公開日:2024年3月13日

「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? —— 国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」(国立西洋美術館)レポート。西美初、現代アートの展覧会が遺していくものは?

国立西洋美術館初の現代アートの展覧会では、21組のアーティストがコレクション作品と共演。会期は3月12日〜5月12日

会場風景より、鷹野隆大の展示

3月12日、国立西洋美術館で初となる現代アートの展覧会「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? —— 国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」が開幕した。会期は5月12日まで。企画担当は主任研究員の新藤淳。

本展の出品作家は以下の21組。

飯山由貴、梅津庸一、遠藤麻衣、小沢剛、小田原のどか、坂本夏子、杉戸洋、鷹野隆大、竹村京、田中功起、辰野登恵子、エレナ・トゥタッチコワ、内藤礼、中林忠良、長島有里枝、パープルーム(梅津庸一+安藤裕美+續橋仁子+星川あさこ+わきもとさき)、布施琳太郎、松浦寿夫、ミヤギフトシ、ユアサエボシ、弓指寛治

国立西洋美術館での初の現代アーティストによる展覧会だが、そこに並ぶのはいわゆる誰もが知る王道アーティストではなく、ある傾向が見て取れる。熱心なアートファンであればすぐに気づくポイントかもしれない。作品制作に加えテキストを執筆する「論客系のアーティスト」が多くを占めているということだ。

それぞれの作品に関するテキストも通常の現代美術展と比較すると多めで、「もの言う展覧会」といった様相だ(展覧会図録でも一部出品作家の論考に加え、新藤が聞き手を務める濃密インタビューが掲載されている)。

開催に先立ち行われた記者会見で新藤は「今回の展覧会はオルタナティブな活動をしてきたアーティストを集めてきたと思っています。そういう意味では、今回の場は焼け野原になっている今日の状況で、言説の場と出来事が起こってほしい」として、本展が日本のアートシーンにおいて新たな言説の場、転換点となることへの期待を語った。

内覧会での挨拶の様子。中央で話す人物が主任研究員の新藤淳

本展プロローグの「アーティストのために建った美術館?」では、国立西洋美術館の歴史をなぞる。同館コレクションの核でもある松方コレクションは、じつは平和条約によって一時期はフランス政府の国有財産になり、8年をかけ寄贈返還されるまでの道のりには財界に加え、アーティストを中心とした民間の力があった。1955年にアーティスト600名が集まって開催されたチャリティ企画展「松方コレクション:国立美術館建設協賛展」のポスター、フランク・ブラングィン《松方幸次郎氏の肖像画》、ル・コルビュジエ《国立西洋美術館およびその周囲の構想》といった歴史を物語る作品、資料と並置されるのは、杉戸洋が同館の建築に着目した《easel》だ。

会場風景より、杉戸洋《easel》(2024)

1章「ここはいかなる記憶の磁場となってきたか?」では、中林忠良がヴォルスや駒井哲郎、内藤礼がポール・セザンヌ、松浦寿夫がモーリス・ドニ、エドゥアール・ヴュイヤールらのコレクション作品と自作を並置。様々な時代や地域に生きた/生きるアーティストらの記憶群が同居し、それぞれの力学を交錯させあう磁場としての美術館の姿に着目する。

会場風景より、中林忠良の展示
会場風景より、松浦寿夫の展示
会場風景より、左からポール・セザンヌ《葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々》(1885–86)、内藤礼《color beginning》(2022–23)

2章「日本に『西洋美術館』があることをどう考えるか?」では、原則として「西洋美術」のみを蒐集・保存・展示せざるをえない機関である国立西洋美術館の在り方に揺さぶりをかける。小沢剛は2015年に制作した《帰ってきたペインターF》と同館が所蔵する藤田嗣治の作品を並置。小田原のどかは新作インスタレーション《近代を彫刻/超克する─ 国立西洋美術館編》と、絶えず地震が起こる日本の美術館という固有の課題をロダンの彫刻を横倒しにすることで提示。美術史から無視されてきた存在でもある西光万吉の《毀釈》なども展示し、空間全体を通して美術館と天皇制の問題までを串刺しにする。

会場風景より、小沢剛の展示
会場風景より、小田原のどかの展示。左から西光万吉《毀釈》(1960年代)、オーギュスト・ロダン《青銅時代》(1877[原型])、小田原のどか《近代を彫刻/超克する─ 国立西洋美術館編》(2024)

3章「この美術館の可視/不可視のフレームはなにか?」では、ル・コルビュジエが基本設計した本館建築に関心を寄せた布施琳太郎が新作《骰子美術館計画》を、コルビュジエによる絵画作品《レア》(1931)とともに展示する。田中功起は、常設展の絵画を車椅子や子供の目線に下げて展示すること、乳幼児向けの託児室を臨時で設けることなど様々な「提案」を掲示。実際に常設展では、ここでの提案を一部受け入れるかたちで展示が行われている。

会場風景より、布施琳太郎《骰子美術館計画》(2024)
会場風景より、田中功起《いくつかの提案 : 美術館のインフラストラクチャー》(2024)

4章のテーマは「ここは多種の生/性の場となりうるか?」。ミヤギフトシは、テオドール・シャセリオー《アクタイオンに驚くディアナ 》に描かれた人物からある読み解きを行い、映像作品、鏡のインスタレーションなどで複合的に提示。鷹野隆大はギュスターヴ・クールベ、フィンセント・ファン・ゴッホといった誰もが知る大家のコレクションと自身の写真作品を、IKEA風の家具が配された“現代の平均的な居室”に併置した。

