1974年、榎忠(1944〜)がとうとうUFOの捕獲に成功する。小型のUFOは、1970年に開館したばかりの兵庫県立近代美術館をはじめ、神戸のランドマークを次々に破壊して回っていた。神戸港近くにそびえる黒いビルもまた、UFOの侵攻目標となった。1969年に竣工した、当時西日本一の高さを誇る110mの「超高層ビル」──神戸商工貿易センタービルである。
榎は、後年「攻撃」の背景について次のように語っている。
「僕ね、そんな深い理由でなしに、なんか不安があるわけ。こんなにボンボンでっかいビルができたりとか、新神戸に新幹線とか、それはずっとつながってると思うんやけどね。田舎を買収して、山の中に穴掘ってこんなのができるとか。それよりもっと大事なものがあるのとちがうかな、いうのがどっかにあるから。」(*1)
漠とした不安をどうしたらよいかは「宇宙語」を話すUFOに聞いても無駄であったが、ともかく、ここで榎が言及している神戸の急激な開発は、当時の神戸市長・原口忠次郎(1889〜1976)によるものであった。戦前は満州で国道建設所長も勤めていた「技術屋」出身の原口は、タワーとしては世界初のパイプ構造による神戸ポートタワーを建設し(1963)、全長16kmに及ぶ六甲トンネル(*2)を掘って山陽新幹線を開通させ(1970)、果ては淡路島に空港を建設する計画を実現させようと剛腕を奮っていた(明石海峡大橋はいわばその「名残り」である)。
原口の仕事は多岐にわたるが、そのなかでも神戸の山岳を削り、ベルトコンベアで土砂を運搬し、世界最大の人工島・ポートアイランドを作り上げる計画はもっともよく知られたもののひとつだろう。「山、海へいく」と謳われた巨大土木事業である。着工は1966年(*3)、完成は15年後の1981年であり、原口がその完成を見ることはなかった。
ポートアイランド造成開始の翌年(1967)、フル稼働するベルトコンベアのすぐそばで須磨離宮公園が完成、一般に向けて公開された。このさらに1年後(1968)、公園内で開催された神戸須磨離宮公園野外彫刻展の挨拶文に、原口は次のように書いている。
「神戸市の須磨離宮公園は占領中、しばらくアメリカ軍に使用されていましたが、返還後、神戸市がこれを譲りうけ、市民の公園としての環境を近代的に整備することになりました。」(*4)
神戸須磨離宮公園現代彫刻展は、米軍の射撃練習場として接収されていた土地(武庫離宮)をリニューアルした公園で始まっている(*5)。と同時に、神戸市長・原口忠次郎による一連の大開発を文化面から裏支えする事業でもあった(*6)。「もの派」の震源であり、「日本戦後美術」を代表する作品である関根伸夫(1942〜2019)の《位相-大地》(1968)は、このような環境のもと、東京でも、大阪でもなく、神戸で制作・発表されている。
意外に思われるかもしれないが、《位相-大地》は当時そこまで大きな扱いを受けていなかった(*7)。たとえば『美術手帖』の口絵を見ても、《位相-大地》は単独で掲載されてすらいない(*8)。ここで、《位相-大地》の「盛り土」と穴を挟んで上下対称かのように掲載されている木箱に注目してみよう。《オールデンバーグからの贈り物》(1968、原文ママ)という、福岡道雄(1936〜2023)による風変わりなタイトルの作品である。
クレス・オルデンバーグ(1929〜2022)は1965年ごろから架空の記念碑のドローイングを発表していたが、1967年にはついにニューヨークのセントラルパークで墓掘り人に委託して穴を堀ってもらう作品を制作する(*9)。『芸術新潮』でその作品を知り興味を抱いた福岡は、「掘った土をオルデンバーグがプレゼントしてくれたとしたら」という想像を膨らませて作品を制作した(*10)。いわば、ニューヨークと神戸にあるふたつの公園をつないで、《位相-大地》的な事態が発生している、ということになる。
