公開日:2024年9月12日

【埴輪(はにわ)入門】2つの展覧会が今秋開催、専門家に聞く7つの疑問から”かわいい”だけじゃない真の姿に迫る

「ハニワと土偶の近代」(東京国立近代美術館)、「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展『はにわ』」(東京国立博物館)」と、埴輪に関するふたつの展覧会が今秋開催される。現在も人々を魅了し続ける「埴輪」について知りたい7つの疑問を、若狭徹・明治大学文学部教授に投げかけた。

埴輪 挂甲の武人 左から、国宝 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵、重要文化財 埴輪 挂甲の武人(部分) 群馬県太田市成塚町出土 古墳時代・6世紀 群馬・(公財)相川考古館蔵、埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市出土 古墳時代・6世紀 アメリカ・シアトル美術館蔵、埴輪 挂甲の武人 群馬県伊勢崎市安堀町出土 古墳時代・6世紀 千葉・国立歴史民俗博物館蔵、重要文化財 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市世良田町出土 古墳時代・6世紀 奈良・天理大学附属天理参考館蔵 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

この秋、東京では埴輪に関する2つの大規模な展覧会が開催される。

「ハニワと土偶の近代」東京国立近代美術館、10月1日〜12月22日)は、美術を中心に明治時代から現代にかけて登場した「出土モチーフ」の系譜を追うことで、埴輪や土器、土偶に向けられた視線の変遷を辿り、埴輪・土偶ブームの裏側を探る展覧会。もうひとつの「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展『はにわ』」東京国立博物館 平成館 特別展示室、10月16日~12月8日)では、「埴輪 挂甲の武人」の国宝指定50周年を記念し、全国各地から集結した約120件の展示品を通して、埴輪の魅力を伝える。東京国立博物館で埴輪展が開催されるのは、約半世紀ぶりだという。

およそ1500年前に作られた造形物である埴輪は、なぜ現在も人々の心を惹きつけるのか? そもそも私たちは埴輪のことをどれだけ知っているだろうか? ここでは埴輪を知るための7つの疑問を取り上げ、『埴輪—古代の証言者たち—』(角川ソフィア文庫、2022)、『埴輪は語る』(ちくま新書、2021)など、埴輪に関する多数の著書で知られる若狭徹・明治大学文学部教授に話を聞いた。

1. そもそも「埴輪」とは?

——一般的に埴輪は、「古墳に並んでいる焼き物」というふうに理解されているかと思いますが、決まった定義はあるのでしょうか。

まずいちばん大きな定義は「古墳に配列される焼き物」ですが、古墳でも3世紀中頃〜ほぼ6世紀終わりまでの前方後円墳が作られていた古墳時代のものに限定されます。古墳は飛鳥時代の7世紀まで作られ続けますが、7世紀には埴輪は立ちません。

種類としては、大きくは土管型の円筒埴輪と、何かをかたどった形象埴輪のふたつに分かれます。円筒埴輪は基本的には、外から来るものから聖域である古墳を守るバリケードのようなものです。形象埴輪は、古墳の被葬者が生前に行っていたことの顕彰や、権威を見せつけるという意味合いが強いので、お墓の展示品ですね。中国でも「俑」という同じような土人形がありますが、これは王のお墓の中に入れて埋められてしまうんです。来世の付き添い人のようなものです。埴輪はそれとは違って、人々に見せることが主眼になっています

築造時の前方後円墳の姿(保渡田八幡塚古墳) 撮影:若狭徹

2. 誰がどのように作っていた?

