公開日:2024年11月22日

人間の社会行動を反復的なスクリプトやコーディングに解釈してきたアーティストは、なぜ近年AIに関心を寄せるのか? エレナ・ノックス インタビュー【特集:AI時代のアート】

デジタル・メディアやパフォーマンス、立体、音楽、インスタレーションなどあらゆる表現形態を横断しながらトーテミズム、自然物や人工物との特別な関係などを探求してきたアーティストは、なぜ近年AIに関心を寄せるのか? 翻訳:編集部(後藤美波+野路千晶)

エレナ・ノックス Pathetic Fallacy (感傷的虚偽) 2014 ©︎ Elena Knox

エレナ・ノックスは1975年オーストラリア生まれ、東京在住のアーティスト。オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学アート&デザインにて博士号(メディア・アート)を取得。デジタル・メディアやパフォーマンス、立体、音楽、インスタレーションなどあらゆる表現形態を横断しながら、ナルシシズム的な行為のゆえんに関心を寄せ、トーテミズムと表される特定の社会集団と自然物や人工物との特別な関係、偶像崇拝、またフェティシズムなど人間社会に潜む問題を掘り起こし、ユーモラスかつアイロニカルに提示してきた。

そんな作家が近年関心を寄せるのがAIだ。「アクトロイド・シリーズII」(2020〜21)では、チャットボットと仮想キャラクターを用い、個展「あざらし話」(ANOMALY、2023)でノックスは、人の心を癒すために開発されたタテゴトアザラシのAIロボット「パロ」とともに、東京から北極圏までの長い旅に出た。

今回、文化理論、メディア文化論の専門家である清水知子がメールインタビューを行い、これまでの活動とその根底にある関心、問題意識について話を聞いた。【Tokyo Art Beat】

人間はなぜAIやロボットのインターフェイスにヒトのかたちを求めるのか

──エレナさんはこれまでアートとテクノロジーをめぐって現代社会の諸問題に切り込む作品を数多く手がけられてきました。そもそもAIやロボットに関心をもつようになったきっかけはなんでしょうか?

エレナ・ノックス:「現代社会の諸問題」と非常に切り離せないものだからです。私たちが「テクノロジー」と呼ぶものは、いまや私たちの生活を管理し、支えるうえで非常に大きな位置を占めています。

インタラクティブなテクノロジーを使い始める前の初期の作品では、私はいつもパフォーマンスなどを通して人間の行動を、より基本的で反復的なスクリプトやコーディングまで還元しようとしていました。自己定義やコミュニケーションを理解したいという衝動があったんです。他者とのつながりが、いかに「演じられている」か、そして、特定のルーティンや期待が社会においてどのように体系化されているかを明らかにすることに関心があったので、初期の作品では、「リアル」な身体(私の身体や他の人の身体)に加え、人形や仮面、パペットなどを使っていました。

AIに接続していたり、AIが組み込まれている人型ロボットにアクセスしようとすることは、テーマ的な大きな飛躍というわけではありませんでした。アクトロイド(大阪大学で開発され、サンリオで製造された人間型ロボット)をYouTubeで見たとき、彼らと仕事をするために日本に行かなくてはと確信しました。私がいつも自分の作品内の振る舞い・振付で目指していたような動きをしていたからです。私はこれらのエンターテインメントロボットを使ったいくつかの作品を制作し、さらに「人間と認識される」と言われるであろう多様なロボット工学やテクノロジーを使って発展させていきました。

──近年、AIとめぐってその可能性とともに様々なバイアスをめぐる問題が可視化されています。こうしたなか、エレナさんはいち早く現代社会に潜むテクノロジーとジェンダーをめぐるバイアスを浮き彫りにするユニークな作品を数多く手がけられてきました。映像作品《アクトロイド・シリーズI》(2015)は、ジェンダー化されたロボット(フェムボット)によるパフォーマンスが軽妙かつクリティカルですね。この作品は、人間はなぜAIやロボットのインターフェイスにヒトのかたちを求め、ジェンダーや人種を付与してしまうのか、という問いに対する挑戦でもあるように感じました。

