60年代末〜70年代にかけて日本で起きた芸術運動「もの派」。自然物や既成の人工物をそのまま作品化することで「もの」と空間、そしてアートの概念を問い直してきた。そのメンバーとして榎倉康二、小清水漸、関根伸夫、高松次郎、高山登、成田克彦、吉田克朗、李禹煥らが挙げられるが、主要メンバーとして近年も国内外で精力的に活動を行うのが菅木志雄(すが・きしお)だ。
今回、静岡県伊東市にある菅のアトリエを訪ね、「もの派」の源流にある思想、コロナ禍における人間とアート、現在考えていることなどをじっくり聞いた。聞き手は、ソルボンヌ大学大学院でもの派を中心とした日本の現代美術を研究する島田浩太朗。【Tokyo Art Beat】
──まず初めにアトリエについてお伺いしたいと思います。公開資料によると、菅さんは1994年に静岡県伊東市に拠点を移されて、その後、その場所に留まっています。さしつかえなければ、移住の経緯と、静岡での定住の理由について教えていただけますか?
多摩美の学生時代にはまったく伊豆半島に来るつもりはなかったんですけど、僕の友達でひとりだけ、伊豆半島にアトリエを構えた人間がいました。それで卒業した時に「菅、どうだ、伊豆に来ないか?」っていう話をしてくれて、そこで仕事ができるんならいいねっていうことで、僕も移住を考えたんです。僕の場合、ナチュラルなものを作品の媒体にしているという意味では、普通の空間的なことよりも、身近な自分の周囲の景色や景観とか、やはり外が多いほうがいいんですね。街なかより伊豆半島に行って、自然のなかで制作することができればそのほうがいいし、あまりにも都会から離れてしまうと都会で発表するということが非常に面倒くさくなるので、伊豆半島ぐらいがちょうどいいかな、ということで選びました。
いまいるところは、伊東駅を降りて山のほうに2〜30分くらい行ったところですが、ここは空き地が多いし、森や林やいろんなものが自然のままありまして、とてもいいなと感じました。僕が生まれたところは岩手の田舎ですから、非常に自然が多かった。自然が多いというのは人間にとって安らぎなんですね。木やいろんなナチュラルなものが散らばっている状況でものを考える、ということが僕にとっての最良の方法です。
伊豆半島は温泉が出るんですよ。僕はすごく温泉好きで(笑)、温泉のある家に住みたいと思ったので温泉付きの家を買いまして、そこを拠点にするようになりました。ただし、そこは住むだけで、仕事をするためにはちょっと無理だなということで、車で10分足らずのところに場所を見つけてアトリエを建てました。森の中みたいなところですけど、交通の便もそんなに悪くないし都会にも自然にも近いし、ちょうど中間的な地域です。作った作品を運び出すのも容易な場所だったので、とても幸運だったかなと思っています。
──私の印象では、現代はグローバル資本主義が猛威を振るい、大きな経済格差を生み出すいっぽうで、全地球的な環境問題も深刻化しています。現代社会が抱えていた負の問題が一気に表面化しました。この数年で起きていることは、菅さんたちが学生時代を過ごされていた60年代、その熱い時代に議論されていたこと、すなわち、近代の呪縛、あるいは資本主義や物質主義が将来的にもたらすであろう脅威がまさに現実化してきているように感じます。
また“ソーシャル・ディスタンス”が連呼され、日常的に意識するようになって2年以上が経ちました。その物理的な意味だけでなく、まさにその「社会的な距離」について再考する良い機会にもなりました。つまり、自己と他者、人間と自然、オンラインとオフライン、必要性の高いものと低いもの、権利と義務など、この2年間という特殊な時間が私たちにもたらした地殻変動は、じつに大きなものだったと思います。
現在をより深く考察するうえで、1960年代後半から70年代前半にかけての当時の状況について、教えていただけますか 。
まず、僕がちょうど多摩美を出たころの状況を説明しますね。当時はまだ西洋から来る発想、たとえばイマジネーション、イメージ、認識、概念とか、そういうものを重要視した状況だったんですよ。つまり、「イメージがなければアートはできない」というような膠着した状況でした。ところが68年頃になると、日本だけではなくヨーロッパやアメリカからも、もうグローバルに「芸術の破棄」(*1) の声が聞こえてきた。つまり、もう次のアートは到底出現しないという認識が突然出てきたんですね。そこで困ったのはアーティストですよね。これまでヨーロッパやアメリカのアートを模倣してきた日本にとっては「いったいこれどうしたらいいかな?」という状況になりました。