——大きい古墳だとかなりの数の埴輪が並べられていると思いますが、埴輪作りはどのように進められていたのでしょうか。

埴輪は古墳造りの一部ですが、古墳造りは結構長いサイクルで行われていたと考えています。たとえば前方後円墳は、承認を受けてから造るんですね。豪族が王の位に就くとヤマトに行き、ヤマトの大王との連合関係を確認したら、「前方後円墳を造って良いよ」と認められて、おそらく設計図をもらってきて、地元で造り始める。そこから長い時間をかけて古墳を築造し、その人が亡くなると埋葬するわけですが、棺を収めて石を張って、最後の仕上げで埴輪を立てます。なので、埴輪はおそらく被葬者が亡くなる直前か亡くなった直後頃に発注され、そこから一気に作っていったのだと考えられます。

円筒埴輪を1本1本見てみると、ものすごく急いでまとめて作られたような感じですごくラフなんです。古代は殯(もがり)と言って、亡くなってからすぐに死者を埋葬せず、色々なお祭りなどをする期間があるので、そのあいだに作ったのではないでしょうか。

継体大王の埴輪群像(大阪府今城塚古墳) 撮影:若狭徹

——どのような環境で作られていたのでしょうか。

埴輪は約350年間作られていて、とくに後半になると埴輪作りのシステムができ上がります。おそらく半農半工のようなかたちで、普段は農業をやっている職人がニーズがあると集められて、その工人たちが埴輪工房で大量生産する、というような流れです。

3世紀から4世紀は古墳造りと連動して、臨時的に窯を作って供給していましたが、5世紀頃になると大阪の百舌鳥・古市古墳群など、大古墳がたくさん造られて、円筒埴輪は1つの古墳で何万本も必要になってくるんですね。そうすると、常設の場所を設けるようになる。粘土がとれる丘陵から粘土をとり、そこに工房と窯を作って焼いて、船で運ぶ、といったシステムができ上がってきます。

3. 埴輪の様式はどう変わった?

——埴輪は時期によって様式が異なり、私たちが一般的にイメージする人物埴輪は最後に登場したそうですね。どのような変遷があったのでしょうか。

いちばん最初は、古墳を囲んだり墳頂部に置かれたりする円筒埴輪です。これは最初に出てきて、最後まで続いていきます。2番目の様式は、古墳の頂上、棺の真上に立てられた家形埴輪と、それを守るように置かれた道具の埴輪(器財埴輪)。この墳頂部の埴輪様式は4世紀から出てきて最後まで見られます。それに加えて、古墳の裾のほうに造り出しが作られ、そこに館の表現が置かれるのが4世紀後半から5世紀前半の第3様式。それが終わって古墳の外縁に人物を置いたのが、最後の5世紀から6世紀です。大きくは最初に円筒埴輪、次に家と器財が出てきて、最後に動物や人物、という流れですね。

ただ、動物のなかでも鶏や水鳥が先に登場したり、同じ器財でも船の埴輪は5世紀に限定されるなど、細かいところで違いはあります。また様式だけでなく、置かれる場所も時代によって変わります。

鹿形埴輪 静岡県浜松市辺田平1号墳出土 古墳時代・5世紀 静岡・浜松市市民ミュージアム浜北蔵 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

——東京国立博物館の特別展「はにわ」では、奈良県のメスリ山古墳から出土した重要文化財の円筒埴輪が展示されます。高さが2m以上ある、かなり大きな円筒埴輪ですね。厚さも2cmほどと薄く、高い技術力を窺わせます。

重要文化財 円筒埴輪 奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 古墳時代・4世紀 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

円筒埴輪は通常50cmくらいで、大きいものでも1m超なので、これはこの古墳にしかない特別なものですね。4世紀初頭の古い埴輪なのですが、薄くて上手に作られています。どの地域でもこのようにできたというわけではなく、ヤマトの土器作りの技術が高かったからだと思います。

——家形埴輪にも多様な建築様式が表現されています。これは被葬者の生前の住環境が再現されているのでしょうか。

古墳時代の豪族の館にあった様々な家が表現されているのは間違いないと思います。家形埴輪には、まず建物の階数が2階のものと平屋があります。それから屋根のかたちを見ると、短辺側を切り落としたような「切妻」、四方から真ん中に向けて勾配がある「寄棟」、寄棟の上に切妻を乗せた「入母屋」、屋根が片方に傾いている「片流れ」の4様式。さらに、窓が少なかったり、壁が全部透けていたりと、壁の開放状態もいくつか種類があります。

