何かを別の言語に翻訳しようとするとき、困難なもののひとつにオノマトペ(擬音語や擬態語など)があると言われる。オノマトペには多くの場合、その言語を共有する人々の間でのみ通じる質感が伴っているからであり、それはたとえ同じ言語を理解している間柄でも、世代や地域、共有する文化が異なれば、伝わるものが変わってくるくらい、経験的に身についてゆく繊細なものでもあるからだ。オノマトペを通じて、何かの質感を共有できるということは、(思想信条とは関係なく)かなり似通った身体感覚で世界をとらえているということでもあるだろう。ただしそれは、予め共通の文脈に基づく似通った知覚体験がなされていることが前提にあり、そもそも自分以外誰も体験していない新規の知覚である場合には、これは成立しない。
アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作映画『MEMORIA』において、主人公であるジェシカ・ホラントの身に起こる状況は、まさにこうした「翻訳」や「伝達」が不可能に思えるような物事の連続で進行する。
まずは冒頭で登場する謎の音(オノマトペで伝えるなら、ボンッとかボフッというような短い爆発/破裂音である)。どうやらこの音は主人公以外には聞こえていないらしく、ジェシカはその音をどうにか再現してもらおうと、スタジオの音響技師エルナン・ベドヤを訪ねる。ところが、エルナンによって音は確かに再現されて、その記録メディアも受け取ったはずなのに、再びスタジオを訪ねると、その音響技師エルナン自体が、誰にも存在を認識されていない人物であったということが判明する。これを皮切りに、物語は次々と整合性を失っていく。冒頭で見舞った入院中の姉が知らぬ間に快復していたり、死んだと思っていた人が生きていると聞かされたり。
しかし、ここまでであれば、ジェシカはなんらかの妄想にとりつかれた人物で、彼女が見聞きしている世界の外側には、多くの人間が共有する「正常な」世界が存在するととらえることもできる。たとえば、マーティン・スコセッシ監督の『シャッター・アイランド』で、精神病院を舞台に、捜査を目的に病院へ赴いたはずの保安官が、じつは妄想にとりつかれた患者であったという「正常」と「異常」の境界線が揺らぐ結末へと向かったように。
とはいえ、そうした映画は多くの場合、「夢でした」あるいは「妄想の世界でした」という構造を明かすこと自体が映画の山場になっていくが、アピチャッポンの作品の場合にはそうではない。ジェシカは冒頭から自分の経験が他人と異なっていることを自覚しており、そのことに当惑している様子は見られるものの、淡々と、そして冷静に、一つひとつの違いを探り当てようとするかのように、「あちら側」と「こちら側」、双方の人間とのコミュニケーションを取っていく。しかも、この映画において「あちら側」と「こちら側」は、どちらが正常でどちらが異常というのではなく、ただ「見えている世界が違う」ということである。言い方を変えるなら、たとえば自己と他者、価値観の違い、といった程度の差異でしかないかのようだ。
映画は大きく2部構成になっており、前半では、大都市を舞台に多くの人物が登場する。いっぽう後半に入ると、舞台は山あいの村へと移っていき、登場人物も限定される。後半の物語の軸をなすのは、川べりで魚をさばく男性との会話である。その男性の名前はエルナン・ベドヤ。前半に登場した音響技師と同姓同名だ。彼はジェシカに、自分は見聞きしたものすべてを記憶してしまうので、映画などは見ないと語る。まるで、映画『レインマン』に登場する驚異的な記憶力や計算能力を持つサヴァン症候群の人物のようでもあるが、彼もまた、自らが他人と違うことを淡々と受け入れている。しかも彼の場合は、「まるで死んでいるかのように」、一瞬にして夢を見ない眠りに落ちる能力まで持っている。
他人には聞こえない音を聞くジェシカ・ホラントに加えて、存在するのかどうかわからない、あるいは生と死を簡単に行き来できる2人のエルナン・ベドヤ。彼らはいったい何者なのかという問いは、唐突にして衝撃的なラストで、わずかに示唆される。
