公開日:2023年3月25日

映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』レビュー。断片の集積としての世界―デヴィッド・ボウイが「作らせた」映画(評:藪前知子)

ロック・スター、デヴィッド・ボウイ(1947〜2016)の才能と人生に迫るドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』が3月24日より全国公開された。30年にわたり人知れずボウイが保管していたアーカイブから選りすぐった未公開映像と名曲で構成された本作。ボウイの大ファンであり、アートと音楽、カルチャーをつなぐ展覧会を多数企画してきたキュレーター、藪前知子による渾身のボウイ論をお届け。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

デヴィッド・ボウイの一生を綴るドキュメンタリー

本作は、ボウイの財団が認めた唯一のオフィシャルな伝記映画だという。昨年公開された『スターダスト』(2020、監督:ガブリエル・レンジ)は、その伝記を謳いながらも遺族が内容を認めなかったためその曲を使うことができず、ボウイがボウイになる前を綴った異例の内容となっている。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

比べてこの『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』(2022、監督・編集:ブレット・モーゲン)は、フィクションではなく、本人の過去のインタビュー、映像のモンタージュによって、その一生の物語を綴ったものだ。それだけだとよくある死後に製作されたノンフィクションだが、この映画の白眉は、その「部分の集積」というモンタージュの手法自体が、ボウイの表現そのものについての批評となっていることだ。映画のなかでボウイは、「人生とは断片の渦に意味を見ること」だと語る。彼はごく初期から、中心はなく常に流れていく断片の集積として人生をイメージし、来るべき時代の人間の主体のあり方を表現してきた。

ブライアン・イーノとともに作ったアンビエント・ミュージックの先駆けのひとつ、『ロウ』(1976)に収録された「Sound and Vision」が流れるなか、ボウイが「都会の人々は断片的に考える」と語るシーンがある。人々は常に、いくつもの異なるイメージに気を取られながら生活している。自分の作っている新しい音楽は、その状況に対応するものだ、と彼は言う。同じ頃に主演した映画『地球に落ちてきた男』(1976)で、ボウイ扮する宇宙人トーマス・ジェローム・ニュートンが、積み上げたテレビだらけの部屋で、それらの映像を眺めながら暮らすシーンが思い出される。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

「ボウイ・ネット」とFMV(ファン・ミュージック・ビデオ)

ボウイは1999年、現在のSNS時代を先取るかのように、ファンとアーティストが直接交流できるプラットフォームとして、会員制の「ボウイ・ネット」を立ち上げ、インターネットを通してファンとアーティストが直接交流できる未来を予見し、実際にそれを実践してみせた。当時は突拍子もない試みに思えたが、この映画を通して彼の生涯を俯瞰したいま、彼の思想がいかに先駆的であり、またその表現がいかに一貫した問題意識に貫かれていたかが改めてわかる。

ボウイが亡くなって7年経った2023年の現在、スマートフォンを手放せなくなっている私たちは、膨大で断片的なイメージの集積に触れながら、異なる空間にいる他者と自らの断片を同期させながら暮らしている。YouTubeを開けば、ファンたちがネットに散らばる無数のアーティストの映像を自由に切り貼りし、一曲に仕立てたオリジナルのFMV(ファン・ミュージック・ビデオ)が溢れている。たとえばこの映画のなかで、ボウイの最大のヒット曲である「レッツ・ダンス」が、時代を超えて、リリースされた1983年以前のボウイの姿も挿入されつつ展開する時、ボウイの人生をその音楽で綴ろうとするこの映画が、壮大なFMVのように見えてくる。そうしてみるとこの映画は、地球に落ちてきた男であるボウイが示した数々の予言を、やっと追いつくことのできた未来の私たちが答え合わせをするためもの、と言えるかもしれない。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

自己が分裂することへの恐れと複数のペルソナ

周知のように、ボウイは、1972年の『ジギー・スターダスト』以降の数年間、アラジン・セイン、シン・ホワイト・デュークなど数々のキャラクターを設定し、衣装を着替えるかのように次々にそれらを演じてきた。「アーティストは人々の想像の産物。他の人たちが情報を付け加える」という映画のなかでの発言は、現在のネット世界における、ファンダムやメディアの情報操作のなかで解像度を上げられるアーティスト像を正しく予見している。しかしボウイはこの言葉に続いて、「だからそれは偽物で、自分には関係ない」と付け加える。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

自分が誰か別の主体に操られているという感覚は、初期から、たとえばリンゼイ・ケンプに師事しパント・マイムを演じていた頃から、はっきりとボウイのなかに根付いていたと思われる。そしてそれは、映画のなかでも語られるように、彼にいちばん多くの影響を与えた兄テリーが、兵役の経験から統合失調症を発症し、自死に至ったという暗い家族の歴史に結びついている。ボウイは兄の思い出とともに、自分がいつ精神疾患を発症するかわからない恐怖について語っている。