たとえば四方がすべて空いているような高殿は、王の儀礼を見せるような舞台や神楽殿のようなものだと思います。平屋建てで窓と扉があるものはおそらく居宅で、高床で窓が少ないものは蔵。このように階数と屋根のかたち、開放状態を組み合わせると、当時の王の館にあったいろいろな建物の機能を表しているものだとわかります

家形埴輪 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 古墳時代・6世紀 大阪・高槻市立今城塚古代歴史館蔵 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

——「はにわ」展で展示される今城塚古墳(大阪府)出土の家形埴輪は高さ170cmとこちらも巨大です。

今城塚古墳は6世紀前半に実在した継体天皇(大王)のお墓と考えられています。大王の居館の家を表現しているので、一際大きく作られているんです。これくらいの大きさになると窯に入らないので、2階建ての部分と屋根とでパーツごとに分けて作られます。窯の高さは1.5mほどしかないですから。

——そういった窯の跡地も見つかっているのでしょうか。

はい。今城塚古墳から1kmほどの場所から実際に埴輪窯跡が出てきて、10基ほどの窯が並んでいます。埴輪を焼いた場所に残されているものと、古墳から出土したものが合致するので、ここから運ばれたことは間違いないです。専用の窯を作って生産し、運んでいたんですね。

4. 埴輪の群像と人物埴輪は何を伝えている?

——人物を含む動物や家などの群像で置かれた埴輪は、一つの物語場面を構成しているそうですね。

人物埴輪が出てくる前、第3様式の頃は、古墳の裾に館の埴輪が作られていました。そこでいちばん重要なのが導水施設埴輪です。農業儀礼である水の祭りをするための施設を表した埴輪が、造り出しの部分に置かれていました。当時は人物埴輪は作られていませんが、その頃から埴輪によって館の中で王が農業儀礼を行っているイメージが喚起されていたんだと思います。

その後、人物埴輪が出てきたときに群像の中心に置かれるのが、その水の儀礼の場面です。王が巫女と対面して水を手渡されている。そこに鵜飼の儀礼やいのしし狩り、鹿狩りといった狩猟の儀礼、さらに軍事的な力を示す武装像、貴重であった馬の生産・所有など、様々なストーリーが足されていきます。絵巻物のように首長が生前行ったことを埴輪で表現し、それを見せることで共同体の人々を納得させるためのツールになっていたと考えられます。

馬形埴輪 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県蔵(三重県埋蔵文化財センター保管) 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

——鳥や馬などの動物埴輪も権威を補強する意味で置かれていたのですね。

そうだと思います。とくに馬は、弥生時代には日本にはいなくて、古墳時代になって生産されたので、馬の導入はたとえば蒸気機関の発明に匹敵するような動力革命なんです。そういったものを占有できる、もしくはヤマト王権から調達できるという経済力をアピールしている。満身に装飾品をまとった「盛装の男」という埴輪も出てきますが、おそらく舶来と思われる帽子を被り、最高級の織物を着て、きらびやかなジュエリーを身につけている姿が造形されています。これは交易活動によって様々な先端物資を入手できる経済人の姿ですね。

つまり、シャーマンとしての王、経済人としての王、軍事力を持った武人としての王といった生前の素晴らしい姿と、それを支える人々が表されているわけです。

重要文化財 埴輪 天冠をつけた男子 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 古墳時代・6世紀 福島県蔵(磐城高等学校保管) 写真:いわき市教育委員会提供 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

——「はにわ」展の目玉とされている国宝「挂甲の武人」も全身に鎧をまとっています。

この武人埴輪が着ている挂甲は、別名「小札甲」と言います。幅2cm、長さ5cmほどの小さな鉄板を1000枚以上組紐で結んだもので、ひとつ作るのに手間と時間がすごくかかるんです。つまり地方の王など、大きな前方後円墳に入るような限られた人にしか身につけられないものなので、この埴輪は王が武装した姿にほかならないということになります。