ここからはその衝撃のシーンについての内容に触れるが、最後に再び爆発音とともに登場し、山の合間を飛び立っていくのは、鈍い光を放つような流線形の未確認飛行物体である。異星人なのか、タイムトラベラーなのか、そもそも誰かを乗せているのかも不明、空に飛び立つ様子だけが示されるだけであるが、この飛行物体の意味するところは大きい。それまでの不整合な物語が、何ら問題ではない、いずれの世界線も当たり前のものとして存在していたと考えるに足る免罪符のように働くからである。
ところでアピチャッポン・ウィーラセタクンは、映画監督であるいっぽう、美術作家としても知られている。この映画の完成に先立つ2017年、本作と同じタイトルの個展「MEMORIA」がSCAI THE BATHHOUSE(東京)で開催された。展示されたのは、ビーチで膝を抱える男性と、赤く傷ついた男性の背中、山あいの風景、穴から覗く景色など、象徴的な映像と写真群であった。
個展に際して、アピチャッポンが当時、コロンビアで新作映画の製作に取り組んでいることは明かされていたが、いま振り返ると、ここに展示された作品と、映画『MEMORIA』の間に、「物語」や「登場人物」といったレベルでの直接的な相関関係は存在せず、それぞれは独立した美術作品と映画として完成していたことがわかる。そして美術としての彼の作品の多くは、映像や音が用いられたり、何かの仕掛けが動いたりと、一定の時間を必要とする(タイム・ベースド)インスタレーションである。ただし、美術作品において流れる「時間」は、映画のように始まりから終わりへ一直線に向かうストーリーのあるものではなく、同じところを繰り返す(ループ)ものが多い。
さて、ループする映像に限らず、絵画や彫刻をはじめとする美術作品全般を鑑賞するとき、私たちはそもそもその作品に現実の世界と同じ整合性を求めることはあるだろうか。展覧会としての「MEMORIA」を見た人は、そこにひとつの物語を読み取ろうとはしなかったはずだ。むしろ逆に、自然をとらえた作品のうちに神々しさを見出したり、静止した身体のイメージのなかに時間の流れを発見したり、現実にはなかなか出会えないようなイメージやかたちにも興味を惹かれ、共感を覚えたり、ということの方が多いのではないだろうか。美術作品を鑑賞するとき、私たちは自然と自らの想像力を能動的に働かせる習慣を身につけていて、不条理な状況、象徴的なイメージ、いままで知らなった他者の存在を食い入るように見ては、驚嘆したり感動したりすることができるのである。
これがもし、同じように不条理な状況を前にして、映画というメディアになった途端に不安や戸惑いを覚えるのだとしたら、一度その先入観を忘れて、一つひとつの場面を、展示室に並んだ絵画のように、独立した作品の群れとしてとらえてみたらどうだろうか。
映画『MEMORIA』の主人公であるジェシカ・ホラントは、この映画の中で何度もひとりで歩いている。そして歩きながら、次々と脈絡なく、独立した場面と出会うのだ。ラフなシャツとパンツを着て、つねにくたびれたトートバッグを肩にかけた、展覧会場でよく見かけそうな姿とも相まって、それはまるで、美術館の中を自由に歩き廻り、とくに順番を決めるでもなく、「病」「音」「記憶」「眠り」「死」といった美術における普遍的なテーマを扱った場面/作品を一つひとつ確認し、驚いたり、他人と自分の体験を共有しようとしたりしながら、展覧会を楽しむ鑑賞者の姿のようにも見えてくる。ジェシカ・ホラントという主人公は、私たち鑑賞者の分身であり、アピチャッポンが紡ぎ出す壮大な展覧会/世界を見て回り、そして最後にはそこから飛び立っていく、外界からの訪問者ともいえるのではないだろうか。
『MEMORIA メモリア』
監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
出演:ティルダ・スウィントン、エルキン・ディアス、ジャンヌ・バリバール
2021/コロンビア、タイ、フランス、ドイツ、メキシコ、カタール/カラー/英語、スペイン語/136分
配給:ファインフィルムズ
木村絵理子
木村絵理子