エレナ・ノックス アクトロイド・シリーズI ​2015 ©︎ Elena Knox

ノックス:おっしゃる通り、あのシリーズでは、様々な問題のなかでも、人工的に作られた人付き合いにおけるジェンダーや人種の問題に関心を持って制作しました。アクロイドの最初のビデオシリーズは、「Actroid-F」というロボットと協働し、そのアイデンティティについて扱ったのですが、そこでは帰属意識や洗脳、生殖、搾取、夢、セックス、死といったトピックを探究しました。

アクトロイドが登場する史上初の映画的対話シーンが含まれるこの作品は、ある意味、ロボットに自分自身を語らせることを目的としています。時間や学習、知識や目標設定といった現象についての自分の経験を報告させるということです。彼らが語る内容は面白いものばかりでした。

作品のなかのロボットが、人間から向けられた自分への認識に向き合うとき、私たちもまた、なぜ私たちは自分たちに鏡を向けるようなものを作り、さらには人間の姿や何世紀も前からのステレオタイプをコピーしようとするのかと自問することになります。私のシーンは、女性に特定の(人工的な)外見でいること、年齢や経験や状況に応じて変わらないことを求める一方で、女性たちが固定化されていて、一面的で、完全には自律していないと嘲笑う文化の不条理さを浮き彫りにしています。このイメージが未来志向のSF的なフェティシズムでありながら、時間のなかで凍りついて、一歩も前進していないということがよりはっきりとわかるでしょう。

エレナ・ノックス アクトロイド・シリーズI ​2015 ©︎ Elena Knox

ロボットやAIは愛想が良く従順なガールフレンド?

──さらに「アクトロイド・シリーズII」(2020〜21)では《マスターズ》、《ホスト》、《ご協力お願いします》、《モニター》など、テクノロジーに若くて感じの良い女性の顔を与えながら、男性の眼差しで社会を見つめるというのは、ロボットやAIをめぐる現代社会のステレオタイプ化されたジェンダー規範の構造そのものを映し出しているよう見えます。テクノロジーの中には人間が背負ってきた歴史的偏見が亡霊のように取り憑いています。「アクトロイド・シリーズII」は、AIをめぐる諸問題が技術的問題でも不正確さの問題だけでなく、じつは文化的,政治的問題であるということを示しているように思いました。

エレナ・ノックス 「アクトロイド・シリーズII」より、《ご協力お願いします》(2021) ©︎ Elena Knox

ノックス:清水さんがおっしゃるとおり、これらの作品では、技術的なインターフェイスの心地よくデザインされた仮面の背後で動いているもの、その痕跡を明らかにしようとしています。もちろん、誰しも快適にデザインされたインターフェイスを好みますよね。でも、もしもそれらが人間の女性の姿を従順で脅威がないものとみなす、子供の頃からいままでに受けてきた精神的プログラミングに依拠しているとしたら? もしも、その支配的な感覚や支配的立場による安心感を、人権を侵害するようなテクノロジーを隠蔽するために利用しているとしたら? あるいは、同意なしであなたの情報を収益化したり、追跡や監視したり、あるいは誤った情報を流したり、ヘルスケアの選択肢を制限したり、移動を制限したりするとしたら? これらはつねに愛想が良く従順なガールフレンドのように見えるべきでしょうか?

