9月21日から、フランス第2の都市リヨンにて、「第17回リヨン・ビエンナーレ(17e Biennale de Lyon)」が開催されている。会期は2025年1月5日まで。アーティスティックディレクターはイザベル・ベルトロッティ(Isabelle Bertolotti)、ゲストキュレーターはアレクシア・ファブル(Alexia Fabre)。
1991年から隔年で開催されてきた本ビエンナーレ。今回のテーマは「Les voix du fleuve/Crossing the water」。このテーマのもと、ビエンナーレ側は「人間がどのように他者や環境と関係を結び、また離れていくのか」(*1)という主題をアーティストに提示。アーティストはこれを自由に解釈し、作品を制作・発表する、という仕組みを採用している。
以下では、各会場での注目作品を紹介していく。
まずはメイン会場となるリヨン現代美術館(Musée d'art contemporain de Lyon)の展示作品から紹介していこう。
展示の冒頭を飾るのは、パリのジュ・ド・ポーム国立美術館で個展がスタートしたばかりのシャンタル・アケルマン。そのビデオ・インスタレーション《In the Mirror》は、《L’enfant aimé ou je joue à être une femme mariée》(1971)のワンシーン。ほとんど裸の女性が鏡の前に立ち、腕の長さや頭の大きさなど、自分の体についての独白を展開していく。その素朴な言葉の節々から、彼女(と私たち)が持つ美しさやジェンダーの規範が暗に示される。自分の体を媒介として、社会の背後に潜むイメージをあぶり出す手法は、現代のオーディエンスの目にはすでに新鮮には写らないかもしれないが、簡素ながら説得力のある映像は、いまもなお高い強度でもって感じられるだろう。
フランスのデュオ、エルザ&ジョアンナ(Elsa & Johanna)はシネマティックな写真作品15点を出展。1枚のスクリーンを通じて、どこか懐かしく親しみを持てるようなオートフィクションを作り出してきた彼女たちは、スタイリングや小物の選定など、画面作りすべてをふたりで担っている。展示されている写真群は、買い物や家でのセルフケアなど、平凡な人々の、ありふれた生活の一部を写しているように見える。ただそれは、私たちとその社会が抱く規範によって成立している感じ方だ。ユーモラスなまなざしの背後に、ジェンダーや集団心理が浮き彫りになる。
イスラエル・エルサレム出身、現在はドイツ・ベルリンを拠点に活動するオマー・ファスト(Omer Fast)の映像作品《Continuity》(2012)は必見だ。本作は2012年のドクメンタ13へ出展したことで当時注目を集めた作品。
スクリーンではまず、兵役を終え両親のもとへ帰ってきた息子の姿が描かれる。帰ってきて安堵しているはずの彼は、不自然に口数が少ない。実家に到着しひとりになると、彼は隠し持っている錠剤を飲んだり、ノートブックに描かれた絵コンテのようなものを眺めたりと秘密めいた行動を始める。夕食をとっているあいだもほとんど沈黙を貫く彼は、途中でパスタが芋虫に幻視してしまい、食事をやめ自室に戻っていく。
ただ、どうやら息子はひとりではないようだ。一人目の息子が眠りにつくと、映像は白昼、異なる青年が前の彼と同じ場所、同じ軍服姿で同じ両親を待っているシーンへ移行する。この青年は一人目の息子とは異なり少しお調子者そうで、家族の食卓では戦場の様子を誇らしげに語り出す。
注釈しておくと、彼らは兄弟などではない。戦地から戻ってきた兵士の息子を、父と母が迎えるという同じシナリオのもと、息子が3人の役者によって代わる代わる演じられていることに、観客は途中で気付かされるだろう。この反復によって、観客はリアルなフィクションを見ているという没入的な感覚から離脱し、この作品全体の狙いや構造、役者の細やかな振る舞いなど、いわゆる本筋ではない要素に注意を向けざるを得なくなる。誰が本当の息子なのか、という単純すぎる問いを頭に浮かべながら、「息子役の役者が『息子』になりきろうとする」(*2)姿から目が離せなくなる。
パレスチナ出身、パリを拠点に活動するテイシア・バッニジー(Taysir Batniji)にもふれておこう。《ID Project》(1993〜2020)は作家がフランスに帰化するまでの事務手続きを公開するプロジェクト。1993年、作家がフランスへ旅行した際に、国籍が「未確定 indéterminée」と分類されたことをきっかけに、以降空港などで「未確定」とされた書類16点が展示される。床に墓石のように置かれた大理石には「イスラエル独立宣言以降、パレスチナを出生国として示すことができない」という旨のテキストが刻印されている。