輸送用の木箱の上部は、セントラルパークの地面が直送されていることを示唆するためか、芝生になっている。木箱には、オルデンバーグ(セントラルパーク)と福岡の大阪の住所に加え、「UP↑(こちらが天)」、「HANDLE WITH CARE(取扱注意)」、(「KEEP DRY」ならぬ)「KEEP WET(湿らせ続けること)」という表記が印字されており、輸送の手続きがユーモラスに擬態されている。
「ぜんたいの印象として作品がまだまだ室内楽的」とも評された野外彫刻展であるが(*11)、福岡の作品は(美術関係者への内向きな目配せは別として)展覧会の「外」の時空間を想起させるものだ。「この木箱が本当にアメリカからやってきてるのだとしたら、どのように運ばれたのだろうか?」──すなわち「ロジスティクス(物流)」をめぐる問いである(*12)。
現地制作の《位相-大地》がポスト工業化時代の土木技術と結びついていたとすれば、《オールデンバーグからの贈り物》はグローバル化した物流と結びついている(*13)。当時の神戸は世界的な物流改革──いわゆる「コンテナ革命」の中心地であり、アジアでもっとも先駆的な港となっていた。冒頭に述べた原口によるポートアイランド計画は、まさに「コンテナ化(コンテナライゼーション)」に対応するべく構想されている。
1967年(須磨離宮公園がオープンした年)、神戸港は日本で初めて「コンテナ船」を受け入れたが、規格化された海上コンテナの効率性は絶大であった。その様子は「従来の人数の半分で、しかも20倍の荷役をこなし、コンテナ化の効果を実証する」(*14)ものであったという。1968年8月(野外展の直前)には、日本初のコンテナ船「箱根丸」が出港している。
コンテナ化を急ピッチで進める神戸市は、1966年に刊行された資料のなかで「10年前はコンテナー船と専門化されたコンテナー船埠頭を夢見る人は、当時大気圏外の旅行を想像する人と同じ範疇にいれられていた」(*15)と書いている。宇宙旅行と同じくらい不可能に思われた構想が、10年あまりで実装されたのはなぜだろうか。その動力源は、ベトナム戦争であった。
1965年、大量かつ多種多様な物資が際限なく届くベトナム・サイゴン港は、大混乱に陥っていた。その量はもとより、需要と供給の不一致(欲しいものが欲しい時に届かない、不要なものが大量に届く......)も米軍関係者を疲弊させた。何よりもすべての船が「混載船」であったことが混乱の最大の原因であった。そうなると、「荷上げ作業では、船倉から一個ずつ貨物を取り出さなければならない。〔...〕ほとんどの船は複数の港に立ち寄るスケジュールが組まれており、本土を出港する際の積付け手順がわるいと、途中の港で一旦下ろしてからまた積み直すという面倒まで生じた。最終目的地に到着しても誰宛かわからないこともままある。そうなると、当てずっぽうで送り届けるしかない」(*16)。ベトナムには毎月1万7000人の兵士が「供給」され続け、歩兵部隊が到着すればそれに伴い451トンの物資・装備が陸揚げされる。戦争とは人間と物資の移動に他ならない。
こうした問題を解決すべく登場した技術体系こそ、「コンテナ」であった。カリフォルニアのオークランドから沖縄までを定期的かつ遅滞なく輸送し続けたコンテナシステムは高く評価され、全面的に導入されていく(那覇港はベトナム戦争に関する物資輸送の主要港である)。サイゴンの北に位置するカムラン湾は瞬く間に大型コンテナ港に生まれ変わることとなった。カムラン湾には「大型コンテナ船が毎週コンテナ600個を規則正しく運ぶようにな」り、「米本土を出港してから帰港するまで、コンテナはシーランド〔コンテナ船会社〕がベトナムに持ち込んだ最先端のコンピュータ・システムに完璧に管理され」た。「物資は整然と送り込まれるようになり、港の混乱も迷子の貨物も姿を消した」のである(*18)。
コンテナ革命は単に物流の混乱と遅延を解消しただけでは終わらない。恐るべきは、人間のあくなき欲望と効率化の希求である。ベトナムで軍事物資を下ろし切って空になったコンテナ船は、神戸や横浜で日本製の電化製品を積めるだけ積み込み、アメリカに戻っていった。「かくして、米国西海岸 - 那覇 - カムラン湾 - 横浜・神戸 - 西海岸を結ぶ循環の回路が生み出され」た(*19)。往路で軍事物資を運び、復路では電化製品を運ぶ。ここでは、軍事と商取引は分離しえず、「戦争と平和は、ひとつの箱の、別々の側面でしかない」(*20)。
