今年2月、山梨県立美術館はメタバース企画「LABONCHI」をスタートした。第一弾企画として、山梨県の出身の現代美術作家、たかくらかずきによる個展「メカリアル」が開催されている。会期は2月28日~3月26日。
タイトルの「メカリアル」とは、シュルレアリスムとともに日本に上陸した「機械主義」に着想を得た、たかくらによる造語。本展のための新作制作においては、国内のシュルレアリスムの展開に大きく寄与した、山梨県出身の画家、米倉壽仁が出発点になったという。
本記事では、企画デザイン協力、VI制作を担当した小田雄太(COMPOUND inc.)との対談を収録。メタバースやNFTが抱える問題やアートとのつながりについて語ってもらった。たかくらは本展を通じて、機械と自然、メタバースと現実世界といった二項対立の和合を試みており、テクノロジーとアートの両面で現場に立つ両者の、「二項対立」への向き合い方に注目してほしい。【Tokyo Art Beat】
──今回の展覧会は、山梨県立美術館で新たに始まった「LABONCHI(ラボ+盆地)」の第1弾に位置付けられています。小田さんはたかくらさんと山梨県立美術館と協働するかたちで企画面のディレクションをされていますね。
小田:たかくらくんは空間の捉え方、またそこでの遊び方に特長を持つアーティストだと思っています。今回出品している平面作品にしても、3Dプリントの技術で生成できる凹凸を使った実空間へのアプローチが面白いし、逆にメタバース空間における立体、3Dモデリングのあり方に対しても、積極的にアーティストとして介入している。
それに僕が関わっていくとすれば、たかくらくんの個展を中心としつつ、その周囲を空間的に拡張していくための試みを実装することだと思いました。「FUN FAN NFT」というアプリを導入して、会場と美術館敷地内に点在するQRコードを刻んだ石を探し歩くスタンプラリーなどを使って、展示とメタバース空間をいかにブリッジしていくか。それが「LABONCHI」第1弾の軸になっているのではないかと思います。
たかくら:この方法は昨年9月の「ムーンアートナイト下北沢」で感じた、お遍路さんやスタンプラリー的なものと日本の人たちの相性のよさからスタートしています。いまメタバースというと、HMDを装着して体験するものばかりイメージされがちですけど、そればっかりじゃないと言いたかったですし。
小田:VRで「おお!」と驚いてるだけじゃ寂しいから(笑)。
たかくら:今回の「メカリアル」をシュルレアリスムの問題とつなげているのも、空間性を介した超現実主義への関心が理由になっています。巖谷國士は『シュルレアリスムとは何か』 (ちくま学芸文庫)のなかで、超現実とは空想上の存在しない世界ではなく現実性の濃度が高いものを指していると書いています。
それは、なんらかの目の錯覚でいつもと違うものが見えてしまうとか、なじみの風景に違和感を感じるみたいなことに近くて、すごくXR(クロスリアリティ。現実と仮想世界を融合して、新しい体験を作り出す技術の総称)的なんです。QRコードが描かれた石版を介して別世界につなげたりしてデジタルの力で現実を拡張し、濃くしていくというのが今回の企画の狙いです。
小田:「メタバースとは何か?」という最近ではありふれてしまっているような問いを、相応の解像度の高さで美術の側から立てられるアーティストはほとんどいない。その点でも、たかくらくんの個性が強く反映した企画になっていると思っています。
今回示しているメタバースを語る上ですごく重要なのが「アバターがいない」ということです。メタバースの概念は、1986年にリリースされた「Habitat(ハビタット)」や2000年代前半に話題になった「Second Life(セカンドライフ)」など、前世紀から続いてきましたが、メタバースをまず象徴づけるものとしてアバターの存在があります。大勢のユーザーがそれぞれにアバターの姿を借りて、同一空間に同時接続するものがメタバースであるという感覚は、社会的にも広く認知されている。
──祭りのように大勢が集まってわいわい盛り上がっているイメージ。
小田:そうですね。でも結局それは現実空間の互換でしかなくて、むしろそれをメタバースの特徴と言ってしまうことに対しては、僕らは危機感すら覚えている。それは容易に広告的なものに回収されてしまいますから。「スキナーボックス」と呼ばれる、ある空間にたくさんの人を集めて、その人たちの反応を計測するマーケティング手法がありますが、今話題になっているメタバースが目指しているのは、だいたいがそういったもので既存の広告的で中央集権的な構図でしかない。つまり胴元がいて、参加者に対しては「お前らもっと盛り上げろ」と煽る。
──コロナ禍に「フォートナイト」でのトラヴィス・スコットのライブが話題になりましたが、あれも中心には巨大なアーティストがいて、その背後には仕掛人がいて、観客はそれを盛り上げる要素になるだけ、とも言えますね。
小田:NFTにしても、もともとは中央集権制に陥らない分散管理の社会を夢見て始まったものですが、NFTコミュニティも段々と中央集権化しているように思えます。テクノロジーとアートの両面に関わってきた僕らとしては、やはりそうではない可能性にトライしていかないといけないっていうのはすごくあります。
たかくら:そういったトライをするときに、山梨って土地はデジタルについて考えたり実行するうえで面白いと思うんですよね。距離が近いせいもあって、文化的なものはほとんど東京に行ってしまう環境だからこそ、今回のような企画を通して場所に依存しないデジタル表現の可能性を探る意味はある。僕のNFTアートを多く所有しているのは香川県のうどん屋さんたちの界隈なんですが(笑)、かれらと同じように山梨県の人たちがメタバースとNFTのリテラシーが異常に高い、みたいな状態が作れたら、それはとても豊かなことだと思う。
──展示で目指したことはなんでしょうか?