自らが分裂し統御できなくなる病を恐れながら、人生は断片の集積であるといい、さらには、映画でははっきり描かれていないが、映像のなかの彼の様子が物語るように、1970年中盤のボウイは、ドラッグにも溺れていく。そしてこの矛盾をさらに深めるように、彼は、アーティストとして、デヴィッド・ボウイではなく、さらに異なる人格をその作品のなかで演じることを選ぶ。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

ボウイの最初のコンセプチュアル・アルバムである『ジギー・スターダスト』が、コンセプチュアル・アートの全盛期である1972年にリリースされたという、その同期性についてはもっと意識されてよい。マルセル・デュシャンが便器を芸術作品として差し出した、その起源のひとつを振り返るまでもなく、コンセプチュアル・アートとは本質的に、表象と意味との分裂を条件としている。『ジギー・スターダスト』は、もうすぐ絶滅する地球に降り立ったロック・スター、ジギーとそのバンドの盛衰を綴ったコンセプチュアル・アルバムである。ステージの上で観客を熱狂させるスターは、デヴィッド・ボウイでありながらボウイではない、別のペルソナを纏っている。ボウイはその二重性を自ら設定することで、自分とは何者なのかという問いと直接向き合う恐怖から、一時的に逃れようとしたのではないかと想像する。この映画のなかで語られるのは、芸術表現によって救われ生き延びることのできたひとりの人間の物語でもある。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

大衆時代のパブリックな偶像

いっぽう、「ロック・スター」をコンセプチュアルに演じながら主体の分裂を扱うボウイの表現のなかには、大衆時代のパブリックな偶像というテーマが必然的に含まれている。彼は70年代、ヒトラーが最初のロック・スターだと語り物議を醸したことがある。また、初期よりアンディ・ウォーホルに大きな影響を受けたボウイは、その有名な格言「誰でも15分だけ有名になれる」をもじって、ベルリンの壁に引き裂かれた恋人たちをテーマとした代表作『Heroes』で、「私たちは誰でもヒーローになれる、1日だけなら」と歌い上げた。

いわばレディメイドとしてのコンセプチュアルな「ロック・スター」を演じつつ、彼が映画のなかで繰り返し語るのは、この大衆の時代にいかに「個」であることを保ち続けられるかということだ。

「体制の外にいる人たち」への共感、「社会階層の中心、中道、最も人気のものに対する嫌悪」のもと、「16歳の頃から、誰にもできない冒険をしようと心に決めてきた」と語るボウイ。映画では描かれていないが、ベルリンの壁に隣接する西ベルリンのエリアで彼が行った1987年の「グラス・スパイダー・ツアー」のライブが、東側の若者たちを刺激し、壁崩壊のひとつのきっかけを作ったことはよく知られている。複数性やLGBTQへの連帯が当たり前の価値観となった現在、この映画のなかで切り取られる、当時はスキャンダルでしかなかったボウイの発言の数々は、力強い政治性を持って響いてくる。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

スランプから創造性の回復へ

さて、ドラッグ中毒に苦しみ、自分で自分がコントロールできなくなっている状況から脱却するように、彼は1976年、過去に演じてきたキャラクターをすべて脱ぎ捨てて、西ベルリンのトルコ人街に匿名の存在として移住し、「本当の自分」に向き合うことになる。そして、これ以降のボウイは、自分自身がデヴィッド・ボウイという偶像になってしまった状況下で、表現者であると同時に生活者として、どのようにありのままの自分自身として生きることができるのかを模索することになる。映画の後半で語られるのは、1983年の「レッツ・ダンス」で商業的な成功を収め、カルトヒーローからポップ・スターに変貌し、「観客が僕を受け入れた」「観客と一体化している」とポジティブに語った彼が、時代と同期してしまった故に時代遅れになるのを恐れ、足掻く姿である。

皮肉なことに、表現者としてのスランプに反して私生活は充実し、イマンとの結婚、娘の誕生を経て、ひとりの人間としての生活も楽しむようになる。人生に満足し、余裕ができると書くことがなくなる、書く必要があるのかという「表現者のジレンマ」を語るボウイ。そのなかで、90年代の「カオスのような雰囲気」は彼を強く惹きつけ、新しい音楽を生み出す原動力となっていく。「中心的で絶対的なものはない。人生とは断片の渦に意味を見ること」という冒頭に引用した言葉は、この時代のものだ。

マスカルチャーではなく、アンダーグラウンドで細分化された領域に動機づけられていく90年代の空気に影響を受けた彼は、グランジやドラムンベースなどの新しい音楽ジャンルから、トニー・アウスラーをはじめとするアートのダークな世界観を取り入れ、創造性を取り戻していく。当時は、若い世代の流行に反応するミーハーぶりだけが目立ち、ボウイのオリジナリティへの期待が高すぎる故に批判も多かったが、いまこうして振り返ると、彼が予測し、待ち望んでいた未来が、アーティストの側だけでなく、オーディエンスの変化としても現れていき、それにボウイが反応していたことがわかる。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