もちろん、福岡道雄の木箱は実際に太平洋を渡ったわけではないし、仮にそうだとしても海上コンテナでの輸送ではなかっただろう。ただ、残された写真やドローイングから離宮公園に置かれた作品の来歴を想像するとき、ひとつのロジスティクス空間が脳裏をかすめるのである。もっとも、福岡は「KEEP WET(湿らせ続けること)」という指示書きによって輸送するものの扱いづらさを肯定し、「コンテナ化」する神戸に水を差し続けるのだが。
コンテナ化が急速に進むいっぽう、ロジスティクスの世界ではもうひとつの箱──段ボール箱が覇権を握っていた。日本においても、1951年に吉田茂内閣が「木箱から段ボール箱への切替」を閣議決定(!)して以降、段ボール箱は急速に浸透していった。木箱に比べて圧倒的に軽く、コストも安く済み、また(荷台の形から逆算して)規格を統一できる梱包が採用されないわけがなかった。1950年代末にはすでに段ボール箱の天下ではあったが、「イザナギと呼ばれた時代」には、全国の高速道路が整備され、トラックが24時間体制で走るようになり、また箱自体も耐水性や耐久性、印刷技術などが向上した結果、段ボール箱は物流において最重要の存在となっていた。
1969年の3月、京都市立美術館の前庭に8mにも及ぶ段ボール製の構造体が設置される。野村仁(1945〜2023)の《Tardiology》(1968〜69)(*22)である。雨や風や重力など、外的な諸力によって色や形が変容(崩壊)していく段ボールをそのまま受け入れ、プロセスの節目ごとにシャッターを切って記録していくこの作品は、段ボールの構造体が作品であるとも言えるし、残された記録写真こそが作品であるとも言える。
2005年の「もの派ー再考」展に際して、野村は《Tardiology》の経緯について次のように回想する(*23)──あるとき彼は、5つのカプセル型の作品をそれぞれ1㎥ほどの段ボール箱にしまい、軒下に積んでいた。段ボール箱はビニールシートをかけていたものの、気づいたときには「風雨や夜露に晒され」「重みで拉(ひしゃ)げ歪んでしまっていた」(*24)。段ボール箱は保管や運搬という本来の機能を果たせてはいないのであるが、「作品はモニュメンタルな永続性を第一義としなければ、どうなるのだろう?」と思考していた野村は、むしろ傷んだ箱の状態に鋭く反応する(*25)。
1968年の晩秋、卒展での《Tardiology》発表に向けて段ボールの壁面づくりに取り掛かった野村は、引っ越し屋から手に入れたという158cm×229cmという大型の段ボール板(Wフルート / 8mm)を2枚から3枚かさね、木工用ボンドで圧着・拡大する作業を繰り返した(*26)。当初は5段のユニットを横並びに連結してからクレーンで垂直に立てる方法を想定していたが、搬入時に難しいと判断し、高さは4段へと切り替えられた(*27)。
いちばん下の段が偶然台形状に広がったため安定したのだと推察されるが、軒下に積んだ段ボール箱といい、強度が落ち、変色、変形するものの、なんとか原型をとどめる段ボールの絶妙な耐久性が遺憾無く発揮されている。迅速な運搬や安全な保管という役割から遊離し、ただ時間の経過が転写されていく《Tardiology》は、ある意味で段ボールのもっとも創造的な「使用法」であると言えるだろう(*28)。
いっぽう、戦争末期のベトナムでは段ボールの「別なる使用法」が発明されていた。それはいわば、想定されうる段ボール箱の使用法における、ひとつのデッドエンドであった。
1975年4月2日、パンアメリカン航空のDC-8貨物機が陥落直前のサイゴンから横田基地へと向かっていた(*29)。貨物機には57人の孤児が乗っており、その多くは「段ボール箱」に入れられていたという。横田基地着陸後、23人の孤児は治療が必要と判断されて基地内の病院へ搬送された(*30)。燃料を補給した貨物機は数時間後に再び離陸し、アメリカ・オークランドへと向かう。その翌日、アメリカ大統領フォードは大々的にベトナムの孤児救出作戦を宣言する──作戦名「オペレーション・ベビーリフト(幼児空輸作戦)」。