国宝 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

——そもそもなぜそれまでは人物の埴輪が作られず、5世紀前半から作られるようになったのでしょうか。

これは学問的に検証できないので想像になってしまいますが、作られてこなかったということはタブーだったのではないでしょうか。古墳時代の前半には「人は作らない」という約束があったのだと思います。

古墳は大王が変わるごとにモデルチェンジしていくのですが、埴輪も先ほど様式の変化をお話ししたように、少しずつオプションが加わっていきます。5世紀前半になってタブーが破られたわけですが、それが誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)や大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)といった日本最大の前方後円墳が造られた時期と重なるので、古墳築造がピークを迎え、最後のオプションとして、人物造形が解禁されたのではないかと思っています。

——人物埴輪には女性の埴輪も作られていますね。

人物埴輪の群像があれば必ず巫女がいるので、女性の埴輪は珍しくありません。王の機能としてシャーマンの機能がいちばん重要ですが、神の声を聞くときに巫女が必要になります。そしてそこには巫女に奉仕する人々もいるので、女性群は必ず存在します。

また、埴輪群像は基本的には男の王を中心に構成されますが、時々、女性がトップだったと思われる埴輪群像もあります。人物の序列は埴輪の大きさで示されるのですが、女性埴輪がいちばん大きい古墳も稀にあるので、女王もいたということになりますね。

埴輪 乳飲み児を抱く女子 茨城県ひたちなか市 大平古墳群出土 古墳時代・6世紀 茨城・ひたちなか市教育員会蔵(ひたちなか市埋蔵文化財調査センター保管) 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

5. 笑う埴輪は何を表している?

——笑っている埴輪は何を表現しているのでしょうか。

これは相手を見下した威圧の笑い、嘲笑いですね。埴輪の群像は柔和な表情の埴輪が多いですが、笑っていたり、目を見開いていたりする怖い顔のものは「盾持ち人埴輪」にほぼ限定されます。盾持ち人埴輪はさきほどお話したようなストーリーには加わらず、古墳の外側に立っているんです。なので人物埴輪というよりも、本来は盾形埴輪のように魔物を跳ね返す埴輪に顔をつけたバリケードのようなものですね。

——人間を表しているわけでもないということですか?

僕は人物埴輪から外して、器財埴輪のカテゴリーに入れています。ストーリーに加わらず、外を向いているので、盾なんですよね。それが異常な顔をしていて、その姿を見た魔物を怖気付いて帰らせるという機能を果たしているのでしょう。そのなかに怒りで跳ね返す怒った顔の一群と、笑って相手を見下し、心を折って帰らせるという笑った顔の一群がいる。なので、この笑いは邪悪な笑いということになります。

——よく知られている「踊る人々」の埴輪はとぼけた表情をしていますが、これも同じように人間を超えたような存在を表しているのでしょうか。

埴輪 踊る人々 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵 「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」出品作(会場:東京国立博物館)

これは踊っているわけではなく、馬引き人だと考えられます。片手を挙げて手綱を引き、馬の口取りをする姿です。腰紐を巻いており、腰紐からさらにロープのようなものを下げていますが、これが手綱の予備と思われます。本来は隣に馬形埴輪があり、その馬を引いているのだと思います。馬引き人は基本的にはランクの低い人なので、造形を省略して作られていて、このようなシンプルな姿になっているのでしょう。

6. 埴輪が作られなくなったのはなぜ?