オーディエンス/ファン・カルチャーの未来を予見していたボウイ

この90年代の終わりに、先述したようなネット時代の到来を正確に予測し、実行に移すのは、彼にとっては必然的な帰結だったのだ。そして2023年の現在、たとえばこの原稿を書いている午前4時過ぎの私のPCのモニターの片隅には、この時間にお腹が空いたと自宅で料理をし、食べながらファンと交流しているお隣の国の世界的なアイドルの配信が流れている。ポップ・アートが批評したような大衆と個の二極化の時代から、誰もが複数の自己を操作し同期させることで空間を作り出していく現代への流れのなかで、デヴィッド・ボウイというひとりのアーティストが果たした役割は改めて大きい。

さて、2013年、病を得たこともあり、ほとんど公に顔を出さなかったボウイの、10年ぶりのカムバックは鮮烈だった。1月8日の誕生日に、ニューアルバム『The Next Day』の告知とともに突如先行シングル「Where Are We Now?」を全世界にネット配信し、リリース24時間後に世界27カ国のiTunesストアで1位を獲得したのだ。これは、ネットの時代だからこそできることでもあるいっぽうで、ネットの時代だからこそいちばん難しいことでもある。時勢を利用した、自らのパブリックなイメージ操作までが表現であるという、ボウイの真骨頂がそこにあった。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

肉体の死後も生き続ける表現者

そしてその3年後。デヴィッド・ボウイの熱心なファンなら、あの2日間を夢のように思い出すだろう。2016年1月8日、彼の69歳の誕生日に発表された『Blackstar』は、キャリア全体のなかで見ても傑作のひとつに数えられる素晴らしいものだった。大ブレイク中だったケンドリック・ラマーに触発され、ファンクやジャズを取り入れたサウンドは、彼が確実に自身の音楽性もアップデートしていることを感じさせた。

そして、世界中のファンが何度もそれを聴いていたであろう2日後に、突然報じられたボウイの訃報。その後、「最後の写真」として、病んでいるようには見えない快活でスタイリッシュな公式写真とともに、若いときから自分が69歳で亡くなることを予測していたこと、死期を悟ったボウイがこの作品をひとつの遺言として製作したこと、ブライアン・イーノをはじめとする盟友たちに、彼が素晴らしい最後の挨拶を残していたエピソードなどが次々に明らかになり、ネットを通して拡散された。ボウイは、デヴィッド・ジョーンズとしての人生を全うしつつ、表現者としての人生もコントロールし、ひとまずの仕事を終えた。

そしてこれまで見てきたように、パブリックに向けて放出された自身の表現が、他者の手によって拡散し新たなシナジーを生み出すことに十分に意識的だったアーティスト、デヴィッド・ボウイにとって、壮大なFMVのようなこの伝記映画は、その表現活動の延長にあるものだ。未来のひとりの映画監督にこの映画を「作らせた」のは、ボウイその人である。(そしてこの映画を見れば、映画監督として活躍する息子のダンカン・ジョーンズをはじめとする彼の遺族が『スターダスト』を認めなかったのは、本人を他者が演じることによる、ボウイのコンセプチュアルな営みへの綻びが危惧されたからではないかと想像できる)。

デヴィッド・ジョーンズの肉体は滅びたが、デヴィッド・ボウイという表現者は永遠に生き続ける。この2つのパーソナリティの乖離とコントロールに苦しみ試行錯誤しながら、芸術の不滅性という手垢のついたクリシェを真の意味で更新させたアーティストの、続きの物語として記憶されるべき映画である。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 ©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』

IMAX / Dolby Atmos同時公開中
©︎ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
配給:パルコ ユニバーサル映画
公式サイト:http://dbmd.jp/

監督・脚本・編集・製作:ブレット・モーゲン
音楽:トニー・ヴィスコンティ
音響:ポール・マッセイ
出演:デヴィッド・ボウイ
2022年/ドイツ・アメリカ/カラー/スコープサイズ/英語/原題:MOONAGE DAYDREAM/135分/字幕:石田泰子/字幕監修:大鷹俊一

藪前知子

藪前知子

やぶまえ・ともこ 東京都美術館学芸員。2002〜22年、東京都現代美術館学芸員を経て現職。担当した主な展覧会は、2006年「大竹伸朗 全景 1955-2006」、15年「山口小夜子 未来を着る人」、15年「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」、20〜21年「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」、21年「クリスチャン・マークレー 翻訳する[トランスレーティング]」(いずれも東京都現代美術館)。