民間主導であったはずのそのプロジェクトには、フィリピン、グアム、日本の基地が使用され、太平洋の米軍基地全体を巻き込む軍部主導のものとなっていた(*31)。墜落事故も起こし、多くの死者を出した「幼児空輸作戦」は、最終的には3300人以上の幼児をベトナムからアメリカへと「空輸」する。孤児たちは養子縁組によってアメリカ人として育てられていく。アメリカはベトナムに爆弾を落とす一方で、両親が殺された孤児を救出しようと試みていたわけである(ただし親が健在な子供も「救出」されたし、ベトナム側にとっては「誘拐」であった)(*32)。
ミン・フイン・ヴーは、「幼児空輸作戦」で「段ボール製のベビーベッド」が使用されたことについて興味深い分析を行っている(*33)。孤児たちが収容された段ボール箱は、ベトナム戦争において米軍が戦時物資(兵器や食糧)を運搬するために使用したのと同じタイプの強化段ボール箱であった。戦地では食糧を運び、「人道的作戦」では孤児を運ぶ段ボール箱は、「アメリカという帝国を絶えず再生するメカニズム」が物質化したものである。それは運ばれ、ケアされる。
あるいはまた、それは段ボール箱であるがゆえに、グリッド状に並べられた。限られた空間のなかでとりうる、安全で、かつ、もっとも効率的な輸送の形態。神戸港をはじめとする世界中のコンテナ港、多国籍企業のサプライチェーンの倉庫の日常風景がここでは先取りされ、反復され、徹底されている。しかしその中身は電化製品でなく、赤ん坊なのである。
ミンは、1975年4月12日に撮影された写真に映る、右座席中央の幼児たちの足が箱からはみ出していることに注意を促す。当然ながら幼児の体格は様々であり、全員が段ボール箱の規格サイズにおさまるはずもない。そして強化段ボールであっても、段ボールである限りは不安定な物質であるほかない。野村仁が自然の諸力と時間の経過によって変化を期待した段ボールという物質は、ここでは中に入れられた幼児自身によって内側から力をかけられている。「段ボールにシワを入れ、くしゃくしゃにすることで〔...〕、ベトナムの赤ん坊たちは(たとえ意図的でなかったとしても)幼児空輸作戦を妨害したのである」(*34)。
岸本一夫(1935〜)は「JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)」やオリオンビールのロゴマークの仕事で知られるが、1970年に「PACKAGE TO OKINAWA(沖縄行きの荷物)」と題した連作を手がけている(*35)。段ボール箱にとってかわられたはずのロジスティクス空間において、なおも木箱が登場し、(核?)ミサイルや爆発物のスイッチ、御霊前と書かれた香典袋、燃えるような赤い紙、モノクロの星条旗のようなものが収められている。
《黒い蝶》を見てみると、木箱は釘打ちして固定された上蓋も破壊され、残った釘もバールで引き抜かれたことで使い物にならなくなっている。残された上蓋には黒い蝶が安らいでいるが、炎のゆらめきの形に切り抜かれた赤い紙とあいまって、不穏な静けさを湛えるのに一役買っている。《黒い蟻》、《黒い佛桑華》(*36)も同一の配色やトーンで描かれており、使い古された段ボール箱のくたびれ方とは対照的に、木箱は破壊されつつも直方体が維持されている。
岸本の作品は福岡道雄の《オールデンバーグからの贈り物》とは違って、破壊され、宙に浮いている。届け先はわかるが、誰がどこから送ってきたのかはわからない。しかし無論、送り手について私たちは思考を巡らせることができる。贈り物ではなく、一方的に送り付けられていることも察知できる。アメリカに太平洋の要石(キーストーン)と呼ばれた沖縄は、ベトナム戦争下において、アメリカ、ベトナム、日本、韓国をつなぎ、膨大な量の箱を受け入れてきた。
