むせ返るような臭気の街頭、何年も続く湾岸の大開発、晴れそうで晴れない空に、時折顔に当たる霧雨、そして霞む摩天楼――数年ぶりに訪れる香港は、マスクの制限も解除されたが日本同様にバスやトラムの乗客はまだマスク着用率が高い。そのほかは一見変わらないように見える街並みやアートシーンも、その実変化はあるのだろうか。
渡航制限がない3年ぶりのアートフェア開催となったアートバーゼル香港。2020年はオンラインでの開催を余儀なくされ、過去2年ともリモートで参加をするギャラリーも多かった。
香港では政治的な混乱を巡って欧米資本の企業の撤退がいくつか報じられてきたことや、昨年9月にFrieze Seoulが初開催して活況だったことで、日本のギャラリー関係者からも「今後のアジアのマーケットの中心は韓国・ソウルに移るのでは」、「今年が香港への出展は最後になるのかも」と囁かれてきた。
ところが蓋を開けてみると、M+の開館も相まって、多数の出展者、世界各地からのコレクター、キュレーターの来場があり大いに盛況だった。3月21日から25日までの5日間という短い喧騒の日々は幕を閉じた。最終的に177軒のギャラリーが出展し、昨年より47も増加、日本からも30軒以上が出展した。フェアのクロージング・レポートでは、ガゴシアンのシニア・ディレクターのニック・シムノヴィッチ、Take Ninagawaの蜷川敦子らもセールスがプレビューから好調だったとコメントしているし、日本のいくつかのギャラリーも初日、2日目からホクホク顔だった。わずか5日間だけでの86000人を超える来場者や、好調な売上――そこには香港がソウルに対抗せねばならない危機感、政治的な緊張からのアートマーケットの萎縮傾向に対して内外からの強い期待が働いたことが垣間見える。
活況に浮かれて危うく足元を掬われそうなこともあった。フェアを歩き回りながらこのツイートを現地から投稿した。すると「このツイートは削除されました」、と表示されるのだ。
はじめは自分で消してしまったか、Twitterそのものの不具合かと東京のスタッフに確認したが、日本からは問題なく表示されるという。たしかに日本からのVPNを介すると正常に表示される。はたと気づいた、2020年7月、香港にもついにグレートファイアウォール(通称:金盾)が導入されたのだった。
どのキーワードが引っかかったのかは想像に難くない。
メディアに対してこうした「監視」によって取材を萎縮させるには効果は十分だ。すでに香港の新聞やネットメディアも廃刊に追い込まれている。表現する側においては言うまでもないだろう。
中国のアートフェアでは検閲に遭うリスクを避けるため、直接的に性的なモチーフの作品はほぼないと言ってもいい。香港のアートバーゼルでもそれ自体は以前から変わらないが、現状の市内での動向はそういうわけでもない。今回大館という、元警察署跡地をリノベーションした文化施設にある大館當代美術館も訪れた。
そこではトランスジェンダーのCG映像作品、同性愛の直接的な描写、異性装など、フェア会場では漂白され見ることができなかった性にまつわる表象がありとあらゆるアウトプットで展示されていた。
ただしその代わりに映像にはこうした「審査」を経た証明書の添付が義務付けられている。
フェア会場ではどの作品もセクシュアリティについては直接的な言及がないが、大味になってしまうメガギャラリー以外では、じつはエスニシティやジェンダーについては多くのアーティスト、ギャラリーが扱っていた。
日本のギャラリーで言えば、KOTARO NUKAGAの松川朋奈、出光真子の2人展は、なかでもその世代の対比とフェミニズムについて踏み込んだテーマ性とで白眉と言えるだろう。
フェア会場で巨大な作品を見せる「Encounters」企画のひとつでもあるJaffa Lam《Trolley Party》は、地元香港の女性たちによる手作業で傘をパッチワークしている。
そしてアートバーゼルが街頭や空港で露出するバナーやCMも、ジェンダー、エスニシティに大いに配慮されたバランスで登場人物が構成されていた。
昨年アートバーゼル香港はディレクターにアンジェル・シヤン=ルが就任し、それまでのディレクターだったアデリーン・ウーイはアジアの全体を統括する担当となった。昨年も開催して好評だった、主にコレクターに向けてのイベント「アートウィーク東京」もバーゼルが母体となっており、この先東京のマーケットをどうバーゼルが切り開くのか注目されている。
しかし、バーゼルとFriezeの一騎打ちというわけでもない。アートバーゼル香港の前身となるART HKを立ち上げたマグナス・レンフリューによるThe Art Assemlbyは台北當代、シンガポールで今年初開催したART SG、そしてこの7月に初開催する東京現代というラインナップで、欧米からのギャラリーを中心とした東アジアの大規模アートフェアを統括している。そのほかに5月の台北當代以降、9月に2回めを控えるFrieze Seoul、10月のART TAIPEI、さらに11月に国内外からの集客も同様に戻ってくるであろう上海のWest Bundもあり、アートフェア情勢はどこが勃興し、収斂していくのか、混沌としてきそうだ。
香港中心部はいまも湾岸エリアは歩道を拡充する大開発の真っ只中だが、足元は表現の点でも、報道の点でも、世界的な金融不安をふくめた不安定さは拭えない。それでもこのアートバーゼル香港の成功を経て、来年以降も捲土重来なるか、目が離せそうにない。