会場風景より、ミヤギフトシの展示
会場風景より、テオドール・シャセリオー《アクタイオンに驚くディアナ》(1840)。右奥が長島有里枝の展示

長島有里枝は、2023年に名古屋で行った「ケアの学校」の展示を改変し、ピカソによる犬や猫の絵と展示。慕っていた人物、愛犬を立て続けに亡くした長島が他者と自身のための「ケア」について考えた痕跡が見えてくる。内覧会ではパレスチナ侵攻への抗議を主導した飯山由貴は、会場では松方コレクションの成りたちを読み解き、松方幸次郎が想定した「アーティスト」とはどういうものかを《この島の歴史と物語と私・私たち自身一松方幸次郎コレクション》で批判的に問う。並置された観客参加型の《わたしのこころもからだも、だれもなにも支配することはできない》は、コレクションの読み解きを踏まえて私たちそれぞれを支配するものは何かを問う。階段から展示室まで、大ボリュームで作品を展開するのは弓指寛治だ。上野の路上生活者、訪問介護の現場などを訪れ、人々とコミュニケーションを取り多数の作品が描かれた。おびただしい生のリアリティが迫ってくる。

会場風景より、飯山由貴《この島の歴史と物語と私・私たち自身 ─ 松方幸次郎コレクション》(2024)。シェイム・スーティン、フランク・ブラングィンらの作品が作品に組み込まれている
会場風景より、弓指寛治の展示

5章「ここは作品たちが生きる場か?」では、竹村京が、破損状態で保管されていたクロード・モネ《睡蓮、柳の反映》に着目。その欠損部分をシルク布に釡糸で想像的に補完する作品《修復された C.M.の 1916 年の睡蓮 》からは、細やかな手つきと修復対象への肯定的で真摯な眼差しが伝わってくる。エレナ・トゥタッチコワは、セラミック作品と詩、映像作品を出品。作品で「歩く」という経験を重要視してきたトゥタッチコワだが、出品作は同館展示室を迷い歩いた経験にもとづくもの。

会場風景より、手前から竹村京《修復されたC.M.の1916年の睡蓮》(2023–24)、クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》(1916)
会場風景より、エレナ・トゥタッチコワの展示

6章「あなたたちはなぜ、過去の記憶を生き直そうとするのか?」では、梅津庸一が主宰するアーティスト・コレクティヴ「パープルーム」が、パッチワーク的に同コレクティブのイメージ、モチーフが張り巡らされた空間を出現させた。梅津のほか、メンバーである安藤裕美、わきもとさき、星川あさこらの作品が、ラファエル・コラン、ピエール・ボナールといった彼らが影響を受けた画家たちの作品と合わせて展示される。

会場風景より、パープルームの展示

遠藤麻衣は、人と動物の異種交配が描かれたエドヴァルド・ムンクのリトグラフ連作「アルファとオメガ」の世界観にインスピレーションを得たパフォーマンス映像《オメガとアルファのリチュアル─ 国立西洋美術館 ver.》のほか、《クィア ☽ リング 》を発表。館内で撮影したパフォーマンスで共演したのは、ストリップダンサーの宇佐美なつだ。ユアサエボシは、当館の収蔵作家でもあるサム・フランシスの活動を1950、60年代に知っていたという設定のもと、フランシスの《ホワイト・ペインティング》と自作の抽象画3点を併置している。

会場風景より、遠藤麻衣《オメガとアルファのリチュアル─ 国立西洋美術館 ver.》(2024)。左に並ぶのがエドヴァルド・ムンクのリトグラフ連作

最終章の7章「未知なる布置をもとめて」では、国立西洋美術館のコレクションがいまを生きるアーティストをどのように触発してきたか/しうるかではなく、いかに拮抗するのかを見る。杉戸洋、梅津庸一、坂本夏子、2014年に亡くなった辰野登恵子らの作品を、クロード・モネ、ポール・ シニャック、ジャクソン・ポロックらの絵画と同じ空間に並べている。

こうして、大型絵画作品の共演で展覧会は幕を閉じる。

会場風景

展覧会冒頭で示された、同館は「未来のアーティストたち」の制作活動に資するべく建ったという主張を前提とすると、本展は未来を作るアーティストのために企画された展覧会であるとも言える。その期待に応答するように作家はそれぞれの持ち場で美術館の歴史やコレクションと向き合っている。見ている方向や問題意識はバラバラで、そのまとまりのなさにそれぞれのアーティストに異なる役割を期待する企画者の意思が読み取れる。指向性スピーカーのように、現代作家の作品メッセージは混ざり合うことなくこちらに直線的に発信されており、どれがもっとも大きく聞こえるかは鑑賞者によって異なりそうだ。

プレス内覧会の会見では、「自分のキュレーションの手つきには(人々の)批判があるだろう」とも語った新藤。批判は織り込み済みで、それを乗り越えてもなお本展で実現したかったのはどのようなことなのか。これからどのような言説や出来事が展開されるかは未知数だが、願わくば、それが「焼け野原」の肥料となるような、日本の現代アートの展開に寄与するようなブロダクティブなものであってほしい。

野路千晶(編集部)

野路千晶(編集部)

のじ・ちあき Tokyo Art Beatエグゼクティブ・エディター。広島県生まれ。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、ウェブ版「美術手帖」編集部を経て、2019年末より現職。編集、執筆、アートコーディネーターなど。