルが多様で、一口には表しがたい印象です。
小林:安井は1903年に大阪に生まれ、1920年代に10代で写真界にデビューしました。1920年代、写真はまだ芸術として確固たる位置を占めておらず、写真の愛好家たちはいまでいうサークルのような写真団体を作って研鑽を積んでいました。関西の写真団体の名門である浪華写真倶楽部(なにわしゃしんくらぶ)で頭角を現した安井は、さらに生え抜きのメンバーで銀鈴社(ぎんれいしゃ)というグループを作り、精力的に発表を行いました。
1930年頃には新興写真と呼ばれる表現が台頭し、安井を中心とする関西の写真家たちは、写真というメディアの可能性を問い直すような、前衛的な表現を牽引する存在になりました。
30年代後半になると日本が戦争へ向かっていき、写真や芸術の状況も非常に切迫したものとなりますが、安井は自問自答しながら新たな表現に取り組み続けました。そして1942年3月、日米開戦の3ヶ月後に病によって亡くなりました。
38年という短い生涯ですが、安井の人生は、芸術としての写真が花開いていく1920年代から30年代の流れと並行しています。安井の創作活動は、そのまま日本の写真史をなぞっているとも言えますね。
──安井がデビューした1920年代は、全国でアマチュア写真家の団体が生まれ、互いに影響を与えながら成長した時代です。当時のアマチュア写真家はどんな存在だったのでしょうか。
中村:この時代のアマチュア写真家は、非常に先進的な活動を試みていた集団でした。当時いわゆる「プロ」のカメラマンは写真館に勤めるなどして、記念や記録といった職業上の目的のもと写真を撮っていました。アマチュアはお仕事としての縛りがないぶん、率先して芸術表現としての写真を探求していくことができたんです。欧米の動向を取り入れて叙情溢れる風景画のようなイメージや抽象的な表現を試みるいっぽう、日本的な美意識に落とし込んでみたりと、自由で多彩な表現が生まれ、大きなムーブメントになっていきました。
若山:アマチュア、つまり余技として写真を撮る人々が日本に登場したのは、明治20年代と言われます。その数が一気に増えたのが第一次世界大戦前後でした。ドイツが戦争に負けたこともあり、輸入品であるカメラや写真材料がある程度手の届く価格になったんです。
この頃に写真を始めたのが、都市部で家業を営む人々、そして教師やサラリーマンなど「新中間層」と言われる人たちです。実家が洋紙店だった安井も広い意味ではそのひとりと言えるかもしれません。家業がある人を旦那と言いますが、当時の写真は旦那芸、つまり俳句や浪曲、骨董趣味の延長にありました。後の時代には、写真はよりモダンな趣味、たとえばダンス、釣り、スキーといった趣味と並んで楽しまれるようになり、さらに裾野が広がりました。一口にアマチュアと言っても、今日アヴァンギャルドと呼ばれる人々もいれば、休日に家族を撮りたいという軽い愛好者もいたんですね。アマチュアの発表の場となった写真雑誌も千差万別で、『アサヒカメラ』や『フォトタイムス』のような老舗の尖った雑誌もあれば、気軽な愛好者向けの雑誌もありました。
──10代にして当時の写真の世界で早々に認められた安井の最先端のセンスは、どのように養われたのでしょうか。
中村:安井は明星商業学校、いまで言う高校に通っていた頃から、学校の仲間たちと詩や短歌などの文筆に取り組んでいました。安井が卒業後に同級生たちと作った同人誌を見ると、漢詩も嗜むし、戯曲も書くしといった多才ぶりです。東京で平和博(1922年の平和記念東京博覧会)を見た感想をちょっとシニカルに綴ったりもしています。それと並行してカメラにものめり込んでいます。こうして幅広い表現を仲間うちで楽しむ文化のなかで、安井の感性は育ってきたんです。
小林:安井と同年代の写真家仲間(岩淺貞雄)が「安井さんも僕も結局、大正デモクラシーですからね」という言葉を残しています。安井の文化的な表現に対する強い憧れは、大正時代に多くの人に行き渡ったものでした。その感性が安井にも流れ込んでいて、いろいろな表現にトライするなかで、写真がいちばんマッチしたんだと思います。
安井は商業学校でフランス語を学んでいたので、30年代にはフランスの写真雑誌なども取り寄せて読んでいます。安井が育った環境は非常に豊かなものでした。