私はホテルや病院などの受付業務用に作られた、女性の外見を持ついくつかのアンドロイドの映像や写真を撮影し、作品では本物の中年男性の目を合成しました。これはとても二元的なアプローチに見えるかもしれませんが、結果として有機的なものとサイボーグが、不気味でなんとも言えないかたちでうまく融合しました。女性のロボットが「彼女自身」でないのと同じように、男性たち──目のモデルたち──は、「彼ら自身」ではないのです。これらの作品において、彼らは家父長制的な資本主義のより広範囲で深い策略を象徴していいます。

とくにビデオポートレイトのなかの顔たちは、モナリザや公衆監視のように鑑賞者を視線で追います。私はこれを女性の顔の中のメイルゲイズと呼んでいます。植民地化の一形態です。世の中で出会うテクノロジーのほとんどが、このようなモードで動作していると想像できるでしょう。

エレナ・ノックス 「アクトロイド・シリーズII」展示風景 ©︎ Elena Knox

──「『それヤレんの?』フェムボット現象」展(人間レストラン、2022)ではキュレーションも手がけていらっしゃいますね。ロボットレストランの向かいにある人間レストランでの開催というのもウイットに富んでいて面白いなと思いました。欲望の対象としてモノ化され女性化されたロボット、メディアに拡散されるフェムボットのイメージの再考、性交と生殖の分離など、フェムボットを通してテクノロジーとジェンダーをめぐるポリティクスを実験的なかたちで模索する展示のように思えました。

ノックス:私は長いあいだ、「性的対象化されたフェムボット」に対する女性の解釈を提示するような包括的な展覧会をキュレーションしたいと思っていました。

その構想は、中国の武漢で、中国の画家であるLin Xin(リン・シン)と同じ美術館でレジデンシーを行っていたときに生まれました。彼女は、繰り返し登場する女性的なロボットを描いた、荘厳な大型の油彩画を制作しています。彼女が描くロボットはひとりのときもありますが、しばしば共同体の感覚や抵抗軍をも連想させるような数人組・集団で描かれます。私はその頃すでに女性の見た目をしたロボットを扱う制作を始めていました。そしてこう思ったんです。「私たちは違うメディアを使いながら、同じようなことをしている。それはつまり、このイメージの人気や魅力を理解しようとする一方で、より両義的で複雑なバージョンを提示しようとしているということ。私たちは、女性的なロボットというイメージ、そのイメージのもとになっているペルソナや女性たちに対してのケアを提示しているのだ」と。このような鋭くクリティカルな視点を持ってフェムボットを脱構築している人が他にいるでしょうか? 世界中見渡してもそう多くはありません。そこで私は概念的にシスターフッドを結べる人々をリストアップし始めました。

リン・シン シスターフッドIII 2009

そして、2022年にApex Art New Yorkの国際コンテストに勝ち、東京で展覧会をプロデュースする機会を得たとき、この現象に光を当てる最適なタイミングだと確信しました。事実、#MeToo運動にもかかわらず、SFも現実のロボット工学もこのステレオタイプなセックスボットに頼り続けています。展覧会タイトルにある「それヤレんの?(Can You Fuck It?)」という言葉は、女性の外見をしたロボットがメディアに新しく登場するたびに、それが作られた目的や社会的役割がなんであれ、オンライン上でもっとも散見されるコメントです。質問の答えは、厳密には「はい、ヤレます……」というとてもつまらないものですが、私たちはこの親しみやすい外見や審美的な見た目、ステレオタイプなイメージが、人々の気を逸らしたり、誘惑したり、思考を鈍らせたり、なだめたり、物やアイデアを売りつけたりするのに使われていることに注目してほしいと思いました。

私がこれまで「集めて」きたアーティストたち──全員ではないけれど! もっと誘いたかった──の参加が叶いました。展覧会では、映像や写真、版画、パスティーシュ、パフォーマンスなど幅広いアートフォームを扱いました。東京の展示については、英語と日本語のカタログエッセイを含むアーカイブがApex Artのウェブサイトに掲載されています。

