ー 窪島さんは、なぜ無言館を作ったのでしょうか?
窪島 ふと気づいたら作る羽目になっていたというか……かなり出会い頭的な仕事で、深い哲学や意識があって作ったわけではないんですよ。いま流行の言葉で言えば承認欲求とか自己顕示とか。やっぱり人から認めてもらいたいという……。あまり上級じゃない、そういう思いからだったと思います。だから正確に言えば、後悔しています。
手元に2冊の本がある。1冊は1997年に刊行され、2018年に文庫化された『無言館 戦没画学生たちの青春』(河出文庫)。そしてもう1冊は、今年刊行されたばかりの『流木記 ある美術館主の80年』(白水社)だ。
どちらも「無言館」館主である窪島誠一郎のエッセイで、前者には第二次世界大戦時に亡くなった戦没画学生の作品を集めた無言館を建設するきっかけとなった出来事から、建物が完成する直前までが記されている。陰茎ガンでペニスを切除という衝撃の記述から始まる後者では、「尾島真一郎」なる人物の自叙伝という「てい」で、現在までの窪島の人生が網羅的に語られている。約四半世紀の隔たりを持つ2冊だが「後悔している」という無言館に対する窪島の認識はそう大きく違わない。
村山槐多や松本竣介など、大正・昭和初期に活動した早逝の画家たちのデッサンをコレクションの主とする信濃デッサン館の館主であった窪島が、戦没画学生の作品を集めそれらを収める美術館の構想を抱いたのは、洋画家・野見山暁治がきっかけだ。1943年に発令された学徒出陣で満州に出征し、戦地での発病で帰国し終戦を迎えた野見山は、詩人の宗左近、評論家の安田武との共著で『祈りの画集:戦没画学生の記録』(日本放送出版協会)を1977年に刊行、戦没した東京美術学校(のちの東京藝術大学美術学部の前身)の同窓生の遺作や記憶を辿る仕事を行っている。その延長として、いつか戦没画学生の作品を集めた展示施設を作りたかったという野見山の想いに「ぜひお手伝いをしたい」と名乗りをあげたのが他ならぬ窪島だった。その後、窪島は野見山と共に全国の遺族のもとを訪ね歩き、途中からは彼一人で画学生たちの作品を預かる仕事を続けた。そうして1997年に無言館は開館した。
窪島 振り返ってみると、自分が彼らの絵を見つけたというより、彼らの絵に自分が見つけられたという感じです。僕は1941年に生まれましたから、簡単に言えば「歩いてきた日本」のような人間です。両親は戦争の影響をもろに受けましたが、当時の僕自身は赤ん坊で、物心ついたときには戦後の経済成長に魂を奪われて、カネを稼いで豊かになることしか関心がなかった。ですから無言館が扱っているような「戦争」ってものは、常に両親の苦労の向こう側にあったんです。
僕が小さな飲み屋を明大前に開業したのが1963年。その1年後に東京オリンピックがやってきて、言い換えれば経済成長の最終列車に飛び乗ることでずいぶん儲かった。その足元にある戦争への関心なんてまるでなくて、まあいい加減なもんでしたよ。ただひとつ救いだったのは、高校の頃から絵や演劇が好きだったこと。稼いだお金をデッサン画の収集につぎ込んで、4つあったスナックのうち1つだけ妻に任せて畳んだ後は、銀座に画廊を開いてそれも儲かりました。その延長上にできたのが信濃デッサン館です。コレクターのはしくれとして「戦争で亡くなった絵描きの卵がいる」くらいの認識はありましたけど、そのことに何か特別な意味を感じるようなことはまったくありませんでした。
だから野見山さんから戦没画学生の話を聞いた時もまっさきに頭に浮かんだのは、ある種の功名心というか世渡りの種でした。純粋な男では僕はありませんよ。世の中を上手に泳いだ男です。
あまりにも明け透けな告白に驚かされるが、これとほぼ変わらない内容が冒頭で紹介した二冊の著作にも書かれている。そこにある種の韜晦も感じられなくはないが、東西冷戦における西側陣営のキープレイヤーとして厚遇され、他のアジア諸国と比べても並外れて急激な復興を遂げた戦後日本の、とくにその恩恵の中心であった東京で青春期を過ごした若者のある種の象徴として窪島誠一郎を見ることはできるだろう。しかし、無言館が持つ独特なたたずまいと、窪島自身が繰り返し語ってきた非政治的な自己像のあいだには、説明しがたい大きな隔たりがある。無言館とは、いったいなんだろうか?
