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——2005年に第51回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館で展示された「Mother’s」でも、お母さまの火傷の跡を撮られています。お母さまは、その撮影の途中で亡くなられてしまいます。
本当に急に亡くなったんですよ。火傷で輸血したらC型肝炎になって。彼女は「薬は毒」と言って飲まない人だったんです。入院してから、2ヶ月後に亡くなりました。
——お母さまは傷跡をすんなり撮らせてくれたんですか?
うん。84歳の誕生日だったの。じつは先日も内田也哉子さん(エッセイスト、翻訳家、歌手、俳優。母は樹木希林)がここに来て。彼女もお母さまが亡くなられたばかりでしょう。それで「Mother’s」について話したんだけど。自分の気持ちが追いつかないうちに環境が変わると、どうしていいかわからないじゃない。私は母とこれから話していこうと思った矢先に亡くなってしまった。母とはあまりうまくいってなかったのに予想以上にショックだったの。父が亡くなったときも悲しかったけど、悲しみの質が全然違った。
亡くなったあと、家には母のモノがたくさん残っているわけよね。箪笥を開けたら、彼女の下着がいっぱい出てきた。そこから、なるべく身体に近いものを撮った。化粧品とか、口紅とか、靴とか。話す相手がいないから、しょうがないから下着たちと話すの。それが「Mother’s」。
このとき、口紅をいままでみたいに白黒で撮ったら、汚かった。それから、きちんと色を受け入れなきゃいけないと思って、普通にカラーで撮った。私がカラーを撮り始めたのはそれからです。
——内田さんのお話を聞いていて思ったのは、今回、石内さんについて人が書いた文章をできるだけ読んだのですが、良い文章が多いと感じたんです。どれも嘘がない感じがするというか。母娘関係とか40歳とか傷跡とか、石内さんの作品について語るとき、人は自身の人生についても語っているように感じます。
みんな抱えている問題はおんなじなんです。
——それは石内さんの作品の重要な力なんじゃないでしょうか。ヴェネチアの「Mother’s」の展示で、写真を前にして海外の方が泣かれていたというよくされている話や、傷跡の撮影を志願する人の存在もそれに重なります。石内さんは個人的なところから出発しているのに、見る人は客観的に見ていられない。
写真の大きさや、展示の仕方も普通じゃないし、いわゆる写真のセオリーとは関係ないんだよ、私の作品そのものが。だから、自分でもよくわかんないけど、親密度なんだと思う。いままではっきりしていなかったことを写真に撮って表に出すことで、見る人が反応してくれてるのかなって思うね。
——2007年に撮影を始めた「ひろしま」のシリーズでは、写真集刊行後、被爆者の遺品をいまも撮り続けられています。このシリーズの広島へのアプローチも、とても独特です。
広島に1年に1度行くんだけど、77年経ったいまも平和記念資料館には新しい遺品が入ってくる。すごいよね。それを毎年、完全に個人的に撮っている。広島に出会ったことで自分が豊かになった。すごい歴史に触れちゃったって。行方不明の女の子たちの洋服があって、「カッコよく撮ってあげるから、戻ってきたら着てね」ってイメージで撮ってる。遺品が入ってくる限りは撮ろうかなって思ってます。
私たちの世代は広島のモノクロ写真しか見たことがなかった。被爆者には地味なモンペを履いているイメージがある。でも、被爆者はお洒落じゃいけないイメージって変だよね。差別なんだよ。本当は、そこには直前まで普通の生活があった。かわいい、デザインも質もいい服を着ていたんだ。お母さんが娘のために仕立てたり、娘さんが大事に着ている感じが良くて、それが伝わればいいと思ったんだよね。
——「悲惨さ」のなかにも目を凝らすと見えるものがあるかもしれない。
これまで広島は、たとえば土門拳が撮ったようなイメージが強かったんじゃないかと思う。やっぱり「男の広島」だったと思う。資料だったの。私のは資料じゃないから。もっと、自分が着ていてもおかしくない普通の洋服として撮ってる。もちろん、土門拳のような広島があったからこそ、私の「ひろしま」が撮れたというふうにも思うんだけど、全然アプローチが違うなって思っているんです。
なんでこれらの服が残っているのか。その意味をみんなが考えなきゃいけない。私はそこで反戦平和というふうにはあんまり言いたくなくて、写真を見てくれる人に委ねたい。いままでの写真は報道という役割もあったから、どうしても説明的で、社会的なものとしての広島をとらえてきたんだけど、私はそうじゃなくて、広島をもっと自由にしてあげたい。自由に考えようよって。図々しいんだけどね。
——2018年に、40年以上使われていた横浜の暗室を去り、生まれ故郷の群馬県桐生市に活動の拠点を移されました。その理由はなぜだったのでしょうか?