たかくら:先ほど小田さんが言った「アバターの存在しないメタバース」というの大きなポイントです。アバターは多人数とのコミュニケーションを前提としていますが、作品と対面する美術館はもともとそれが主力じゃないんですよ。小田さんは「美術館はPvPじゃない」って言ってましたね。
小田:PvPっていうのはオンラインゲームの用語で「Player versus Player」の略称です。つまりオンラインの空間でプレイヤー同士が対戦するスタイルを指します。「フォートナイト」はその代表的な者ですね。でも僕は「フォートナイト」はあまり好きじゃなくて、「モンスターハンター」シリーズが好きなんです(笑)。「モンハン」はPvE、つまり「Player versus Environment」で、ゲーム内に作られた対象や環境と戦うもので、絵や彫刻という人工物に接するアートの鑑賞はPvEなんです。PvPではなくPvE的な世界観をいかに作るかが今回の企画の大きなテーマ。
たかくら:デジタル領域特有の体験では、人間が対峙するものはプログラムやデータであるべき。だから今回は、フィジカルに印刷したペインティングでは僕が制作したデータを統合し、VR上では、編集中にレイヤーで分かれている状態を見ることができます。
ヴァーチャルな世界が現実の互換になるのではなく、バーチャルとフィジカルで別の次元が同位に存在してる状態を作りたかったんです。シュルレアリスムでいう「ダブルイメージ」につながっていく感覚です。
──3Dプリントで出力されたペインティングには、ストロークやブラッシュといった手作業がまったく関与していないというのもユニークですね。絵の具の厚みを模倣したような凹凸も、白と黒に二極化したデータから導いたものになっていると。
たかくら:何かをとらえるときに二項対立で考えない方がいいって話がありますよね。でも右手と左手があり、空間を上下で捉えるように、どうしても人間は二項対立的に考えてしまう。であれば、それを考えないようにするのではなく、二項対立をどうすれば一つに表現できるかっていうことを、0と1の二進法で出来上がっているデジタルの表現で考えようと思いました。
今回の展覧会に大きなインスピレーションを与えてくれた山梨県出身の画家である米倉壽仁の絵だとか、シュルレアリストの作品を見ていると、無意識と意識だとか、何かに二つのものに引き裂かれる混乱した状態みたいなのを表現している気がします。
また、シュルレアリスムが日本に積極的に紹介されるようになった高度経済成長期と、現在の社会の混乱的な状況が、自分のなかで重なる感覚もありました。フェイクニュースと都市伝説と事実を分ける境界線は人によってまるで違うし、コロナワクチンを打つか打たないか、コオロギを食べるか食べないか、みたいな選択もその人の右や左といったイデオロギーに依存するわけでもない。区別すること自体がナンセンスになりつつある時代だからこそ、今回のペインティングやVRやNFTとして登場する二項対立についての和合図を描いたとも言えます。
小田:いまの話は「LABONCHI」のロゴにもじつは反映しています。デザイン史的にはシュルレアリスムは第一次世界大戦後にアールデコに合流していったという流れがあって、「LABONCHI」のロゴが、湖に映る鏡像として有名な「逆さ富士」をモチーフにしつつ、アールデコの曲線を連想させるデザインになっているのはそういう理由です。さらにこれは連結させて無限に繰り返すパターンにできるのですが、そこもアールデコっぽい。
たかくらくんが言った和合同一に通じる、同じ空間の中に違う位相のものがあるっていうのは僕にとって魅力的なアイデアです。なぜなら現実世界でそれはすでに実現しているから。スマホというデバイスは、自分の掌の中に違う次元を現出させていて、それはすでにみんなにとって当たり前の光景としてある。それは人とデバイスの二項対立的な関係性でもあって、それを身の内に宿しながら暮らすことは、その関係の渦中にすでに自らを置いていることなんじゃないかと思います。
──そういった現実の諸相をふまえたときに、テクノロジーやアートはどのように変化していくと思いますか?