——様々に様式を変化させて作られてきた埴輪は、6世紀終わり〜7世紀頃には姿を消します。なぜ作られなくなったのでしょうか。

埴輪は古墳の飾りとして立てられていたので、大きな古墳を作る時代が終わったことが要因です。関東では一部、7世紀まで残りますが、ほとんど6世紀の終わりでなくなってしまいます。

古墳時代の350年間、前方後円墳はヤマト王権を中心とした豪族の連合のシンボルでした。ヤマト王権は強権で豪族たちを抑えるのではなくゆるくまとまったネットワークだったのですが、6世紀後半になると朝鮮半島情勢や中国情勢が激化し、日本だけで平和にいられる時代ではなくなってくる。そこで、「このままでは日本はだめだ」と気づいた蘇我氏・厩戸皇子と、日本の神々を祀ってきた古い豪族の物部氏が対立し、崇仏論争が起きてきます。

蘇我氏らは物部氏を滅ぼし、仏教を正式に導入して、寺院を作ったり、隋や唐の国家体制に学んだりしながら文明化を進めていきますが、そのなかで前方後円墳はまさに古いもののシンボルです。だから蘇我氏が物部氏を葬り去ると同時に前方後円墳を終わらせるということをしたのだと私は思っています。そうすると古墳に並べるための埴輪も連動してなくなる。自然になくなっていったのではなく、政治改革をするなかで蘇我氏が終わらせたのだと私は考えています。

7. なぜ埴輪は現在まで人を惹きつけるのか?

——今回、東京国立近代美術館で行われる「ハニワと土偶の近代」は、埴輪や土偶などのモチーフを取り入れた近代の美術を通して、埴輪や土偶ブームの裏側を探る展覧会です。埴輪は現在も根強い人気がありますが、なぜ埴輪の造形がいまも人の心を掴むのだと思いますか?

NHK教育番組「おーい!はに丸」1983-1989年放送 左から、ひんべえ、はに丸 1983 劇団カッパ座蔵 「ハニワと土偶の近代」出品作(会場:東京国立近代美術館)

やはり人物造形だからではないでしょうか。考古資料のなかで人気No.1、No.2は土偶と埴輪ですよね。土偶も人物造形ですが、非常に抽象化されていますし、基本的には女性像で子供がたくさん生まれるように、というおまじないの道具だと考えられます。埴輪は呪術的にデフォルメされておらず、より我々に近い姿をしているから惹かれるのかなと思います。

仏像も人の造形ではありますが、宗教的な存在で、人間ではないですよね。だけど埴輪は人なんです。そこから当時の王や巫女、人々の息遣いや生活感が感じられる。太古のものだけど、我々と同じような生活や社会を推測できるという身近さが人気の理由なのではないでしょうか。

斎藤清 ハニワ 1953 福島県立美術館蔵 © Hisako Watanabe 「ハニワと土偶の近代」出品作(会場:東京国立近代美術館)

——『埴輪は語る』のあとがきで、「カワイイの次にくる歴史理解に誘うことが私たち考古学者や学芸員のうつ次の一手である」と書かれていたのが印象的でした。現在の埴輪の受容のされ方はどのように見ていますか?

入り口としては、かわいいでも、ポップでも良いし、キャラクター化されていても全然良いと思います。それを入り口に、歴史のなかの埴輪の存在を学ぶということに一歩踏み込んでいただけたら良いなと思いますね。今回の展覧会などがそのためのツールになればありがたいですし、その背景には明治時代から積み上げられた学術的な研究があるということがわかってもらえたら嬉しいです。

——ありがとうございました。

若狭徹
1962年、長野県生まれ、群馬県で育つ。日本考古学(主に古墳時代)。明治大学文学部史学地理学科考古学専攻卒業。高崎市教育委員会文化財保護課課長を経て、明治大学文学部教授。博士(史学)。藤森栄一賞、濱田青陵賞、古代歴史文化賞優秀作品賞を受賞。著書に、『もっと知りたいはにわの世界』(東京美術)、『東国から読み解く古墳時代』『前方後円墳と東国社会』『古墳時代東国の地域経営』(いずれも吉川弘文館)、『ビジュアル版 古墳時代ガイドブック』(新泉社)、『埴輪は語る』(ちくま新書)ほかがある。

後藤美波

後藤美波

「Tokyo Art Beat」編集部所属。ライター・編集者。