セシリー・ブラウンは、ロンドンに生まれ、1990年代半ばからはニューヨークに居住し活動してきた作家である。本展は、画家の仕事を紹介する、日本では初の個展となる。
ブラウンについては、その絵画に見られる「抽象と具象の中間性」が繰り返し指摘されてきた。実際、それは画家自身が幾度となく強調してきたことでもあった。画家は、「抽象と具象のあいだの空間に入ろうとしてきた 」(*1)そして「具象が抽象に変わり始める瞬間 」(*2)をとらえようとしてきたと語る。
おそらく、抽象/具象という様式論的な弁別を偽の対立として退けるブラウンの絵画は、その絵画が、絵画を描くプロセスそのものを重視することと深く関与している。当然のことながら、絵画は、瞬時につくられるものではない。それは、持続的な制作の時間と運動のなか、すなわち、無数の筆触を画面に降り注いでいくプロセスのなかにある。その過程で、無数のイメージが立ち現れては消えていく。絵画を描くことは、認識可能なイメージの生成と消滅、物質とイメージの明滅的な交換のただなかに画家の身体を深く沈めることである。
知られるように、ブラウンは、抽象表現主義の画家ウィレム・デ・クーニングを絵画史上の重要な先行者のひとりに挙げている。デ・クーニングもまた、具象/抽象の様式論的弁別を偽の問題として退け、両者を往還するスタイルを貫いたことで知られる画家だ。
抽象絵画の旗手としての評価を不動のものとしていたデ・クーニングは、1953年春に「女」シリーズを発表し具象に回帰した。それは、デ・クーニングとともに当時の抽象絵画の動向を牽引していたジャクソン・ポロックら、当時のアメリカの美術界に大きな衝撃を与えた。「今日の世界では、顔を描くことは不可能だ」と語る批評家のクレメント・グリーンバーグに対し、画家は「その通り、そして描かないことも不可能だ」と応えたという逸話が知られている(*3)。
ひとつの様式、方法から逃走するデ・クーニングの絵画は、その描画プロセスと不可分の関係にある。《女Ⅰ》(1950-52)は2年間描き続けられた。それはイメージを同一のキャンバスに上塗りし(同時に溶解し)続けていく終わりのないプロセスとともにあった。あるいはそれは、1枚の絵画のなかに、無数の絵画(つまり、無数の女)が重層的に畳み込まれていることを示していた。デ・クーニングの絵画は、イメージがイメージに食い破られる、終わりのないプロセスに貫かれていた。
その意味で、ブラウンの絵画は、デ・クーニングを経由して、むしろ初期のデ・クーニングの絵画形成に不可欠な役割を果たし、たがいに問題を共有していた、アーシル・ゴーキーとの絵画史的な連関も感じさせる。かたちづくられた形態が絶えず外部空間に流出すると同時に、そのことによって、様々な形態が動的ネットワークを形成するゴーキーの画面は、絵画がひとつの運動体であり、イメージもまた、たえず画面のなかで生成−崩壊するものであることを示す。抽象/具象の弁別、対立から逃れるデ・クーニングやゴーキーの絵画は、ゆえに、彼らの絵画に潜在する「運動」そのものに対応していた。
おそらく、この問題と関連するのが、ブラウンが、初期に繰り返し描いた「うさぎ(バニー)」のモチーフである。これはウィトゲンシュタインが用いた有名な「うさぎ−あひる」の錯視像を参照したものであるが、彼女は、このモチーフをジャスパー・ジョーンズの作品を通して意識し始めたと述べる。「うさぎ−あひる」の二重映像を参照したことからも理解されるように、ブラウンは、一貫して、あるイメージがほかのイメージに侵食され覆される、イメージの揺動的な性質そのものに憑かれていた。
ブラウンは、多くの場合、自身の絵画に過去の絵画作品などの具体的な画像ソースがあることを明らかにしている。したがって、彼女の絵画は、繊細に統御されたイメージの群れの緻密な絡み合いがやがて溶解し、画面が炸裂的な印象をもつ抽象(非形象)へと変貌する絵画の瓦解的かつ力動的な推進力(driving force)そのものをまず観者に提示し、かつ、それを観者に追体験させることが眼目となっているように思われる。
そのような点において、ブラウンの絵画もまた、映像的である———と言う以前に、そもそもブラウンの制作は、映像とともに開始されたのだった。キャリアの最初期に、ブラウンは、性交の情景を描く水彩画アニメーション《Four Letter Heaven》(1995)を制作している。この時点で彼女は、1枚の絵がつぎつぎにほかの絵に侵食され、複数のイメージが交配的に連鎖するという意味において、アニメーションで描かれる性的リビドーと、描画プロセスに内在する衝動的な運動性が交差する地点に深い関心を持っていたと言ってよいだろう。