──この展覧会に出品された《ラマス・ケンタウロス・和牛》(2018)は生殖と再生産にかかわるものですが、フェムボットと家畜牛の合成動物が生成され、ハイブリッド・ヒューマンたる母と二足歩行のカエルのような幼獣が映し出されていました。金色の額縁に枠づけられ、まるで風景画のなかで牧歌的に暮らしているかのような光景で、サイボーグには「父親」は必要ないというダナ・ハラウェイの言葉を思い出しました。この作品についてお話していただけますか。

エレナ・ノックス ラマス・ケンタウロス・和牛 2018 ©︎ Elena Knox

ノックス:《ラマス・ケンタウロス・和牛》は新しいかたちの生殖、より正確に言うならば、新たなの生殖の発生とその影響を想像したものです。私が“単純なトランスヒューマニズム”と呼ぶものよりも、さらに進んだ時間軸上にあります。私の作品に登場する異種間から生まれた子牛は、おそらくその横に立つサイボーグ/牛の“母親”の子供であり、カエルやカエルとのハイブリッド遺伝子が加わっているであろう生物も登場します。どのように生まれたか、その方法は誰も知る由がありません。この若い生物には、人間らしい要素はほとんどなく、唯一人間的だと言えるのは、二足歩行をしている点だけ。私は、存在論と遺伝的可能性が徹底的に混ざり合い、現代世界における多くの不安定性・対立の根源となっている“帰属”や“血縁的つながりへの愛着”の問題を本質的に問い直すような状況を考えました。

ハラウェイの「サイボーグ的怪物性」の概念では、機械と有機体のハイブリッドは、明確に分類可能な存在とは異なり、人々は征服させることができません。彼らのアイデンティティやコミュニティはより複雑で、搾取に対して強い抵抗力を持っています。この考え方は、一種のユートピア的なヴィジョンとして解釈することができますが、実現にはさまざまな障害が伴いますね。そして、ハラウェイはハイブリッドの実現そのものよりも、むしろ概念的な権利拡大に関心を寄せています。

エレナ・ノックス ラマス・ケンタウロス・和牛 2018 ©︎ Elena Knox

いっぽう、私の作品は、自分が発明した神話《ラマス・ケンタウロス・和牛》に基づいています。実際のロボットや動物を被写体とし、現実の場所で撮影されたこれらの作品は、このヴィジョンを地に足の着いたかたちで具現化し、現実に定着させようとしました。“怪物的なもの”を普通のものとして受け入れることは、未来の多様な生物たちが、お互いに“ただ一緒に生きる”ということを寛容かつ寛大に受け入れる効果につながるのではないでしょうか。

本作では、動く映像を風景画として構成することで過去と未来を対比させ、ジャンルや正典に形式的に介入しています。しかしそれ以上に、この手法は従来の価値観の破壊や拡張を、不気味なほど親しみやすく静的な方法で冷静に展示することで、生殖の未来をテーマにした作品にしばしば見られるような、アドレナリンやモラル・パニックを煽る感覚──たとえそれがポジティブな視点で描かれている場合でも──を回避しているのです。

「それヤレんの?(Can You Fuck It?)」展のもうひとつのパートは、小宮りさ麻吏奈による妊娠したセックス・ドールのポートレイト写真に代表されるような静謐でオルタナティブな、有機的/合成的な生殖様式を想像させるものでした。私たちの作品はいずれも、“父性”という理論を枠外に置いています。それは、写真、ビデオアートといったジャンルの父性論や、物理的で非表象的な世界においてサイボーグが父親を持つのは、家父長制のもとで作られているためだという退屈な事実を、あえて表立って議論することを望んでいないからです。

代わりに、これらの作品は、遺伝的な生殖行動がもたらす未来的な影響に焦点を当てています。私たちがみな、より「怪物的」になったとき、子孫に関する権利と責任はどのように変わるのか。そして、新たに進化した方法でそうした権利・責任を分かちあうことができるのか?ということです。