──全国で発展したアマチュア写真ですが、安井が活躍した関西はとくに実践的で、新しい作品をどんどん作る気風があったそうですね。
若山:理由はわからないのですが、関西の写真家が外国のものを受容するときのハードルの低さには特筆すべきものがあります。横浜が輸出港だったのに対して神戸は輸入港で、外国から物が入ってくることが当たり前だったからかもしれません。安井の実家も洋紙店で、海外との取引もたくさんありました。
30年代の新興写真のように、最新の動向も関西が率先して取り入れることが多かったんです。小石清がブレを意図的かつ効果的に用いた作品《進め》を発表し、関西の写真家たちに衝撃を与えて以来、安井たちはそれまでのピクトリアリズム風の芸術写真からがらりと変わって、写真のメディウムとしての可能性を追求する新たな表現に取り組みました。1927年にニューヨークから帰ってきて芦屋に居着いた中山岩太も、非常に詩的な写真を独自に発信し続けました。
当時、関西が写真の震源地だったことは間違いないと思います。新しいことをどんどんやっていく気風のなかで、安井も表現を展開していきました。
──30年代の新興写真や前衛写真の時代には、実践的な関西と理論重視の東京のあいだで対立もあったようですね。
若山:東京の写真家たちは最初に主義主張があり、言葉で自身を規定して、そのなかで表現していく傾向がありました。具体的には「前衛」という言葉がそうですね。
1938年の『フォトタイムス』に東京と関西の写真家たちのプチ論争が掲載されていて、そこで槍玉にあがったのが安井でした。阿部展也や永田一脩たち東京の写真家は「前衛という言葉に責任を持ち、自分の表現が社会に与える影響を意識して作るべきだ」と述べています。彼らは、関西の写真家がただ好き勝手に楽しんでいるように見えて、たまらなく嫌だったんです。それに対して関西は「写真を突き詰めるために苦労はしているけれど、そのプロセスは楽しい。ゆえに写真は楽しいのであって、無責任に好き放題しているわけではない」と主張しています。明らかにそこには気風の違いがあります。
小林:いっぽうで、安井が理論や社会的課題を無視していたわけではなく、むしろ青年期から社会問題にも鋭敏な意識を持っていたんです。東京の人たちは関西の写真に問題意識が見えないと苛立っていたけれども、おそらく安井や関西の写真家には「これ見よがしに表現するのはしゃらくさい」という感覚があったんですね。
若山:それって「野暮」なんですよね。安井は自分のなかの逡巡や葛藤を裏に隠しておくんです。表はあくまで綺麗な面構え。裏まで覗き見なくても魅力的です。だから安井の作品はいろいろな見方ができます。人間の実存に関する形而上的な問題を扱っているとも解釈できるし、審美的に見ることもできるんです。
──社会情勢が大きく動いた晩年も、安井の意識や姿勢は変わらなかったのでしょうか。
中村:メッセージをわかりやすく出さない安井の姿勢は、1930年後半から40年代、戦時色が強まって写真表現が制限されていくなかでも、彼が表現を追求していく助けになったと思います。
戦時中は「写真家も社会に向き合い、国のために奉仕するべきだ」と言われるようになりました。しかし、晩年に行われた講演会(新体制国民講座「写真の発達とその芸術的諸相」)の記録を見ると、安井はそうした風潮をのらりくらりとかわすように話しています。講演の途中でふっと女性モデルを撮影した自作を紹介したりして、一部の人からは不真面目と思われたかもしれないけれど、いま見ると、それが抑圧のなかで表現を守るための安井の戦い方の最前線だったんだとよくわかります。
若山:社会のために「兵隊さんに写真を送ろう」「報道写真をやろう」という安易な論調もあるなかで、安井は最後までスタンスを変えず、社会のなかで虐げられたものや見落とされがちなものと写真を通じて向き合い続けました。ある意味で最初からずっと社会にコミットし続けていた人なんです。
小林:安井は近代の表現者としての矜持を持っていた芸術家でした。そこには絵画や彫刻といったオールドメディアと変わらない強さがあります。安井にとって表現することは切実な問題であり続けたし、それを自覚していたからこそ彼の写真はぶれないんです。