いろんな事情があるけど、ある日突然「ここにいちゃだめだ」って思ったの。私はもともと週末だけ暗室作業で横浜に来ていたんだけど、両親がいなくなってからもしばらく横浜に住んでいて。埋立地なの。歴史がない土地って奇妙なんです。それもあって、どこかに引っ越そう、どうせなら桐生にしよう、と。
桐生にふたり、いい男がいて、ひとり、いい女がいるの。ふふふ。男のひとりは桐生の大川美術館を作ったオーナー。もうひとりはイッセイミヤケの生地を作っていた新井淳一さんってテキスタイル・プランナー。その人たちに会って、これはいいなって。もうひとり、島隆(りゅう)って知ってる?
——日本で初めての女性の写真家ですよね。石内さんの文章で知りました。
そう。桐生に島隆記念碑が建っていて、調べたら旦那の島霞谷が亡くなってから、写真機材を持って生まれ育った桐生に帰り写真館をやっていた人なの。なんか面白いなって、これもひとつの縁かなって。
——じつは西宮の個展で個人的にいちばん印象的だったのが、引っ越しにあたって横浜の暗室や近所を撮影したスナップ「Moving Away」シリーズだったんです。道路のミラーに写るセルフポートレイトとか、石内さんのなかで異質な作品だと思うんですけど、横浜自体を時間が堆積する場所として撮っている感じもしました。
妙に評判いいんだよ、あれ。森山大道さんも「都ちゃん、すごく若いね」とか言ってくれて、びっくりしちゃった。「若いってどういう意味!?」って(笑)。今度聞いてみようかな。
まあ、あれは惜別というか、さよならってね、未来に向かって行くからね。さよならって、スッキリしてるの、私。それが出てたのかもしれない。変なノスタルジーがなかったのかもね。
——さりげないんですけど、石内さんにとっては重要な風景なんだろうなって。
ああいうスナップはそれまで撮らなかったしね。たまたま3年くらい前に中国からセルフポートレイトの依頼がきて、家を撮るのもセルフポートレイトかなと思って始めて、半径1キロを歩いて撮ったの。
——じゃあ、いまは気持ち的にはさっぱりしている感じですか?
うん、なんか未来が明るいって感じ。いままでとさよならして、別の世界に来たような。そしたらスカジャンの話が来て……。
——いま桐生でスカジャンを作られているんですよね。知ったとき、意外でした。
私だって意外よ。「横須賀ジャンパー」ってくらいで、スカジャンは知っていたよ。でも、まさか昔から桐生でスカジャンを作っていたとは! 2002年ぐらいに、横須賀のドブ板通り商店街でTシャツに刺繍を頼んだとき、ご主人が桐生出身だって話していたの。それを忘れて桐生に来て、テレビを見ていたら「桐生ジャンパー研究所」の松平博政さんというスカジャンのヴィンテージを集めている人が出ていて。驚いて名前をメモして、周りに「この人知ってる?」って聞いて紹介してもらって、それが始まり。
彼が家に来たとき、たまたまコートにしようと思った着物の丸帯が置いてあったの。そしたら「帯もスカジャンにできるよ」って。それで冗談で去年始めたら、今度会社を作ることになったの(笑)。桐生の若者と一緒に。帯とか箪笥の肥やしになっている着物を再生して新しいものに変える。歴史を新しい形で纏うってコンセプト。今年の秋あたりにちゃんとしたかたちで発表します。ははは(笑)。
——桐生と横須賀がじつはつながっていたり、ここでまた織物を学んでいたことがつながったり、石内さんの人生の一体感というか、点と点のつながり方はすごいなと思います。
そうじゃなくて、やっぱりボーッとしていちゃ何も見つからない。発見なんですよ。私はネットワークはそんなにないけど、パッとわかるときがあるの。その発見がすごく大きい。何も気が付かなかったらみんな素通り。素通りの人が多いの。私は素通りできなくて、気が付いちゃう。スカジャンもそう。
——気が付くだけじゃなくて行動してますもんね。