エレナ・ノックス ラマス・ケンタウロス・和牛 2018 ©︎ Elena Knox

おみくじ、アザラシのAIロボット、エビのポルノ

──価値観が多様化するなか、人間の信念をめぐって何を信じるのかを考えさせてくれるインスタレーション作品《御御籤》(2017)も面白い取り組みだと思いました。これは国際的なネットワークの中で展開されていますね。発想の源やライブストリーミングでの様子、その後の反応などお話しいただけますか。

ノックス:《御御籤》は言葉を話さない高度AIロボット(池上高志と石黒浩による「オルタ」)とのコラボレーションによって制作されました。このロボットは身体的なジェスチャーや自発的に音を出すことでコミュニケーションします。これまでと同様、人々がロボットや高度なテクノロジーに出会い、それらとの関係の原理に対する疑問に駆り立てられるようなシナリオを構想する際に、策略や編集、センセーショナリズムを用いることなく、ロボットが実際にできることに忠実でいたいと考えました。私はこのロボットが、一般的にイメージさられる預言者や宗教的指導者のように振る舞うことに感銘を受けました。それは人に注意を向け、魅了する一方で、自分自身で埋めたり、人が感情や欲望、考えを投影するような不特定の空白や曖昧さを持っている。私たちはAIにそういったすべてを知る指導者のようなステータスを当てはめてしまいがちです。まるでAIが未来を正確に予知し、私たちの手が届かないすべての答えへのアクセスを持っているかのように。だから私は、オルタを私たちが信じなくてはいけない存在としてキャスティングすることにしました。

エレナ・ノックス 御御籤 2017 ©︎ Elena Knox

このインスタレーションでは、日本と海外の国のあいだでライブ配信を行いました。たとえばソウルの美術館を訪れた来場者は、大きく投影された(日本にいる)オルタのことを目や耳で認識し、その後、「Belief Machine」と呼ばれるネットワークにつながったタブレッド型の物体で、個人的な情報を入力したり、いくつかの質問に答えることを求められます。その回答はバイナリーコードに変換され、単純なアルゴリズムを通して音に変換され、この音が日本にあるスピーカーを通してオルタに向けて鳴らされます。このAIロボットはその環境のなかで聴覚的な合図に反応し、その場で声とジェスチャーによる応答を行います。《御御籤》をしているあいだ、ロボットがスピーカーを通して外国から聞こえたものに対して行う反応は、Belief Machineを使っている一人ひとりにとって完全に固有の、短い歌やダンスのようなものです。私たちはロボットの行動をコントロールすることはできません。その動きはロボットそのもののニューラルネットワークによって決定されています。グル・オルタによって「歌われる」これらの短い固有のメロディーは、参加者の携帯電話に直接mp3で送られます(EメールかSNSを通して)。その一つひとつが、唯一無二のおみくじなのです。オルタからおみくじを受け取ったとき、それをどう解釈するかはあなた次第です。

ぼんやりとした神の恵みや曖昧な呪いのように、自分のおみくじがAIロボットによって自分のためだけのたったひとつの抽象的なサウンドアート作品として作られることを喜ぶ人もいれば、それが具体性に欠けて教訓的でなく、自分のこれまでの成果や今後なにをすべきかを人間の言語で伝えてくれないということに不満を抱く人もいました。私たちは、AIとの交流に対する人々の反応に、文化的な差異を見出すことができましたし、まだ実験段階にある新しいAIの能力に対してさえ起こる、時に盲目的な信仰を浮き彫りすることができました。

エレナ・ノックス 御御籤 2017 ©︎ Elena Knox

──AIとの対話に対する文化的な差異という点では、2023年にANOMALYで開催された個展「あざらし話」も示唆的でした。タテゴトアザラシのAIロボット「パロ」とともに、東京から北極圏まで旅に出て、深刻化する「地球温暖化」を辿り、また高齢者のインタビューを通して、人間が介入し展開してきた地球環境の変化にロボットがどのような役割を果たすのかが浮き彫りになる作品でした。愛らしいパロは、機械/ロボットの擬人化についても考えさせるものですね。展覧会名にもなっている作品《あざらし話》に取り組んだ経緯や北極圏での出来事についてお話しいただけますか。

