前回の記事では、世紀転換期におけるレズビアンをはじめとするバイセクシュアルやパンセクシュアルといった女性同性愛の表象を描いた作家たちを紹介してきた。
マリー・ローランサンとロメイン・ブルックスによるセクシュアリティの表現、アンリ・トゥールーズ=ロートレックやジャンヌ・マメンによるレズビアン・カルチャーの表象、ゲルダ・ヴィーグナーのエロティカに見えるレズビアンと視線の問題。
それらの表現と課題は、プライド・マンスの出発点でもあるストーン・ウォール・イン反乱のあとに現れた作家による表現や、レズビアンやバイセクシュアル、パンセクシャルの人々の置かれる状況のなかにも現れている。
ミカリーン・トーマス(1971〜)によるコラージュ作品《Sleep: Deux Femmes Noires》(2012)はギュスターヴ・クールベによる《眠り(Le Sommeil)》(1866)を引用し、それを黒人によって描きなおすことで美術史のなかで不在とされてきたものを表しつつ、不在としてきたことを指摘するような作品だ。
いくつかエディションがあるものの、どの作品も中央にクールベの作品の構図そのままにふたりの黒人女性が眠り、背景には鮮烈な色の地塗りの上に風景写真がコラージュされている。元の絵では室内だった背景が屋外となることで、ふたりの女性の生き生きとした強さがここでは示される。
この作品が初展示された個展「Origin of the Universe」ではクールべの作品のほかにもモネをはじめとする古典作家のパロディが多数、展示されていた。美術史の文脈は、現代において作品を制作する作家にとって決して無縁なものではないのだ。
アメリカの作家、ミリー・ウィルソン(1948〜)も美術史を用いつつ、美術史が覆い隠してきたレズビアンの存在を明らかにしようとした作家だ。
ウィルソンによる1989年のインスタレーション《Fauve Semblant:Peter (A Young English Painter)》は架空のレズビアンの画家ピーターの回顧展というかたちで展示された。ロメイン・ブルックスの人生や作品を参照したこの作品では、ピーターの作品やピーターも所持していた小物が展示されており、レズビアンの画家が美術史のなかでいかに扱われ、美術館がいかに権威的な物語を生成していくかを、架空の作家の展示を通して語る。
レズビアンの表象や作家を現代から考えるということは、必然的に美術史というジャンルの制度そのものを考え直すことにもつながる。
時にこのような考え直しは、フェミニズム美術史のようなセクシュアル・マイノリティと親和性が高く思える美術史を問い直すことにもなる。
この観点から再評価が必要なのは、前回の記事でも触れたマリー・ローランサンだ。ローランサンの作品やローランサン自身はフェミニズム美術史のなかで激しい批判を受けてきており、それは時にホモフォビックな言説にもなっていた。
日本におけるフェミニズム美術史の草分けとして、イメージ&ジェンダー研究会の創設に携わり、レズビアンのアーティストであるイトー・ターリを支援した若桑みどりも、《女性画家列伝》(1985、岩波書店)のなかでは残念ながらこうした言葉を残している。
そこでは、ローランサンによるフェミニニティが、女性性を内面化した弱々しい絵であると批判を受ける。たしかに、ローランサンの残した言葉は決してフェミニズムに沿うようなものではない。いっぽうでこうした批判は、ローランサンによるフェミニニティによる女性同性愛的な表現を切り捨てる。
作品は過去のものであっても、その評価は現代のものだ。ローランサンに対するこうした批判は、レズビアンをめぐるブッチとフェムの議論を思わせる。ブッチもフェムもレズビアン・カルチャーの用語で、ブッチはマスキュリンなスタイルをとる人々を指し、フェムはフェミニンなスタイルの人々を指す。彼女たちのカルチャーは時に異性愛の模倣であり再生産であるとして批判を受け、また特にフェムたちは異性愛女性のなかに埋め込まれその存在を認知されにくい。
ローランサンの作品を現代のクィアとして、フェミニストとして読み解くときには、こうした文脈から美術史ごと読み直す必要があるだろう。
ブッチやフェムといったアイデンティティは、現代の作家たちが取り組んでいるテーマでもある。
トニ・ラトゥール(1975〜)による《The Femme Project》(2010)はクィアなフェムであると自認する女性たちのバストアップと全身のポートレイトと、彼女たちのインタビュー音声から構成されている。
自身もクィアなフェムであるとプロフィールに記載するラトゥールによるこのプロジェクトは、ヘテロの世界でもクィアの世界でもその存在が隠されがちなフェムというアイデンティティを打ち出していく。
ラトゥールの作品が示すのは、フェムのクィアたちが決して一様ではないことだ。様々な属性のフェムたちがいるのはもちろん、現れるフェム性も無数の像がある。多数のフェムたちがクィアなフェムであると語るとき、異性愛的な欲望のなかにあるのではない女性性が開かれ、女性性とされるものの在り方自体が変化していく。
フェムの探求はまた女性と自認する人々の存在自体も極めて幅広いものであることも、改めて思い出させてくれる。私はそのことにどこかホッとする。
いっぽうでブッチのアイデンティティを追求していたのがG.B.ジョーンズ(1965〜)だ。彼女は80年代後半のクィア・コアと呼ばれるパンクにおけるクィアムーブメントのなかで活躍した作家で、J.D.sというZineに多数のレズビアンを描いた作品を寄稿していた。ジョーンズによってモノクロの絵のなかに表されたレズビアンたちは、警官であったりバイカーであったり、極めて誇張されたマニッシュな姿で描かれることが多い。