表面に表れるスタイルが千変万化なので、安井の作品は一見とらえどころがなく見えます。けれども、矛盾するようですが、見慣れてくると「安井らしさ」がわかるんですね。その秘密を探るヒントは、やはり時代に反応しながらも芯のぶれない在り方だと思います。
若山:これは自戒を込めて言うんですが、アートの世界では一貫したスタイルや主義を出す作家ほど評価されがちです。でも、安井はそういう評価軸にはいない。むしろ完璧にかわしているんです。
冒頭で小林さんが「安井の生涯はそのまま日本の写真史をなぞっている」とおっしゃったんですが、これはじつはとんでもないことで、ほかの作家ではありえない話なんです。
芸術史に残る作家は基本的にある時代の「イズム」の体現者ですが、安井は特定の流行の代表者ではありません。安井が写真史に名を残したのは、スタイルを変え続けたからです。ひとつのスタイルに安住すればその時点で古い作家になりますが、安井はそうではなかった。最後まで最前線を走り続けたんです。
──展覧会について、個々の作品の魅力に迫りながらうかがいたいと思います。まずは企画背景を教えていただけますか。
小林:2004年に開催された個展以来、これまで安井の作品をまとめてご覧いただく機会はありませんでした。生誕120年という記念の年に、この20年の調査も踏まえて立ち上げられた展覧会です。
中村さん、若山さんは写真を専門とする若手のキュレーターであり、私は兵庫県立美術館で長らく安井の作品と接してきました。先輩の背中を追いかけながら、バトンを受け取るようにして次の世代のキュレーターが優れた作家の個展を20年ぶりに手がける企画とも言えますね。
──小林さんは2011年に兵庫県立美術館で安井の小企画をされています。長い積み重ねがあって実現した個展ですが、2023年ならではの視点はどのように反映されていますか。
小林:本展では、3人のキュレーターそれぞれの視点から、過去の個展では見えにくかった安井の一面を取り上げました。
たとえば私は、一般的な意味での「写真のリアリズム」を裏切るような作品に注目して、それを「虚像」と呼んで取り上げています。これまで安井の評価に大きな影響を与えていた土門拳による安井の再評価は、安井のリアリズム、つまり社会との向き合い方の切実さに注目するものでした。《メーデーの写真》のように、社会問題を直接的に取り上げる、報道写真的な写真に強く反応していたんですね。
けれども、じつは安井の写真は、ネガを気安く反転して印画にするなど、現実の映像とは違うイメージを生み出すことをやすやすとやってもいるんです。写真において、安井は単純な意味での「現実の写し」に縛られる必要はないと思っていたんじゃないか。そんな仮説のもと、安井が表現するイメージの自由さに光を当てたいと思って、自分の文章の中であえて「虚像」という言葉を使いました。
──「ここは外せない」という展示の特徴をおうかがいできますか。
中村:安井の作品は太平洋戦争時の空襲で失われたものも多いのですが、今回は安井自身が焼いた貴重なヴィンテージプリントが約140点出品されます。そのため、一点一点をしっかりと見ていただけるよう、まずは作品をきちんと綺麗に見せることを意識しました。いっぽうで作品だけでは見えてこない背景を紹介するために、ご遺族の協力を得て、安井が読んでいた海外の雑誌や様々な書籍も資料として展示します。
小林:3館の巡回展ですが、展示替えがないことも強調したいですね。関係各所の絶大なご協力のもと、貴重な通期での展示が実現しました。この展覧会は、安井の代表作を一度に通覧できる最後の貴重な機会になるかもしれません。
──展示は全5章、年代順を基本とした構成です。1章から、おすすめの作品を交えて解説いただけますか。
中村:1章では、安井が写真家としてデビューした20年代の作品を紹介しています。語弊がある言い方かもしれませんが、初期の作品はその後に比べてまだ尖り切っていないので、土門拳や森山大道が憧れた「モダン」で「かっこいい」安井のイメージとはずれていると思うんです。でも、私はこれが大正時代の若者が見た光景なんだと思うと、むしろこの時代の安井の写真がしみじみと面白くて、20年代の作品をたくさん展示できて本当に楽しいです。