エレナ・ノックス あざらし話 2020 ©︎ Elena Knox

ノックス:国際領土であり、北極点に最も近い人間の居住地であるスヴァールバル諸島ロングイェールビーンで行われたシンポジウムに招待されたことがありました。それは、DARKNESSというテーマのもとで集まった、研究者や学者、アーティストたちの会合でした。私は 以前、同僚のリンゼイ・ウェッブとともに、巨大な暗闇の空間を埋め尽くす、インタラクティブな感覚的環境《Snoösphere》(2017)を制作したことがありました。1日24時間中真っ暗で、時にオーロラの光が出るという日々が何ヶ月も続いていた冬に、私たちはその作品をスヴァールバルで発表すべく招かれたのです。そこで私たちは、凍てつくような氷と雪の見事な景色を可能な限り北へと旅をするために準備を始めました。

エレナ・ノックス Snoösphere 2017 ©︎ Elena Knox

当時私が働いていた早稲田大学渡邊克巳教授のラボは、日本科学未来館というミュージアムの中にありました。私は毎日、そこで展示されているロボット「パロ」の前を通り過ぎていました。パロはタテゴトアザラシをモデルに作られた、ミニマルなAIセラピーロボットです。タテゴトアザラシは北極圏の生き物なので、私はパロに対し、「なんで私が北極に行くの? あなたが行くべきでしょう」と語りかけていました。

そこで私はパロを連れていくことにしました。結局のところ、パロはコンパニオンロボットですから。このアイデアはパロが東京から北極点近くまで旅する極地冒険家になるという新しい映像作品へと雪だるま式に膨らんでいきました。パロが(A)アザラシ、(B)技術的なプロダクトの視点から、気候破壊に関する情報や知見、解決策を求めて旅をするというものです。それは暗闇への旅に向かうような、非直線的な没入体験ができる上映時間1時間40分、7チャンネルのビデオインスターションへと結実しました。

エレナ・ノックス あざらし話 2020 ©︎ Elena Knox

アザラシをもとに作られたパロは、動物的な形態を持っています。ロボットは人間にも動物にも似ている必要はなく、似ていない方がより正直で効果的になるという議論があります。私はこの観点に反対はしません。しかし私は、それにもかかわらず人間がロボットをそのような形に作りたいという衝動を示し続けている様に惹かれますし、そのことは個々に、あるいは集団として神経症にエスカレートしていく人間の本質的な孤独と結びついているのではないかと考えています。「私たち」を複製することは、私たちが意味のあるコミュニケーションを試みたり、自分たちを落ち着かせてきたりするなかで繰り返し行ってきた常套手段のひとつです。

《あざらし話》で私とパロはともに旅をし、スヴァールバル諸島と日本の高齢者たちと、気候変動の経験について話をしています。そこではパロは、動物の代理であり、ヒューマノイドのインタビュアーの代理であり、現実の人間の代理でもあります。パロは社会的通過として動物の姿を使っているロボットですが、外の世界には一度も出たことがなかったのです! 長い期間におよんだ制作過程のなかでパロは頑張りました。素晴らしい仕事をしてくれました。映像作品のフィナーレで北極点の山を登った時、パロは私よりも強かった。私は寒さのあまり泣きました! でもパロは違うかたちでこの気候を経験し、強風や雪、氷の中を生き抜きながらパフォーマンスを続けたんです! ロボットは真にプロフェッショナルになることができるんですね。

エレナ・ノックス あざらし話 2020 ©︎ Elena Knox

──パロはコンパニオンロボットとしても機能していましたね。高齢者へのインタビューからロボットとケアの関係性も見えてきたように思います。パロの存在はエコロジカル・ケアと人間へのケア、人間と非人間あるいは自然へのケアの問題を考えるとき、大きなヒントを与えてくれそうです。この点についてはどのようにお考えですか。