ゲイ・アイコンとしても知られる画家のトム・オブ・フィンランドを思わせるジョーンズの作品は、男性のゲイ・カルチャーを引用しながらそれを女性たちが演じることで、ブッチなレズビアンの規範に抗うアイデンティティを表現している。異なるジェンダー規範を女性が演じることでレズビアンのアイデンティティを表現する点で彼女の作品は、世紀転換期にダンディズムによってレズビアン性を表現したロメイン・ブルックスの作品を思わせもする。
かつてジャンヌ・マメンがそうしたように、いまもレズビアン・コミュニティを記録するような作品を制作する作家はいる。
そのなかでも私がここで取り上げたいのはルイーズ・フィッシュマン(1939〜2021)による《Angry》(1973)シリーズだ。キャンパスに複数の色の絵具でAngry(怒り)という言葉とともに名前を書き殴ったようなこの抽象絵画は、一見したところコミュニティと関連する絵には見えないかもしれない。
しかしルイーズの作品は紛れもなく、当時のレズビアンたちのコミュニティや運動を記録し、その政治性を示している。ここで書かれた人名は、当時のフェミニズム運動やレズビアン運動に関わったルイーズの友人たちの名前であり、名前とともに描かれるAngryの文字は、彼女たちの政治運動の持つ怒りのパワーを露わにする。
ルイーズの《Angry》は現代的なコミュニティの在り方とその記録の仕方を提示する。
前回の記事ではエロティックな表現とポルノグラフィの関係に触れたが、その現代美術におけるアプローチとしてKiss and Tellコレクティヴによるインスタレーション《Drawing the Line》(1990)をあげたい。
このインスタレーションは、レズビアンによって撮影された女性のエロティックな写真群を壁に並べ、女性の観客にそれがどこで不快と感じるものになったかを線引きさせるものだった。
緊縛のようなSM的イメージも含むこの作品は、フェミニズムとレズビアンの運動のなかで起きていたセックスの規範をめぐる議論を念頭に置いたものであり、それに対する問いかけでもあった。
SMは異性愛規範を再生産するものなのだろうか? レズビアンの女性を欲望する視線は社会のなかでどう語り得るのだろうか?
実際には観客たちは線を引くことよりも、言葉を書くことを選んだ。当時の展示の記録写真を見ると、壁一面を埋め尽くす大量の文章の群れに圧倒される。Niceのような単語が大きく書かれたものもいくつかあるが、そのほとんどは細かい字で意見を書いたものだった。
もちろん、ここで提示されるような視線は誰かに定量的にジャッジされるようなものではない。ポルノグラフィへの規制で真っ先に潰されるのが、クィアな人々のものであることはこれまでにも指摘されてきた。
しかしKiss and Tellによるこの作品はまさにその計りがたさを観客とともに語り、女性の女性に対する視線の存在を主張する。
またイトー・ターリ(1951〜2021)のカミングアウトとレズビアンアイデンティティの表現と政治性を忘れてはならないだろう。
世紀転換期において、レズビアンは視覚的な肖像として表されてきたが、現代においてそれはアイデンティティであり、むしろ抽象的なかたちで示される。
イトーはパフォーマンス《自画像》(1996)のなかでレズビアンとしてのカミングアウトを行う。パフォーマンスの後半で、イトーは自らに「あなたは誰ですか?」と問いかけ続け、ついに最後に「私は女性を愛する」と答える。
イトーはこの一連の問いかけのなかで「私は日本人です」など自分の属性を次々に答えてもいた。そこには、アイデンティティの問いかけから始まるひとつのアイデンティティの意図的な自認と、それを強いる社会への意識が、様々なアイデンティティにまつわる政治へと開かれていく可能性がある。イトーはその後も様々な差別と政治に関するイシューを扱った作品を作っていく。
レズビアンをはじめ、女性と恋愛する女性たちの存在は、女性への差別と同性愛の差別という多重する抑圧の下に置かれている。そしてバイセクシュアルや人種的マイノリティ、トランスジェンダーといった人々は、そのなかでさらなる抑圧と存在の隠蔽に晒される。
それは美術の世界でも変わらないし、ともすればより過酷なものであるのかもしれない。そこではマイノリティが文字通り不可視化され、多くの場合、可視化する権力は一部に集中せざるを得ない。
しかしながら、彼女たちと、彼女たちを描いた作品が不可視化されるからと言って、それらが存在していない、ということは決してない。
たとえ美術史のメインストリームから隠蔽されようと、女性を愛する女性の存在はあり続け、また作品を通して語り継がれていく。美術の制度が作り出す美術の語りが、自分と近しい人々や作品と出会いたいと願う鑑賞者を阻害しても、作品と存在自体はそこにあり続けている。
残念ながら、2023年のプライド・マンスはとても苦しいものだと私は思う。トランスやレズビアンをはじめセクシュアル・マイノリティへのヘイトと暴力が立て続けに起きた。日本の入管法の改悪は強行され、LGBTへの差別的な法が立案され、暴力は隠匿される。
この日々にあって私はあまりポジティブな言葉を持てない。正直なところ日々、生きることの困難さを実感させられてそれだけで精一杯だ。
私がここで紹介してきたのは、美術という狭い世界に対する美術という形式に立脚したプロテストの群れでもあったと思う。しかしそれは、同時に幅広い社会へのプロテストでもある。そしてまた美術という特定の制度に対するプロテストは、狭いがゆえに具体的なプロテストのモデルケースともいえるだろう。様々なプロテストの在り方が、“プライド”なのだと私は思う。
*前編はこちら
近藤銀河
近藤銀河