私が長野県上田市にある無言館を訪ねたのは、今年7月半ば。毎年終戦の時期が近づくとメディアからの取材が急に増えるという同館は、ローカルな上田電鉄別所線の下之郷駅で下車し、そこからバスで20分ほど走った辺鄙な場所にある。
1997年に開館した無言館、2008年に敷地内に加わった無言館第二展示館「傷ついた画布のドーム オリーヴの読書館」、そして窪島の主要なコレクションの大半を長野県立美術館に売却・寄贈したことで閉館した信濃デッサン館を改装し2020年に再開したKAITA EPITAPH 残照館(土日月のみ営業)が、現在見られる主要な展示施設である。
今回の取材で訪ねたのは無言館と第二展示館の2つだが、その佇まいはともに独特だ。窪島自らが設計した前者は「もっともコストをかけずに展示できる壁面を確保」した結果、偶然にも十字架状の教会のような空間になったという(イタリア・アッシジで観た僧院も発想源の一つと窪島は言っているので、教会建築との類似は偶然ではないだろう)。
ヨーロッパの教会を思わせる小さなドアを開けると、壁面に並ぶ戦没画学生によるたくさんの絵画と、ガラスケースに収められた遺品・資料が視界に広がる。
例えば大貝彌太郎の《飛行兵立像》は、この施設の性質を端的に伝える一枚だ。大ぶりのキャンバスに描かれているのはカーキ色の飛行機乗りのジャケットをまとった青年像だが、その表面には数えきれない損傷・剥落があり、目元や鼻頭を除いて表情を窺うことができないほどだ。1908年に福岡県で生まれた大貝は44年に長崎地方航空機乗員養成所に勤務するが、終戦直後の46年に結核で亡くなっている。享年38歳。
展示室内のキャプションから絵に関する詳しい事情を知ることはできないが、彼の来歴を踏まえれば本作は自画像としての役割を果たしうるだろう。すぐそばのガラスケースには、本作が描かれて間もないタイミングで撮られたとおぼしき古いモノクロ写真が展示されており、そこに映された傷一つない往時の姿は、この場所この時に至るまでに絵が経験してきた時間の遠さや切実さ、あるいは風化の冷徹さを想起させる。
無言館には大貝の絵のように戦争を直接思い起こさせる主題が描かれた作品は多くないが、飾られたどの作品にも忘れがたい挿話がある。日高安典の《裸婦》にはこのようなキャプションが添えられている。
あと五分、あと十分、この絵を描きつづけていたい。外では出征兵士を送る日の丸の小旗がふられていた。生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから……安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地に発った。しかし、安典は帰ってこられなかった。
凛とした横顔で画面右手を見据え、また右手首に左手を添えた裸婦像は、つまり完成品ではないのだ。帰ることのない描き手の筆を待ち続ける絵は、日高の恋人の映し絵であると同時に、取り残された日高自身の半身のようだ。そういったエピソードの断片に触れながら絵を見る経験は、「無言」ではなくむしろ「雄弁さ」をもって私の前に立ち現れてくる。そんな感想を窪島に伝えると、彼は即座に答えた。
窪島 それは(僕の)術中にはまってるだけですよ。やはりちょっと他の美術館とは違いますよね。提示の仕方が、かっこよく言えば文学的ですし演劇的です。
たしかに窪島は、高校時代にハプニング要素のあるアングラ野外劇にハマり、のちにキッド・アイラック・ホール(後年、キッド・アイラック・アート・ホールに改名。2016年閉館)を開館して寺山修司や灰野敬二ら、各年代を象徴する表現者たちに活動の場を提供してきた。その個性が、無言館に劇的な物語性を与えているのは事実だろう。