いち押しの作品は、最初に出てくる平和博を撮った作品《分離派の建築と其周囲》です。安井が若きアマチュア写真家としてデビューする前、家族で東京を旅行して撮った写真です。当時の芸術写真の特徴がよく出ていますね。ふんわりとしたソフトフォーカスや斜め上からのショットで、ざわざわとした博覧会場の都会的で洒脱な雰囲気を表現しています。分離派建築など、当時の先端的な東京の空気がどんなふうに安井を刺激したかがよくわかる1枚です。
この頃の安井は、平和博の分離派建築について「面白いけれども、ちょっとつくりが雑」と仲間内の同人誌に書いています。19、20歳の頭のいいセンスのある若い人が、最先端の文化に触れて思わずシニカルなことを言っている感じも個人的にぐっと来ますね。現代にいたらSNSでも目立っちゃうタイプだと思います。
若山:わかります。SNSでブイブイ言わせるタイプですよね。
中村:私は普段コンテンポラリーアートの企画をやっているので、この頃の安井を見ると、まだまだ若いアーティストがちょっと背伸びしてステートメントを書いている感じなどとも重なって見えて、100年前の人だけど、すごく親近感がわきますね。応援したくなると言うのか。
──現代ではノスタルジックにも見える1枚ですが、安井がこの写真にシニカルな文章を添えてSNSに載せていたらと想像すると、見方が変わりますね。
中村:20代の作品の中には、どう見ても渋すぎるし「枯淡の美」すぎる作品も多く含まれています。一生懸命背伸びして上の世代を真似しているから、最初から完成度は抜群に高いけど、後の時代の圧倒的な安井カラーはまだ十分には出てきていない。ぜひ若い人にも、最初から完成された大天才ではなく、自分と同い年ぐらいの人が頑張って試行錯誤しているという目線で見てもらいたいですね。
──2章から4章までは、1930年代の作品が作風に応じて分類されています。
小林:2章は1930年代以降の新興写真と呼ばれる作品を紹介する章です。1931年にドイツから回ってきた展覧会「独逸国際移動写真展」は、安井にとって写真のニューウェーブを体験する大きな出来事でした。バウハウスの構成主義的な写真、シュルレアリスム的な作品、科学写真といった視覚の拡張を特徴とする写真がたくさん紹介され、クローズアップや望遠、ブレといった手法や、変わったアングル、動きや瞬間の表現も特徴でした。まさに「枯淡の美」の逆を行くものです。それらがトレンドになった時代の安井の表現を紹介しています。
具体的には、建物や建設現場といった構造物の直線的な要素に目を向けた作品が多いです。新興写真の傾向と親和性の高かったモチーフが都市風景なんですね。いっぽうで、安井が青年時代から関心を持っていた都市における社会的な問題や労働者の困窮した状況への注目も見ることができます。ストレートだったり遠回しだったりとその表現には幅があります。
3章は、「イズム」に分類しにくい写真を集めた章です。2章が新興写真を、4章はシュルレアリスム的な作品を扱っていて、その間にある「その他」の章ですけれども、ここでなぜか代表作と言われる作品が登場するのが安井の面白いところですね。「イズム」と結びつけがたいがゆえに、むしろ現代の私たちにもすっと入ってくる作品が見つかる章だと思います。
3章の《蛾》は、私が好きな作品のうちのひとつです。この写真が撮影されたのは、安井が弟と妹を相次いで亡くし、また新たな子供を授かった時期にあたります。そうした頃に家の窓に偶然止まった蛾を撮った一枚なのですが、安井の私生活をめぐるエピソードを知らなくても、小さな命が本当に美しいと感じられる、胸に迫ってくる作品だと思います。
また、「半静物」という安井独特の手法の萌芽が見られるのもこの章ですね。その場にあるモチーフに少し手を加え、組み替えて撮る写真です。これまでは安井のシュルレアリスム的な作品の代表例とされてきましたが、私は今回の展覧会を通じて、むしろスナップや風景写真と同じく、安井が身体を通じて世界と関わったある種のドキュメントであるように感じました。展示をご覧になった皆さんはどう感じるか、聞いてみたいなと思っています。
若山:4章はシュルレアリスムに影響を受けた作品を紹介する章です。安井はシュルレアリスムを参考にしつつ、独自の表現を試みています。