箱の中身はわからないし、知らされない(*37)。誰かの死があらかじめ梱包されているにもかかわらず。こう考えると、箱が箱として機能しないほどに破壊され、中身があらわになっていることは、ロジスティクス空間という密室に一矢報いるための暴力の結果に思えてくる。
岸本は、1969年に《積み木のOKINAWA》と題された油彩画を手がけてもいる。星条旗と言ってしまってよいのか、星型と横長の木製ブロックで構成されていて、奥行きもなく、所々に隙間もあり、不安定な壁のようにも見える。背景は白い雲と青い空で晴れやかなのだが、積み木の上には鉄塔が建っていて、隙間からはまたも核のスイッチが顔を覗かせている。円で囲われた黄色い鳥居は、琉球米軍司令部 (ライカム)のマークだろうか。積み木の隙間を眺めていると、艦砲射撃の痕跡にも見えてくる──。
エピローグめいてしまうが、積み木というのは難儀なもので、積み上がってきた下層部分に変更を加えようとすると、すべてを崩してしまいかねない。星型ひとつ抜くのでも大変そうだ。しかも「全てを灰燼に帰すことができる」と言わんばかりにスイッチの蓋が開かれている。2022年の夏、「復帰」50年の沖縄で《積み木のOKINAWA》を観て以来、これはたんに自虐でも戯画化でも諦観でもないのだなと思ったし、差し戻される感覚を覚えてきた。そこから学びたいと思ったし、自分なりにやりたいと思ってきた。
2年にわたる連載は回を追うごとに提出が伸びた。この連載は様々な先行研究に依って立っており、直接間接を問わず協力いただいた方々のおかげでなんとか書き上げられている。自分が探してきたというよりは、すでにこんなにも作られてきたし、実行されてきたし、記録されてきたじゃないか、という気持ちであった。しかしやはり、「イザナギと呼ばれた時代」に潜りにいくことはそれなりに孤独な作業でもあった。
資料館のパネル展示や自主企画の野外展示、デモでの誰かのちょっとした振る舞いに、強く心を揺さぶられることがある。それと同時に、UFOが襲来したという作家に、できたばかりの公園で突如円筒形の穴を掘り出す作家に、「KEEP WET」と書きつけて箱に芝生をつける作家に、光を梱包しようとする作家に、段ボールがゆっくりと変容するのに手応えを感じて記録する作家に、破壊された木箱や、むずがる子供の足蹴りに、言いようもなく嬉しくなる瞬間がある。
書くことで、こうしたほかの時間やほかの人を「身近に感じる」わけではない。「イザナギと呼ばれた時代の美術」はべつに固まった時間でも表現でもないのだ。それでもこのように書き続けることで、何かこれまでとは違う位置関係が作れるかもしれない。「展覧会」とは別の体系に属する一向に慣れない仕事であったが、それがどうにか伝わっていると嬉しい。
最後になるが、2年以上にわたって連載を見守ってくれたTokyo Art Beatの方々に心より感謝申し上げます。このような見切り発車、不定期、長文の連載が何年も続けられることに、少なからず励まされていました。
(終)
*1──榎忠 オーラル・ヒストリー 第2回 2012年4月10日 https://oralarthistory.org/archives/interviews/enoki_chu_02/
*2──当時鉄道トンネルとして日本一の長さ、世界で3番目の長さであった。工事は難航し、崩落や出水による事故で54名が亡くなっている。
*3──1966年はまた、兵庫県衛生部によって「不幸な子どもの生まれない運動」が始まった年でもある。これについては稿を改める。
*4──『須磨離宮公園現代彫刻展』神戸市編、1968年、 p.2
*5──この経緯は「現代美術野外フェスティバル」(1970)の会場である「こどもの国」と極めて似通っている。米軍に接収されていた田奈弾薬庫(こどもの国)の返還については、次のようなエピソードが残っている。
「無名戦士の記念碑」 https://www.kodomonokuni.org/sansaku/unknown.html
*6──福岡道雄によれば、参加作家には造園家から抗議文が届いたりもしていたようである。