それは後年建てられた第二展示館にも通じる。比較的「大作」の多い無言館と比較して、ここは自画像や郷里の風景を描いた小品、シュルレアリスムに傾倒して描かれた習作などが並ぶ。また、横浜高等工業学校建築科(のちの横浜国立大学)を卒業して、海軍技術少尉に任官した永江千秋による《奈良唐招提寺金堂側面図》のような建築的アプローチの遺作があることで、戦没画学生による作品のイメージを洋画や日本画に限定させず、広がりを与える役割も果たしている。
だが来場者の目をもっとも惹きつけるのは、かまぼこ状のドーム天井にびっしりと飾られた無数のデッサンや日本画の下図だ。それら作品未満の草稿は、無言館や第二展示館における画学生たちが「芸術家になるまでの途上」にあり、その夢が果たされなかった現実を劇的に伝える。山口つばさの美大・予備校マンガである『ブルーピリオド』が共感をもって受け止められているのは、青春につきものの疾走感や挫折が、アート、とりわけ拙いデッサン画や課題作品を媒介にして情動的に描かれているからだが、ここに飾られたデッサンの数々はそれと同様の役割を果たすだろう。
窪島 僕はこの美術館をなるべく不親切に作ろうと思ったんです。例えば読みたい文章が読みにくい場所にあったりして、歩いていると何らかの違和感を感じるような。退館時に入館料を払わなければいけない作りにしているのもそのためで、代金を払わずに入り口からこっそり出ていってしまう人が現れるのも「浮き世の風」として受け入れています。そういう人が年間1000くらいいるんですがね。
本音を言えば、僕はこの無言館はつぶれてなくなると思っていたんですよ。むしろつぶれることで、水商売で一発当てた男の最後の花になるとすら考えていた。ところが信濃デッサン館がなくなってしまったというのに、無言館のほうが残った。
その理由は、おそらく僕が考えている以上に、本当に多くの方たちが戦争という時代にいろんな思いを持たれているからなのだと思っています。
今回のインタビューでも数多の著書のなかでも、窪島は無言館に対するシニカルな態度をほとんど崩さない。それは現在から過去の戦争に眼差しを向けて語られてきた言説についても同様である。だが、70年前の戦争を起点に現在や未来について話すとき、窪島の言葉はにわかに熱を帯びる。
窪島 日本人だけでも300万人以上が死に、アジアでは2000万人以上が犠牲になった。それはただならぬことで、たった70年が経ったぐらいで記憶の風化を語っているメディアの責任は重い。
ステレオタイプに反戦平和を訴え続けても、この死の重みは伝わらないと僕は思っています。かれら(戦没画学生)が生きられなかった分を僕らは生きているわけで、無言館にある作品を通して、これから自分がどう生きるかを考えていってほしい。無言館に向かう坂を「自問坂」と名づけているのもそれが理由で、ここは戦争や平和以上に、自分がどうあるべきかを考える場所なんです。
窪島 絵に現れているように、画学生たちは時代を恨まず、ある意味で自分に与えられた運命を受容しています。その精神状況のなかで描かれた絵は、妹であったり両親であったり、あるいは友達やごく身近な愛する人であったりする。僕自身は家庭を崩壊させてきた男ですから立派なことは言えないですが、自分の命を支える人間への感謝、基礎的なものが描かれている。つまり「自分は一人じゃない」ということが描かれている。
そこのところをしっかり認識せず、2300万人以上が殺された殺人の責任を誰一人取ろうとしない曖昧な場所から戦後を始めてしまったことが、いまの「嘘を突き通せば何でも通る」世の中を作ったんじゃないですか。