カメラで現実を精緻に描写するリアリズムに対して、シュルレアリスムに感化された写真家たちは、写真の精緻な描写力を逆用することで、説得力を持った虚像を作り始めました。安井も早くからそこに面白さを感じて、シュルレアリスムを参考に表現を続けました。
面白いのは、特別な題材はなにも撮っていないことです。カメラを持ってそぞろ歩いて、例えば海岸で見つけたクラゲを、「半静物」の方法に基づいてある場所にポンと置いてみる。そうすると、ドキッとする景色が見つかることがある。そうやって思わぬ世界の裂け目を発見することに喜びを見いだして、その感動を写真で共有している。そんな実践が4章にはたくさんあります。
──5章ではおおよそ1939年以降の作品が「不易と流行」という副題でまとめられています。これは松尾芭蕉が残した言葉で、不易は変わらざるもの、流行はつねに変化し続けるものの意。晩年の安井にとって、この両方がともに大切なものであったようですね。
若山:5章では戦争の時代の作品を紹介します。時事と密接に関係する表現もあればタイムレスな表現もあり、両者が混在しているのが面白いところです。
白衣勇士の写真は、傷痍軍人と留守家族に対する慰問として撮られました。「流氓(るぼう)ユダヤ」シリーズは、ヨーロッパから逃れて神戸に着いたユダヤ人たちの相貌をとらえた連作です。どちらも時事問題を扱うある種のルポルタージュではあるんですが、安井と仲間たちはそれに飽き足らず、新聞の報道写真とは違う審美的な表現を試みています。構図や陰影がドラマティックで、たんなるルポルタージュに収まらない魅力が感じられます。
いっぽうで、最晩年の「上賀茂にて」シリーズは、一見かなり保守的なので周囲を戸惑わせたと言います。ですが、これは消極的な意図から作られたものではありません。安井は純粋に世界に感動することが芸術の本質であると考えていました。卓上のリンゴを撮るときも、戦地で報道写真を撮るときも、世界との向き合い方は変えてはいけないと言っています。だから兵士やユダヤ人を撮っていた自分が急に月や林を撮っても、安井はそれを矛盾とは感じません。あくまで芸術は内発的な動機に基づくべきだと言っています。裏を返せば、「上賀茂にて」は、“社会のために”という風潮に迎合して外発的に制作するなという、時節へのアンチテーゼなのでしょう。
この章でとくに注目していただきたい作品が、生前最後の発表作《熊谷守一氏像》です。安井はこのときすでに病気が重く、自分でプリントができない状態でしたが、この作品を後輩にわざわざ焼いてもらい、大きな展覧会で発表しました。そこには浅からぬ意味があります。熊谷は「画壇の仙人」と渾名され、自邸の庭を観察しながらひたすら絵を描き続けた人物です。安井は熊谷の絵を見て感動したと書き残していて、時代に流されない制作姿勢に共感していたのだと思います。
《熊谷守一氏像》には安井の作家としてのスタンスが仮託されています。安井は作品を通じて、社会が戦争に舵を切っていく時代にこそ、芸術の本質を忘れてはいけないと語っているんです。
──章を追うことで、多様な作品の全貌が見えてきますね。
若山:じつはもうひとつ、僕の推したい写真があって、それは安井のポートレイトなんです。いわゆる作品として作られたものではないかもしれませんが、僕はこれが好きです。
安井はとてもおしゃれな人で、茶色のツイードジャケットをよく着ていたそうです。グレーやネイビーのようなビジネス的な清潔さではない、アクティブかつほどよく紳士的で肩の力が抜けた格好ですよね。そして、ネクタイまでビシッとキメて写真を撮っているのに、襟がよれてぴょんと飛び出ているのが、安井らしいです。どこか気の抜けたキャラクターというか、おおらかな人柄が滲み出ているんですね。
今回の展覧会にはいろんな写真が並ぶし、いろんな思想や概念が出てきますが、すべてがこの人のなかに詰まっています。なんなら、この時代の写真表現のすべてがこの風貌に詰まっていると言ってもいいんじゃないか。安井の優しげな風貌は、そんな包容力と胆力の象徴みたいに思えます。このポートレイトは会場にもありますので、「この人が撮ったんだ」と思って作品を見ていただけたら面白いんじゃないでしょうか。
──安井が制作したヴィンテージプリントが多く展示されますが、生で見るプリントの魅力を教えていただけますか。