ブラウンはその後も、ポルノグラフィーを画像ソースにするなどして、男女の性的な交わりを執拗に反復することになる。ブラウンによれば、「性交は推進力(driving force)」である(*4) 。無数の筆触、色彩が混じり合い、具象的なイメージを出発点としながら、画面が抽象へと至るブラウンの絵画における抽象と具象の交錯は、イメージの肉体的なもつれ、性的な交配、あるいは肉体的な葛藤や暴力の隠喩を内在的な「力」とする。ブラッシュ・ストロークと呼ばれる男性的で力強い筆触によって「女」をねじ伏るように描き(デ・クーニング)、精液や尿を撒き散らすかのように絵筆を振り回す(ポロック)抽象表現主義のマチズモに潜む絵画の暴力性(ないし性的衝動)を、ブラウンは、告発的にではなく、むしろ自身の絵画に転用、奪還することによってあらためて主題化するかのように見える。ブラウンの絵画に見られるのは、たんなる影響関係ではなく、むしろ、過去の男性作家たちとの対決ともとらえられるような、美術史的な緊張関係である。このとき、ブラウンの絵画における描画運動と無数の肉体が絡み合う図像の主題系は、顕密に連動し合う関係にある。
本展でブラウンは、テオドール・ジェリコーやウジェーヌ・ドラクロワ、そしてウィリアム・エッティらによって多く手がけられた「難破船」の主題を参照源としたという。
難破船を描くことは、船という形象が、水という不定的な物質の威力によってなすすべもなく瓦解し、崩壊する、その様を描くことである。ドラクロワやジェリコーら、ロマン主義の画家たちの絵画に見られるのは、そのような筆触とイメージの劇的な緊張関係の高まりだ。そもそも、筆触と色彩のドラスティックな強調によって、断片化されたイメージがほかの場所と融合、連続するように、様々なイメージの輪郭が解かれ、決壊し、相互貫入するブラウンの絵画は、そもそも難破船のモチーフと親和性があったはずだ。ブラウンが参照したエッティの《セイレーンたちとユリシーズ》(1837)は、それに屈すれば肉体的な死をまねくセイレーンたちと、死の際でそれに抵抗する男たち、そしてすでに力尽きた男の屍体の群れを描く。エッティの作品は、複数の異質な性、複数の肉体の抗争的な関係に焦点を当ててきたブラウンの絵画との歴史的な連関を形成するだろう。
本展でブラウンが施した技術的実験もまた、こうした問題のうえでとらえることができる。ブラウンは、絵画の最初の層を、複数の同一サイズのキャンバスに高い精度の印刷技術を使って転写し、そこから複数の絵画を同時並行的に制作した。いずれの作品も、これまでのブラウンの絵画と同じく、無数の半−身体的なイメージがもつれ合い、非形象的な画面を作り出している。異なる画面のあいだで、ときとして、ほとんど同じ箇所に類似する図像が嵌め込まれることから確認されるように、異なるキャンバスは、それぞれに分岐しながらも連携している。
ここで彼女が観者に提示しようとしているのは、ひとつの画面から派生する、複数の展開可能性である。結果として、観者には、第一層から、異なる、だが、たがいに連関する複数の画面の生成を見届けること、逆に、複数の絵画面の下層にある共通する第一層に遡行すること、という2つのタスクが生じる。それは、すでに述べたように、ブラウンの絵画が、絵画が絵画として生成されるその運動、映像的とも形容しうる、内在的な推進力(driving force)をこそ、提示しようとしてきたことと結びついている。
本作に限らず、本展において、その問題は、絶えず瓦解し様々な場所を漂流しながらその都度作り直され航海を続けるアルゴ船のような難破船の「旅路」と、絵画がその描画生成のプロセスにおいてたどるキャンバス内の「旅路」という2つの道行き(オデュッセイア=苦難の旅路)を同時に見せることに結びついている。《セイレーンたちとユリシーズ》は、ホメロスの『オデュッセイア』を原典とする。『オデュッセイア』に登場するのは、そのような瓦解を繰り返しながら旅を続ける難破船であり、ユリシーズ(オデュッセウス)はそのような旅を見届けている。
*1──Cecily Brown cited Dodie Kazanjian, “Fleshing It Out,” Vogue 189, no.2 (February 1999): p.253.
*2──「ARTIST PICK UP セシリー・ブラウン 山本浩貴=聞き手」『美術手帖』2022年2月号、135頁。
*3──Thomas B. Hess, Willem de Kooning (New York: Museum of Modern Art, 1968), p.74.
*4──Brown in an interview with Odili Donald Odita, “Cecily Brown: Goya, Vogue, and
the Politics of Abstraction,” Flash Art 33, no.215 (November-December
2000): p.74.