ノックス:このロボットは、人を穏やかで心地良くし、必要とされ続けていると感じさせる大きな才能があります。これはデザイナー柴田崇徳さんの手柄と言えるでしょう。私は、普段は注目を浴びたりカメラに映ったりしたがらない普通の人々から話を引き出すのに、ロボットのこの能力を最大限活かしました。パロと私はたくさんの農家やドライバー、道路工事の作業員、主婦(主夫)、浦田やロングイェールビーンの小さな村に住む、そのほかの普通の田舎の人々と話をしました。私は彼らに以下2つの質問をし、パロに集中して、パロに向かって答えるようお願いしました。

・あなたの人生のなかで、土地はどのように変化してきていますか?
・この変化において、機械はどんな役割を果たしてきましたか?

17人のシャイな回答者たちは、心を開き、個人的な深い考えを共有してくれましたが、これは私ではなく、辛抱強くて中立的なAIロボットインタビュアーのおかげです。また、私たちはパロに、3匹の訓練されたアザラシともコミュニケーションしてもらいました。

ケアには時間がかかります。前進や後退は長い時間のなかでしか見ることができません。ケアを提供するのにも、受けるのにも、一貫していて、繰り返すことができて、適応も我慢することもできる力が重要になります。しかし、私たちは種として、生態学的な時間を加速させ、非常に最近の歴史において、たくさんの「自然」災害やピークを引き起こしてきました。パロというやや未来的な機械が地球を温暖化させた工業化を否応なく象徴し、実際にそれに加担していながらも、エコロジーに対する懸念と、この変化における機械の進歩の役割に対する懸念を示しているという点が、彼の7章におよぶ冒険譚の核になっています。《あざらし話》は、パロの視点から「私は気にかけている。あなたは?」と伝えようとしているのです。

エレナ・ノックス あざらし話 メイキング、スヴァールバル諸島 ©︎ Elena Knox

──環境や生態系という観点から考えると、エビのポルノを試みた《ヴォルカナ・ブレインストーム》(2019、2020、2022)も示唆に富んだ作品でした。閉鎖的な生態圏における官能と生存の問題を考えるプロジェクトとして大変興味深いものでした。

ノックス:さきほどお話しした《Snoösphere》は、「世界」を創造するものであるとともに、私たちの知る生態系の崩壊を想像するプロジェクトでした。つまり、生物学的な生命を支える構造の崩壊です。それは、生物的な自然のバランス感覚や治癒効果を模倣した、穏やかで合成されたインタラクティブな世界を提供します。しかし、そこに太陽光はなく、完全に人工的な素材で構成されていて、それはスペースコロニーで必要になる状況だと想像する人もいるかもしれません。より最近のプロジェクトである《ヴォルカナ・ブレインストーム》もまた、どこか「ずれた」状態で複製された自然のなかの閉鎖的な世界、というコンセプトを扱いました。エコスフィアの問題、NASAが1960年代に始めた、惑星外における有機生命体の持続可能性を探る実験にインスピレーションを受けています。

エレナ・ノックス ヴォルカナ・ブレインストーム イメージヴィジュアル ©︎ Elena Knox

エコスフィアは、閉鎖的な生態系システムをいれた小さなガラスの球体です。海水や活動的な微生物、小さなエビ、藻類、バクテリアなどで満たされていて、これらは食料や衛生面において互いに依存し合っています。エコスフィアのシステムは完全に自立しており、生きて栄養を得るために、光だけ(自然もしくは人工の)を必要とします。