中村:初めて安井のヴィンテージプリントを見たとき、グラデーションの繊細さと色の柔らかさに驚きました。過去の写真集では黒がしっかりと出たコントラストの強い写真として印刷されたものも多いので、会場でプリントを見ると繊細で豊かなトーンに驚くと思います。
若山:安井は一点ものという意識で写真を作っています。たとえば初期のピグメント印画は絵具を用いて画像を作るので、写真の技術を基盤に1枚の絵を仕上げていく感覚で作られています。1930年以降の作品も、現在では使われないフェロタイプという技術で黒の階調を深く表現しています。写真の物質的な奥行きをぜひ楽しんでいただきたいです。
──近年、日本の写真を扱った展覧会を多く見かけます。写真史研究の動向と今回の安井展は関係していますか。
小林:写真に限らず、近代の読み直しがグローバルなトレンドになっていて、非西洋圏における近代化を「モダニズムス」と複数形で語るような動きがあります。そうした流れのなかで日本の、とくに1930年代の写真に対する関心も世界規模で高まっていて、安井仲治、椎原治、中山岩太といった写真家に世界的な注目が集まっています。たとえば、2022年にテート・モダンとメトロポリタン美術館で開催されたシュルレアリスムの展覧会「Surrealism Beyond Borders」のカタログでも、研究者のイェレナ・ストイコヴィッチさんが、安井や大阪の写真家の活動を紹介しています。
若山:いっぽうで、僕たち日本の研究者に突きつけられるのは「シュルレアリスムという言葉を使わないと、安井の表現を説明できないのか」という問題です。もちろん安井が影響を受けたことは間違いないんですが、「シュルレアリスム」という言葉を使うと見えなくなってしまうものもたくさんある。日本の写真家は海外の潮流に応えるばかりでなく、もっと違った動機や楽しみを持って表現していたはずです。「Beyond Borders」という括りに安井が入れられたときに、安井が生きた日本にいる僕たちは、そこから漏れてしまう情報を拾い上げて再提示しなければならない。この展覧会でもそうやって丹念に拾い上げたものをお目にかけたいと思います。
──現代だからこそ伝えられる安井の新たな魅力と、その魅力に多面的に迫っていく展覧会の熱量を感じました。最後に、この展覧会をどのように楽しんでほしいですか。
小林:安井の文章に「今日の写真より明日の写真よろし」という一言があって、とても安井らしいと思います。写真の無限の可能性を信じ、変化を恐れない作家の言葉です。
本展ではこれまでの安井仲治像とは異なる、柔らかくてユーモアのある「気の抜けた」安井の一面も出せたらと考えています。私も中村さんのように「安井がいま生きていたらインスタをやっていたかもしれない」と想像することがあります。そのぐらい自由で、とらわれないのが安井の魅力です。紙に焼かれた写真を知らない若い世代のみなさんとも気持ちが通じ合うアーティストだと確信しているので、安井を知らない人たちにこそぜひ見ていただきたいです。
若山:安井の好きだった言葉に「松のことは松にならへ、竹のことは竹にならへ」というものがあります。松の美しい部分は松にすでに宿っていて、松が教えてくれる。自分で世界をなんとかしようするのではなく、どーんと構えて、あるいはじっと見つめて世界と調和する、安井の泰然自若としたおおらかさが伝わってきます。
いまの時代は個人と世の中の抜き差しならない関係が強調されて、生きることが大変に感じられがちだと思うんです。でも、安井はもっと違った世界との向き合い方があると教えてくれる。現代の人が見ても、希望や共感を見いだせるんじゃないかと思います。
中村:そうですね。すでにお二人がお話ししている通り、「ひとりの人間がどこまで真摯に表現や社会と向き合えるか」という視点で見ると、いま現在の私たちの置かれた状況とつながるように思います。大震災に社会的混乱、そして戦争へと突き進むなか、安井は写真を撮り続けた。それはつまり、「写真に何ができるのか」という問いが、外部からも、各人の内側からも突きつけられる時代にあって、彼は最後まで自分の表現スタイルを追求したと言えます。しかも、悠々と振る舞いながら。そんなところに私はちょっと勇気づけられますね。
今野綾花
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