それは面白いから。「作ろう!」って。もう5着作ったよ。スカジャンのヴィンテージは、アメリカ兵のスーベニアだから。もともと刺繍は富士山や芸者さんや桜。それはひとつの戦後史なんだよね。自分で作ったのは撮らないけれど、ヴィンテージは写真に撮っているから、いずれ発表しますよ。
——最後に、以前石内さんはある場所で「身体を伴って生きることは大変なことのようにも思える。身体から規制される様々な価値と違和との折り合いをどのようにつけていくのか。いずれカタチ有るものは無くなる」(石内都「身体の悲しみ」『石内都写真集 Infinity∞ 身体のゆくえ』求龍堂、2009年所収)と述べられています。石内さんは身体があることで蓄積される時間を撮られてきたと思うんですけど、身体と時間、歳を重ねることについて、いま、思われていることをお聞きしたいです。
結局、美醜についての興味の問題なんですよね。何が美しくて、醜いか。私にとって、美しさはどこか裏返しに醜いものなのね。反対に、醜いものは美しいと思っていた。『1・9・4・7』の手足から身体を撮り始めて、いったい、美しさや若さって何だろうって思った。一般的な美しさは、若い女の子みたいに滑らかで何もない肌かもしれないけど、その美しいっていったいなんだろうってすごく疑問があった。
若さってひとつの瞬間でしかなくて、老いは瞬間が積み重なっていくもの。「美しい」と思った若い瞬間の点が積み重なって歳をとるなら、そっちのほうが絶対綺麗だなって思ったんだよね。私にとって美とはその美しさで、いわゆる一般的な美しさには興味がなかった。瞬間にもあまり興味がなかったけど、写真はその瞬間を永遠に近づける力を持っている。
私は生きているってこと自体、美しいとも醜いとも思わない。でも、生きているプロセスは大切。そこではつねに選択しているんだよね。間違いもあれば正しいこともあるけど、結果的には、自分を肯定するしかないんだよ。私は若いとき自分のことが大嫌いだったから、否定的にしか自分をとらえられなかったの。でも、写真はその真逆で、すべてを受け入れる土壌がないと撮れないと思ったんだよね。
あと、私は家族や他人の臨終をたくさん見ているんですよ。冷たくなって、動かない人を現実的に見て、自分もこうなるよなって思うし、死んだらつまんないと思う。だから、私、贅沢が苦手なんだけど、これからは贅沢とわがまましようかなって。それは大したことなくて、ただ自分がこうだと思うことは人がなんと言おうと意見を通すとか、そうしていこうと思っている。だからいまがいちばんですよ。若いときには戻りたくない。若い人にアドバイスするなら、「なんでもいいから好きなことやったほうがいい、間違ってもいいからやったほうがいい」ってこと。いじけることも恐れることもない。私もいっぱい挫折してるよ。
——いわば、挫折から始まった写真人生ですもんね。
そう。まったくその通り。本当に偶然ですよ。多分機材がなかったらやっていなかったと思う。このあいだたまたまその暗室道具をくれた人に会うことがあって、「まだ覚えてたの!?」って驚いてた。でも、そういう元を作った人は大切だし、そういうふうにして写真に出会えた発見と、相性があるんだよね。
それでいま、ようやく写真について真剣に学び始めているんだから。これまで写真の勉強なんてしたことなかったけど、最近始めたよ(笑)。それで、私のやり方はそんな間違ってなかったなって。というのも、写真ってまだ歴史が浅いから、いま歴史を作ってるんですよ。私もそのひとりかもしれないって何となくの自負はあって、それが、私が勝手に考えていままで発表してきたことなんだなって思うけどね。
石内都(いしうち・みやこ)
1947年群馬県桐生市生まれ、神奈川県横須賀市育ち。多摩美術大学中退。79年、女性の写真家として初めて「Apartment」で第4回木村伊兵衛写真賞を受賞。自身の母の遺品を撮影した「Mother's 2000-2005 未来の刻印」でヴェネチア・ビエンナーレ日本代表。2007年より継続する、被爆者の遺品を被写体とした「ひろしま」も国際的に評価され、2013年紫綬褒章受章。2014年にはハッセルブラッド国際写真賞を受賞。
杉原環樹
杉原環樹