8月末、久々に北海道を訪ねた。新千歳空港に到着して、ふだんなら札幌を目指して北上するが、今回は南へ向かう。苫小牧を経由し、海沿いを千歳線に乗って白老へ。アイヌ語で「虻(あぶ)の多いところ」という意味の「シラウオイ」を語源とするこの土地は、現在もアイヌ文化が根付く北海道でも有数の町であるらしく、2020年7月にオープンしたアイヌを主題とした国立博物館「ウポポイ(民族共生象徴空間)」があることでも知られている。私は、ここで8月27日から始まる「ROOTS & ARTS SHIRAOI 2022 -白老文化芸術共創-」の取材に来たのだ。
「ルーツ」と「アーツ」、この2つの言葉の併置には難しさがあると思う。同プロジェクトのホームーページには、
北海道・白老の文化や伝承・人の営み(ROOTS)を多様な人たちが関わり再発見・再編集し表現(ARTS)しながら、新しい旅・地域のカタチを模索するアートプロジェクトです
とあり、また奇しくも「アーツ&ルーツ専攻」という学科をもつ秋田公立美術大学は
ちょうど植物が地中に根を生やすように、地域の文化資源・歴史・伝承といった「根っこ」から新しい表現を汲み上げることを目指します。いわば言語・地名・祭事・造形物といった文化の「根っこ=根源(Roots)」と繋がった芸術(Arts)の創造を目標としているのです。
との理念を掲げている。
作品を制作するための動機、ときには正当性の裏付けとして歴史や文化のリサーチを前提とする「アート」は近年のトレンドと言って差し支えないが、キュレーションという大きなフレームでそれを要求されたときにアウトプットされる作品や言説のつつがなさは、保守の安寧や息苦しさばかりでなく、ときに素朴な右傾へと堕ちていく。開き直って「それの何が悪いんですか?(それはあなたの感想ですよね?)」と問われればそれまでだが、19世紀から20世紀へと移行する時代に形成されたコンテンポラリー・アートの前衛性や革命性といった、「美術」の側のルーツの意義を、今日しばしば使われる「ルーツ」は意識的に遠ざけているようでもあるし、重ねて「地域」「営み」「暮らし」「自然」といった言葉を素朴に取り扱う仕草は、政治や歴史のえぐみを和らげる脱臭剤の効果を持つだろう。
私は、そのような大きなキュレーションが要請してくる中和に対して、個々の作家・作品がどのような抵抗を示すかが芸術祭や展覧会の秘められた主題として考える立場を採る。「アーツ」「ルーツ」は「&(と)」で結ばれるばかりでなく「/」によって分節・切断される必要があり、むしろ「/」によるなんらかの顕在化は、素朴な「&」よりも重みのある併置・接続になるはずだし、もちろんそれらは再び批判的に切り離されるべきものとしてもあり続ける。
さらにもちろん、この「&」と「/」の絶えることのない往還・遷移から醸し出される「つつがなさ」もあるので、始末に負えないのだけれど(これは、今日のコンテンポラリー・アートの大きな課題)。
といったような思考を明確にもって「ROOTS & ARTS SHIRAOI 2022」を取材して回ったわけではないにせよ、いくつかの作品(というよりもその周辺)について書き残しておきたい。
梅田哲也の《回声》。道内のガソリンスタンドで使われていた球形のガラス灯と砂浜から掘り出した漁に使う網やロープを用いた即興的なインスタレーションについて梅田は、
当初予定していたプランを変更せざるをえない状況となり、場所から着想を得るといった普段どおりの手順を踏むことができませんでしたので、もともとあった自分の意志とは遠く離れたところで、現場で事故的に起こることに流れに身を委ねながら、物質から表面的に読み取ることができる要素だけを紡いで制作することにしました。
と述べる。「物質から表面的に読み取ることができる要素だけを紡」ぎ、わずか4日間で構想・制作された作品がそれでも充実した仕上がりになっているのは作家の力量に寄るところが多いが、そのインスタントな仮設性は、先に述べた「&」と「/」を期せずして体現している。
吉田卓矢の《白老の夢》は、地域から長く愛される「スーパーくまがい」のファサードに白老の風景や時間を描いている。花や動物や裸体(に見える人物像)の素朴な居住まいが場と調和しているのは、店主である熊谷威二と作家の協働的なやりとりにも依拠しているが、絵の上部にある赤い看板、2つの白老町のマーク(海と山に挟まれた土地を笑顔の口元のように表現)との絶妙なコンポジションのおかげでもあるだろう。
吉田は本作を描くにあたって「白老の現在進行形のルーツ」を意識したというが、スーパーくまがいにあらかじめ根付いている店主の美意識や、あるいは利用者の利便性を意識したスーパー内の陳列をルーツの一種として見なした作品の佇まいは、無理に気張ったところがなくちょうどよかった。地元のスーパーを訪ねることを旅の楽しみとする人は意外と多い。作品だけでなく、総体としての「ちょうどよさ」を見るために足を運びたい。
大黒淳一の《光の矢を放つ》は、使われなくなった灯台に高性能のLEDレーザーシステムを設置し、3筋の光線を夜空に照射する作品。その光は、北海道の一部の地域で口語伝承されるアイヌの星の伝説にちなんだものだという。取材に訪ねた日は、濃霧やおそらく機材トラブルによって想定どおりの見え方にはならなかったが、技術に依存した力づくのスペクタクルは評価の難しいところだ。
むしろ、数年ぶりにライトアップされるというアヨロ鼻灯台の噂を聞きつけて、見晴らし台や灯台の根元に集まってきた白老町民の賑わいや高揚感にこそ胸を打たれた。それは海の道標である灯台の使い方として、神話を視覚化するよりも正しいように思う。
ここで紹介した作品とその私的な面白さは、作品そのものというよりも、作品が「ある」ことによって生じるアフェクトに関心を置いている。それらは、そもそものキュレーションや作家の意図とは異なるところで生じた副次的なものではあるが、つまるところ、ホワイトキューブとは異なる空間性をもつ地域においてアートにできること/すべきことは、ここに集約されるように思う。
その意味で、地元の移動図書館(ミニバス)に作品を設置した是恒さくらの《回遊文庫》も興味深い。会期前半は芸術祭来場者のための展示としてあるが、後半からは通常どおり移動図書館として町民のための空間になり、作品を見ることが困難になるという。芸術祭に求められる利便性としては不十分かもしれないが、安易にアートをツーリズム化しないための「ままならなさ」を目指すものに思え、好ましかった。