この窪島の意見に共感する部分としない部分がまだらに混ざる、というのが私の個人的な心情である。描かれなかったものにも事実があり、むしろ描かれたことで時代精神がねつ造・強化されることも多くあるからだ。ちょうど取材と同時期に東京国立近代美術館で展示されていた藤田嗣治の《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》は1945年に描かれたプロパガンダのための絵画だが、台湾の高砂族で構成された特殊部隊の勇猛果敢な描写はまったくの虚構であり(同隊に生還者はなく、どのような戦いであったかも不明である)、むしろそこに描かれたテンションの異常な高さは、藤田自身が敗戦直前の「日本人」に、あるいは自らに望んだ勇猛さの反映であるように思われるからだ。
単に芸術であるというだけで、芸術は人間の正直さや誠実の象徴にはならない。だが、芸術に描かれた事物を警句として、現在や未来を選択するときの判断材料にすることはできる。
伊澤洋が描いた《家族》には、両親や兄弟が円卓を囲んでリラックスする一家団欒の風景が描かれているが、朝から晩まで百姓仕事に追われていた同時の伊澤家にとって、これは「存在しない幸せな風景」だった。出征前日に伊澤はこの絵を塗りつぶそうとしていたというが、自身の作品を否認して戦地に向かおうとした画家の身振りは、様々な想像を現在の我々にもたらすだろう。
無言館が開館して25年が経つが、今年81歳を迎えた窪島はつい先日も青森の弘前に自ら出向いて作品を預かってきたそうだ。修復を待つ作品は現在も約600点を数え、無言館の仕事は現在進行形で続いている。
野見山の仕事を引き継いだ当時の窪島は50代で、訪ね先の遺族には80代や90代の人も多かったというが、それが今では完全に逆転し、戦争当時を知る遺族はほぼいない。また、東京国立近代美術館での戦争記録画の修復保存にも携わった修復家の山嶺まりは、無言館での修復作業に力を注いだ人物だが、2020年に逝去している(第二展示館には彼女の名前を冠した修復室がある)。冷徹に時間は進み、時代の様相も変わりつつあるなかで、窪島は現在の無言館をどのように考えているのだろうか?
窪島 なんだかんだ言っていますが、僕は無言館が大好きなんですよ。仮に自分が作った美術館ではなく、まったくの門外漢であったとすれば、折に触れて何度も訪ねていると思います。それだけの説得力がある場所です。
ただ、僕は僕自身を知っていて、いかに時代に流されてここまで生きてきたかを分かっているので、どうしても態度や心持ちがねじくれてしまう。そこが難しく哀しいところです。
たしかに無言館は、若き日の窪島の功名心を滋養の一つとして生まれたのかもしれない。野見山暁治との出会いがなければ、かたちになることもなかっただろう。無言館は、ある種の受け身の姿勢から立ち上がった場所だ。
だがこうも思う。人間が一生のなかで行う選択や遭遇する運命の大半は受動的なものであって、むしろそういった与えられたものごとに対して、当事者たちがどのように接してこれたかという身振りのなかに、具体性やリアリティが宿るのではないか。それは70年前の戦争に至るまでの道筋、そして戦後のあらゆるタイミングで日本人が問われ続けてきたことであり、そして2022年の今日においても引き継がれる、私たちの「受動的な身振り」の問題の中心であるはずだ。
25年という歳月のなかで収集された戦没画学生たちの作品や遺物は、様々な縁の糸をたぐって無言館に預けられた。そして、その膨大な記憶の集積を受け入れることを窪島誠一郎は自身の後半生の仕事とした。その事実は確かなことであり、だからこそ、私はこうして70年以上前に亡くなったアーティストたちの作品に直接触れることができている。そこから何を受け取り、何を人生の糧とするか。それは「戦後」あるいは有形無形の「戦前」を生きる人々に課せられた「自問」である。
戦没画学生慰霊美術館 無言館
開館時間:9:00〜17:00
休館日:火(KAITA EPITAPH 残照館は土日月のみ営業)
長野県上田市古安曽字山王山3462
TEL:0268-37-1650
http://mugonkan.jp/