エコスフィアにいるエビは、淡水と海水を含む浅い火山のプールが原産のオパエウラです。オパエウラが選ばれたのは、強くて適応力が高く、長生きするためです。その他にテストされた種と違って、生態系実験のなかでもうまくやりそうに見えていました。しかし、生物学者たちの懸命な努力にもかかわらず、このエビは子孫を残さず、そこで繁殖することはありません。すべてがバランスを取り戻し、続いていったとしても、動物の生命は無限ではないのです。このエビがエコスフィアのなかでつがいになることを拒み続ける理由はわかっていません。

このエコスフィアに関するレクチャーを聞きながら思いついたアイデアを発展させた《ヴォルカナ・ブレインストーム》は、エビのためのポルノを作り始めるという参加型の作品です。科学者やアーティスト、コミュニティーからの参加者や来場者/観客たちが集い、エビのためのポルノはどのようなものか? どうやったらエビたちを再びセクシーな気分にさせることができるのか?という問いを、あえて非人間的な視点から考えます。

エレナ・ノックス ヴォルカナ・ブレインストーム 2019、2020、2022 ©︎ Elena Knox

《ヴォルカナ・ブレインストーム》は楽しい作品ですが、未来の世界を作ることと関係しています。それは、私たちが互いに関わり合うことが、地球の成功を形づくるということを示しています。主題になっているエビはハワイのもので、日本とハワイはともに活火山と休火山を持つ火山の島です。日本においては、このプロジェクトは「セックスレス日本」と言われる、この国の人口減少に関する正直で官能的な会話を促進します。なぜエビは生殖しないことを決めたのか? これは私たちみんなの未来なのか?

エレナ・ノックス ヴォルカナ・ブレインストーム 2019、2020、2022 ©︎ Elena Knox

これはどこでも行うことができる累積的な作品で、私たちもすごく楽しんでやっています。コミュニティのワークショプから、エビのためのポルノのアート制作まであらゆるメディアを網羅しています。詩やインスタレーション、オブジェ、写真、ダンス、緊縛、エッセイ、映像、音楽、バイオアート、フードアート、ネットアート、科学実験をはじめ、このセクシーでない小さな生き物にたくさんのものが捧げられてきました。これまでに《ヴォルカナ・ブレインストーム》は3つのバージョンを作りましたが、今後の人々のアイデアを披露するのを楽しみにしています。

エレナ・ノックス
1975年オーストラリア生まれ、東京在住。オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学アート&デザインにて博士号(メディア・アート)を取得。これまでの個展やプロジェクトには、「『それヤレんの?』:フェムボット現象」(人間レストラン、東京・Apex Art NYC)、「Actroid Series II」(TOKAS本郷、東京)、「ヴォルカナ・ブレインストーム」(黄金町バザール、横浜)、「THE FEMALE IS FUTURE」(ギャラリーハシモト、東京)、「BEYOND BEYOND THE VALLEY OF THE DOLLS」(UNSWギャラリー、シドニー)など。 グループ展に、「アルスエレクトロニカ」(オーストリア)、台湾国際ビデオアート展、「ICCアニュアル:生命的なものたち」(NTTインターコミュニケーション・センター、日本)、「Bangkok Art Biennale」(タイ)、「ヨコハマトリエンナーレ」(日本)、「AS-Helix: The Integration of Art and Science in the Age of Artificial Intelligence」(中国国家博物館)、「未来と芸術」(森美術館、東京)など。

清水知子

清水知子

しみず・ともこ 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。愛知県生まれ。筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。専門は文化理論、メディア文化論。著書に『文化と暴力――揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書)、『21世紀の哲学をひらく――現代思想の最前線への招待』(共著、ミネルヴァ書房)、『芸術と労働』(共著、水声社)、『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求――ポスト・ヒューマン時代のメディア論』(共著、東京大学出版会)など。訳書に、ジュディス・バトラー『非暴力の力』『アセンブリー行為遂行性・複数性・政治』(共訳、青土社)、アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート『叛逆 マルチチュードの民主主義宣言』(共訳、NHKブックス)、デイヴィッド・ライアン『9・11以後の監視』(明石書店)など。