たかくら:たとえばAIによる画像生成や文字生成に対しては、物を作っている側からの賛同や拒否反応が多く溢れていますが、この先にはすごく一般的な技術になると思います。そのような移り変わっていく状況を僕は「混乱」と考えていて、正義や悪といった二項対立以前の状態としての「混乱」を肯定的に受け入れたい。
賛成か反対かをはっきり示すというのは、西洋哲学的な規範を我々がインストールしているだけなのではないか? 僕は仏教で言われる「中道」みたいなことをよく考えるのですが、「これについては『混乱』です」という状態が是とされることに共感を覚えます。
小田:基本的に同意だけれど、僕はそこで「ナラティブ」を大事にしたい。ストーリーとナラティブは違うものですよね。ストーリーは、どんな人が見ても変わらない筋だけれど、ナラティブは見る人によってストーリーそのものが変容していける。ナラティブの可塑性や可能性物を、作る側は許容していかないと駄目なんじゃないかなっていう気がします。とはいえ、やっぱりみんなストーリーを作りたがるんですけどね。わかりやすいですし、成果も数字として得やすいですから。
たかくらくんの言う「『混乱』があります。どう見えますか」っていうのはナラティブです。その混乱をまず提供するというか、混乱を見て「どう思いますか」ってところからコミュニケーションを始めたい。 混乱を前提としたコミュニケーションっていうのが僕は存在すると思っているし、それをもっと楽しめるような世の中にしたいと考えています。
──今回の展覧会は、社会の混乱をアートを通して擬似的に経験してみる「楽しいトレーニング」のようなものかもしれないですね。
小田:確かに(笑)。そうなってほしいです。以前、たかくらくんとゲームをやりながらYouTube配信をしたときにさ、集合知と多元的無知の話をしたでしょう?
たかくら:集合知は中央集権的で問題あるけれど、それが分散管理されると多元的無知になってしまう、という話。
小田:そう。そのジレンマをいかに超えていくか、我々は多元的無知ではなく多元的知を目指すべきだという。 1人ひとりの知性が、ひとつじゃなくて、多元的に主観を持つみたいなイメージ。
たかくら:現在のインターネットではWikipediaのように集合知の集積が正しさを一つに統合していく動きが蔓延している状況だけど、そこで問われ続ける「本当か嘘か」のカウンターとして、多元的な知、多元的な真実のムーブメントは確実に来ると思う。それを自分なりに解釈すると、かつての「言い伝え」みたいなものに回帰していくということ。 地方によって口伝の結果はまったく違うし、たとえば「桃太郎の出自はここです」っていう言い伝えが日本各国にあるわけじゃないですか。そういう状態って別に悪しき状態じゃないと僕は思う。それが多元的知。そして、そのすべてを真実として受け入れる状態は面白い。
小田:それはテクノロジーとデジタルツールの変遷からも見えるかもしれない。今まではすべてのプラットフォームを一つにまとめることが便利だという考えが寡占だったけれど、NFTコミュニティとか見るとわかるけれど、TwitterとDiscord(ゲーム制作者やNFT関係者などのプログラマーが集うSNS)などの最低二つのプラットフォームを併用していて、NFTをMint(鋳造)しようとすると、複数のプラットフォームを渡り歩かないとそのコミュニティでの活動ができなくなっていく。
──あるジャンルで覇権を握ることが正義、というのとはまるで違う分散的な考え方ですね。
小田:もうそれが崩れてきているのは明らかで、たとえばTwitterのルールはDiscordでは通じないわけですよ。それはまさしく多元的だし、本当にそういう訓練をみんなしてるわけですよね。ツールを使いながらどんどん。
もちろん資本主義的な外圧によってまた一つにまとまっていったり、あるいはプラットフォーム自体が潰れて内破することはあるかもしれないけれど、かつて人類がインターネットに夢見ていた「あそこに行けばすべてが揃う」みたいな幻想はすでに終わったと思うんです。
たかくら:TwitterやDiscordだけじゃなく、デジタルツールごとの質感や距離感の違いはこの10年でさらにはっきり感じられるようになりましたね。
小田:それは確実に違う。僕らにとっても当たり前だし、僕らより若い世代はもっとあるんじゃないかな。
たかくら:NFTをずっといじってると、ある固有の質感が出てくるのがわかるんですよ。画像を所有するってことが最初はわからないんですけど、次第に「所有感」と「所有」が分離できることに気づくんですよ。物質を持つことがかつては唯一の所有だったけれど、NFTは物を持ってなくても所有感を得られるっているツール。
それと同じように各SNSにも違いがあって、Discordは自分の家っぽいから来てくれた人に優しく接する。いっぽうTwitterは路上っぽいからわーわーわめいてもOKとか。いや駄目なんだけど(笑)。Facebookは親戚のおじさんおばさんしかいないな、みたいな。そういう肌感。
──アーティストの谷口暁彦さんが、TIFFは固い、jpegは柔らかいみたいなことを以前語ってましたが、デジタル環境と人のイメージの関係はさらにその先に突入している?