福岡道雄 オーラル・ヒストリー 第1回 2013年1月25日 https://oralarthistory.org/archives/interviews/fukuoka_michio_01/
*7──「先ず大前提として、《位相−大地》が神戸の須磨離宮公園に完成しその威容を見せていた時期、1968年10月から11月にかけて、その作品を正当に評価していた者はほとんどいなかった、ということを再確認したい。」
中井康之「「もの派」事始めを探る──関根伸夫、李禹煥、郭仁植」https://artscape.jp/report/curator/10160315_1634.html
*8──『美術手帖』巻頭口絵解説として岡田隆彦(1939〜1997)が野外彫刻展のレビューを執筆している。事前に資料提供を受けていたのか、写真を見ながら神戸に向かったという岡田は、「遠慮なしにいって、写真で見たほうがいい作品が多かった。仰角で撮っているせいだろう、とくにスケールの点で、実物と写真はいちじるしく感じがちがうのである。写真に移し〔ママ〕かえられた像のほうが、実物よりずっと大きく見える。」(p.140)と書く。そしてさまざまな出品作に触れていきながらも、最後まで関根伸夫と福岡道雄には言及しない。
*9──セントラルパークにはオベリスク(クレオパトラの針)があり、裏にはメトロポリタン美術館があるなど、先行する「永続性」の象徴に対するオルデンバーグの反発心がうかがえる。
*10──『美術手帖』1973年9月号での鼎談で、美術批評家の東野芳明(1930〜2005)にセントラルパークでの穴掘りの話題を振られたオルデンバーグは、《位相-大地》を褒めたあと、関根に対して次のように話し出す。
オルデンバーグ「ぼくは、まだ実現していないけれど、もうひとつ、穴の作品のプランがあるんだけど、その点であなたの作品は気になるね。〔...〕ぼくのプランというのは(紙にデッサンを描きながら)、こういうふうに、なかの土を水力機械みたいなもんで、そのままの形で、上へあげようというものなんだ。このデッサンをあなたにあげるよ。」関根「どうもありがとう。」(『美術手帖』1973年9月号、p.146)
「オルデンバーグからの贈り物」は福岡ではなく関根が受け取っていたことになる。
*11──美術手帖』1968年12月号、p.143
*12──「ロジスティクス」は日本語では兵站(へいたん)と呼ばれるように、元々は武器や食糧物資の補給を意味する軍事用語である。北川眞也『アンチ・ジオポリティクス 資本と国家に抗う移動の地理学』(青土社、2023年)、Deborah Cowen, The Deadly Life of Logistics: Mapping Violence in Global Trade,University of Minnesota Press, 2014参照。
*13──《位相-大地》への土木工事技術の適用や、もの派とポスト工業時代のつながりについては、関根本人のインタビューをはじめ、黒瀬陽平や梅津元など先行する論考が複数存在する。
*14──橋本行史 「港湾からみた都市間競争の研究」(博士論文)1998年、p.41
*15──『コンテナー・システムと港湾』神戸市、1966年、p.2
*16──マルク・レビンソン『コンテナ革命 世界を変えたのは「箱」の発明だった〔増補改訂版〕』村井章子訳、日経BP、2019年、pp.235-236
*17──そもそも非物質的労働やグローバリゼーションに関する議論を経た現在からこのような問いを立てること自体に問題があるかも知れず、また筆者の調査不足でもあり、もっか課題である。
*18──マルク・レビンソン『コンテナ革命 世界を変えたのは「箱」の発明だった〔増補改訂版〕』村井章子訳、日経BP、2019年、p.243
*19──北川眞也『アンチ・ジオポリティクス 資本と国家に抗う移動の地理学』青土社、2023年、p.267
*20──同上、p.268
*21──渡辺直紀「六八革命と東アジア――思想・言説連環の冷戦的文脈」『東アジア冷戦文化の系譜学: 一九四五年を跨境して』越智博美・齊藤一・橋本恭子・吉原ゆかり・渡辺直紀編、筑波大学出版、2024年、pp.450-451