そのタイトルが不死鳥を意味する《Al-Anqâa》(2024)では、暗室のなか、蛍光塗料でガザ地区のマップが描かれている。
ここまでは2階、3階の展示。4階はフロア丸ごと、イギリスのアーティスト、グレイス・ドゥリトゥ(Grace Ndiritu)による作品。《The Blue Room》(2024)は「美術館のなかの美術館」というねらいで作られた。展示される作品の多くは、リヨン市内の美術館のコレクションから寄せられたもの。先史時代や古代エジプトやローマから、中世、近現代の多様な作品が配される。中央には、ドゥリトゥ自身によるテキスタイル《Protest Carpet: Women’s Strike》や映像も合わせて展示。このテキスタイルは、1970年ワシントンでのウーマン・リブのデモのイメージを反復するものだという。
続いて、中心地にあるリヨン国際美食館(Cité Internationale de la Gastronomie de Lyon)の展示を紹介していこう。
会場入り口には、レストラン「ポール・ボキューズ」 で25年間使われていたコンロが。その並びには、フランスのジュリエット・グリーン(Juliettte Green)の作品《La nourriture est-elle le reflet de l’identité d’un quartier?》(2024)が公開されている。このドローイングは、タイトルの通り、「食(文化)は、地域の個性を反映するのか」という問いに関連するテキストが配されたもの。架空の書き手が街を探索、とくに食文化を知ることに注力するなかで、感じたことや疑問が描写されている。「彼はいつもの通りにあるカフェやバーを頼りにしている。その数次第で、彼は近所の交友関係についてより詳しく知ることができる」など、当たり前でありながら鋭い内容のテキストが多く興味深い。
フランス・バザスとアメリカ・サンフランシスコを拠点に活動するスザンヌ・ハスキー(Suzanne Husky)は、自然環境への人間の影響というテーマを、多様なメディアで追求してきた作家。本ビエンナーレで出展されるのは、タペストリー《Les oiseaux semant la vie》(2022)。土壌が形成される過程に注目したハスキーは、鳥が植物の種子や、胞子、微生物を運ぶ様子がモチーフに、生き物との関係やつながりを描写している。緻密に描かれ(編み込まれ)た画面は、その彩度や山肌や鳥の羽の細やかさによって、油絵よりもむしろ浮世絵に近い印象を与えるかもしれない。
会場最深部には、クリスチャン・ボルタンスキーの映像作品《Animitas(Blanc)》(2017)が上映されている。画面に映し出されるのは、800個の風鈴。鈴は地面に刺された細い棒の先端に取り付けられ、それらが風にたなびく様子が、定点で撮影されている。日の出から日の入りまでを一発でとらえているため、10時間超と長尺の作品だ。棒の配置はボルタンスキーの生年月日を模すように組まれており、鈴の音によって「星々の音楽と漂う魂の声」が喚起させられる。
美食館からも徒歩圏内、ブルクール広場近くにあるギャラリー、フォンダシオン・ブルキャン(Fondation Bullkian)の展示もチェックしておきたい。
ビエンナーレの会期中は、フランスの作家ラファエル・ペリア(Raphaëlle Peria)の個展「Dérives de nos réves informulés」が開催されている。ペリアの作品は、自然の生態系の雄大な風景を写真に収め印刷し、その表面を切削していくという手法によって作られている。画面全体の印象として、フォトジェニックさとは別の尺度の、静謐な美しさが感じられる。作家は展示内のビデオで「削っているときは、何かまったく別のことを考えることができる」と語る。この作り手の感覚は家庭内で作られたキルトなどの手芸品に近いだろうし、この点においてフェミニズムの視点から作品を眺めることもできるだろう。ほかにも同ギャラリーでは、リトアニア出身のアンドリアス・アルトゥニアン(Andrius Arutiunian)によるサウンドインスタレーションも公開されている。