たかくら:突入してます。
小田:身体の距離感とはまるで違うよね。
たかくら:僕は街に近いなと思うんですけど。下北でダラダラするのと渋谷でダラダラするのは違うじゃないですか。あの感じにすごく近い。
──古い言葉ですが新人類感があります(笑)。そう聞くと、今回の展示はその未来を追体験させるような、もっとハードコアな内容にする選択肢もあったのかもしれないと思いました。今回は、やはりエクササイズ的な内容にあえて留まっているのでは?
小田:おっしゃる通りで、今回の展示はもっとハードルを高くして、濃密な多元的知を味わっていただくこともできたかもしれないですけど。でも、それだと部活じゃないですか(笑)楽しいトレーニングではなくなりますよね。
たかくら:わかる人だけわかるみたいなのは、もう東京でさんざんやられてるからいいかなあ。そもそも僕は、わかる人にはわかるという美術へのカウンターを常にやってるつもりです。香川のうどん屋さんは美術に詳しくないけれど、NFTについてはめちゃくちゃリテラシー高いというのは、僕の理想を体現してくれている気がします。
美術は自分たちの希少価値を高めてインテリジェンスの高さをアピールすることを手放せなかった。アカデミアである必要があったんですよ。でも、それを崩したいっていうモチベーションが僕にはすごく大きくあって、NFTだったらそれができる。
──その入り口が、一種のモノリスのような道祖神QRの世界?
たかくら:QRの石からNFTにふれた山梨県の人が、NFTのことを道祖神だと理解したら、それはそれで一つの文化圏が構築されることになる。それはいつしかトップダウン型の今までの現代美術を崩して、ボトムアップの文化を作るとしたら面白いこと。
小田:ハードコアになってしまうと、やっぱり中央集権的になっちゃう気もしていて。いわゆるジャーゴニズム(専門家やマニアによる専門用語を多用するコミュニケーション主義)にどんどん陥っていくというか。
わりと僕らはプライベートではかなりジャーゴニズムな人間なので、そこに陥ってしまうことの危うさっていうのは、常にありますね。美術界もそうだしデザイン界もそう。閉じることでそこに属する人たちには説明不要になるのは楽なんですけれど、外部に対して反証性がないから技術や知識が引き継がれないんですよね。現在のNFTコミュニティは先鋭特化と中央集権を強める傾向が強いですが、何のためのNFTだっけ?というの問うていきたい。
たかくら:バブリーな方向にひた走るのではなくてね。そこに足りないものは明らかに美術的観点であって、人間の文化的資源として歴史に残すべきだよねっていう観点が、NFTにはまだないまま突っ走っちゃっている。NFTの政治性と美術の性質は本当はつながっているはずのものなので、それを何とか僕は後付けでつなげたいっていうようなことをやっているという意識です。
小田:今回の企画がもしも企業主導のものだったら、いろんなとこにキャッシュポイントを作らないといけないので、割とハードコアな設計にしていたとも思います。でも今回は県立美術館による公共事業なので、公共性のおおらかさや開放性を逆手にとっているとも言える。公共事業だからできたチャレンジです。
たかくら:QRから無料で得られるNFTにレアリティを持たせようかとも構想中は思ったんですけど、それよりも山梨県の中で1000人から1万人ぐらいの人がNFTアートを持ってるっていう状態の豊かさにトライしたってことですね。
たかくらかずきが「アートってなんですか?」の質問に答える、「Why Art?」動画インタビューはこちら↓