*22──Tardiologyは野村の造語であり、フランス語のtardが元になっていると考えると「遅延学」とでも訳せるものだ。
*23──『もの派―再考』国立国際美術館、2005年、pp.136-137
*24──同上、p.136
*25──同上、p.136
*26──高木遊氏にご教示いただいた。記して感謝する。
*27──それでもうまくいかなかったが、「設営現場に来ていた辻晉堂(1910〜1981)が他の学生に呼びかけ、構造体を支えてなんとか建ち、木に縛りつけて数日間を乗り切った。」(中山摩衣子「彫刻表現の多様化、それらを生んだ教育的土壌」『コレクションルーム秋期 特集 Tardiologyへの道程』配布作品リスト(京都市京セラ美術館、2023年)所収)
*28──安部公房『箱男』は1973年刊行(新潮社)である。安部が浮浪者の取り締まりに出くわした際に、上半身に段ボール箱をかぶった浮浪者と直に遭遇したことに着想を得ている。なお、段ボールを制作に取り入れた美術家には、段ボールをコラージュの素材に用いた三上誠(1919〜1972)、段ボールの平面に18,281個の穴を開けた名坂有子(1938〜)、段ボールで「ワッペン」と呼ばれるレリーフを繰り返し制作した磯辺行久(1936〜)などがいる。いずれも、やや厚めの平面性、加工(破壊)しやすさ、手に入りやすさなどをうまくとらえた展開を見せている。
*29──無許可であり、サイゴンのタンソンニャット空港の管制官たちはDC-8を必死に止めようとした(パイロットが管制官の指示を意図的に無視したのかどうかはわからないが、無線障害があったという証言が残されている)。
*30──このとき一人の日本人女性が基地に侵入し、機内の孤児を一人連れ出していた(のちに確保されている)。(AIRLIFT TANKER QUARTERLY Volume 13, Number 2, Spring 2005,p.12)
*31──Yen Phan, "Family Ties": Operation Babylift, Transnational Adoption, and the Sentimentalism of US and Vietnam Relations (1967-2002), 2012
*32──Lacy Fosburgh, "First Orphans Arrive to begin a New Life," The New York Times, 4 April 1975
*33──Minh Hujnh Vu, Containers of Care: Cardboard and the Corrugated Construction of War,ISLE: Interdisciplinary Studies in Literature and Environment, August 2023 ミン氏からは快く論考を提供いただいた。記して感謝する。
*34──同上、p.801
*35──1969年には米軍基地(の倉庫)を描いたシリーズも手がけている。(『岸本一夫のめざすデザイン 1960-2020』岸本一夫デザイン研究室、2022年、pp.38-39)
*36──佛桑華(ぶっそうげ)は沖縄の仏花である。
*37──1969年は、第267化学中隊による毒ガス放出事故が発覚している。沖縄には、VXガス、サリン、マスタードガスなど13,000トンもの毒ガスが貯蔵されていた。1971年に米軍は沖縄本島の毒ガスをジョンストン島に移送する「レッドハット作戦」を敢行する。土木という観点から言うならば、神戸が都市開発として人工島を建設しているとき、沖縄では毒ガス輸送のための代替道路建設が行われている。
沖縄県公文書館所蔵資料展「毒ガス兵器撤去のたたかい 1969-1971」https://www.archives.pref.okinawa.jp/event_information/past_exhibitions/10922
長谷川新
長谷川新