リヨン美術館 (Musée des Beaux-Arts de Lyon)の中庭、サンピエール宮殿庭園(Jardin du Palais St Pierre)では、フランスの彫刻家フロリアン・マーミン(Florian Mermin)が出展。ロダンをはじめ近代の名彫刻に囲まれた空間で、2点の彫刻が配された。
19世紀、この庭園がリヨン美術学校とその「花の授業」の拠点だったということに着想を得て、マーミンは《Rest in Rose》《On n’enterre pas tes ailes sous la pierre》(ともに2024)を本展のために制作。前者は中庭中央の噴水の頂点に置かれたセラミック製のパフュームボトルで、リヨン美術館の収蔵されているアンリ・ファンタン=ラトゥール(Henri Fantin-Latour)の花の静物画をモチーフにしているという。後者は庭園内のセラミック装飾とクローディオ・パルミジャーニ(Claudio Parmiggian)のテラコッタ作品をモチーフとした、墓石型の作品だ。
アートスペース以外には、駐車場での展示も行われている。ローヌ川とソーヌ川に挟まれたエリアにあるサン・アントワンヌ駐車場(Parking LPA Saint Antoine)では、シュルーク・リエッシュ(Chourouk Hriech)《Terre d’ailes et lignes de ciel》(2024)の作品が公開。都市や地方を描いたモノクロのドローイングと、多様な種類の鳥の写真がリズミカルに配されている。会場となる駐車場は、半世紀以上にわたってリヨンでパーキング事業を展開してきた会社のもの。2021年にオープンしたばかりの会場はとてもスタイリッシュで、展示がとても調和していた。
ここまで展示作品を紹介してきたが、会場ごとでの作品同士の一体感や、展示方法の新鮮さなど、キュレーションの面での特別な工夫はあまり感じられなかった。また「Les voix du fleuve/Crossing the water」というテーマに対して具体的に応答している作品や、アーティスト側からそのテーマを乗っ取ったり、疑問を投げかけるような作品も見られなかった。
正確な数はわからないが、フランス出身の作家が少なくとも半数を占めている印象は受けた。とくに、アジアとアフリカを出自とするアーティストの作品はほとんど見ることはなかったことは注釈しておくべきだろう。
しかしいっぽうで徹底したディレクションがない方が、それぞれの作品には集中して向き合うことができるようにも思える。たとえば今年のヴェネチア・ビエンナーレと(安易に)比較するのであれば、ヴェネチアは作品数・展示の規模があまりに大きく、ハイコンテキストな題材も多いため、観客へのとっかかりが少なかった。他方で本ビエンナーレは、熱心に鑑賞しても2、3日ですべての作品にふれることはできる分量である。実際、筆者は2日弱の日程で7、8割の作品を満足に鑑賞できた。
ウェブサイトには、ビエンナーレのスタンスとして「異なるもの・他者性はときにリスクとなるが、私たちはこれを不可欠なリスク、すなわち出会いの機会と考える。つまるところそれは、人生のスパイスであるのだ」(*3)という記述がある。芸術祭や展覧会において、出会いの単位となるものは「作家」や「作品」である、という考え方は依然有力であり、そして実際私たちの記憶に残るのも作品の印象や名前であることが多い。同時に芸術祭の場合は、その作品経験を地域や施設の特色がより豊かなものにしてくれる。
ビエンナーレ全体としては数年前よりもアート界への影響力や集客は落ちているかもしれないが、アートが社会のオルタナティヴである以上、そうした名声や数字のみを追求する必要はない。芸術祭はある程度の規模感、ある程度の作家数であるからこそ、地域のローカリティーと作品が一体となった渾然とした魅力を発揮できるのかもしれない。
*1──17e Biennale de Lyon、2024年10月4日最終閲覧、https://www.labiennaledelyon.com/17e-biennale-de-lyon
*2──Art iT「オマー・ファスト インタビュー」、2024年10月4日最終閲覧、https://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/mUunf7R1NxPgsCOioa4e/
*3──17e Biennale de Lyon、2024年10月4日最終閲覧、https://www.labiennaledelyon.com/17e-biennale-de-lyon