そのときちょうど、多摩美に斎藤義重という先生がいまして、この先生がね、非常にコスモポリタンな人でした(*2) 。いまから考えれば斎藤さんは、日本における日本の美術のみじゃなくて、もっと世界的な意味での指向性みたいなものを模索していたと思います。僕も斎藤教室に入りましたが、もちろん、僕の上の世代の関根(伸夫)とか、ああいう連中も全員、斎藤さんの教えを受けていました。斎藤さんの授業は、アートがどうのこうのという話はまったくしない。彼は自分の持ってる蔵書、たとえば西洋から取り寄せたいろんな画集や文献とか、そういうものを僕らに提示してきました。それをみんなで教室で囲んで見て、「こんなのがいま世界で流行ってんだなぁ」と非常に驚いたというか、「いったいこれからどうしたらいいんだろう」っていうことをそれぞれ考えるようになったんです。
ちょうどその頃、パフォーマンスやハプニングとか、そういうものが出てきたんですけども、斎藤さん自身が教室でそれを実演してくれたりするわけですよ。そんな先生なんて、斎藤さん以外にほとんど、いやまったくいなかった。僕らもそれを見よう見まねでどんどんやっていこうということで、生徒一人ひとりが自分なりに、パフォーマンスやハプニングなど、いろいろやってみたわけです。当時、斎藤さんは僕たちを見てどう思っていたかわかりませんけども、少なくとも僕らが勝手に見よう見まねながらも、それまでの色んな法則や理論、そして素材に対する考えとか、どんどん変化していることを非常に自由な立場で見てくれていました。
斎藤さんは学部3年から大学院まで教えていましたが、僕はその教えを吸収することが非常に楽しいのと同時に、自分なりに当時の流行っていうか、変化を直に感じながら仕事をするということに向かっていきました。これはもちろん僕だけじゃなくて、いま“もの派”って言われている人たちも、そういう方向性で自ら実践して、先生に見せたり、自分で画廊で発表したり、展覧会で展示したりしていました。たとえば藝大でも、あるいは日大、それから武蔵美にも何人かいたんですが、やはり多摩美の斎藤教室から出た連中が中心になって、当時の新しい考え方を提示していくという状況になったんです。それがだいたい69年から70年頃です。
「芸術の破棄」のような考え方を僕はとても身近に感じて、これまでの芸術的な発想ではもうできないんだ、ということを自分なりに納得して、ちょっと違うものを出していこうということを考えていました。たとえば僕の場合は、パフォーマンスやイベントとか、いまは名前を変えて「アクティベーション」と言っていますが、それを通して“実際に作ること”と“人間の行為性”とが、どういうふうに結びついてるか、ということについて僕なりに検証したいという思いがありました。つまり、“自分の行為性”とそれに付随してくる“ものの在り方”を中心に仕事をするということになりました。
僕たちの世代は、60年代から70年代にかけての世界的な転換を、どういうふうに自分なりに納得して体現しているかってことが、そのあとの生き方に強く反映されています。それをうまく自分なりに解釈できた人間とっては非常に良い方向に行くけども、それまでのアメリカやヨーロッパのアートを主流にやっている人間にとっては、やはり“人間”と“もの”の関係性がよくわからないという状況が現れてきました。
学生指導でもっとも重要視されていたのは、とにかく「イメージを持て」ということでした。つまり、イメージあってこその“もの”の在り方だということが支配的な考え方だったんです。もの派は、そのイメージに対して非常に疑問を持ったわけです。人間が“イメージ”を持って“もの”を作る、というふうに考えていくというのは、いったいどういうことかと。“イメージ”よりも先に“もの”が在るじゃないか、と。まず“もの”が在るのに、“イメージ”のために“もの”を使用するということは、おかしいだろうということになりました。
「アートはイメージである」という考え方は、これは西洋美術史の文脈からずっと続いているわけですね。表現の根本が、全部そういうふうにイメージを媒介にして出来上がっていると。そうするとたとえば、イメージに合わない媒体がある場合、イメージに合わないからすべてのメディアを切り捨てるということも出てくるわけですよ。そうすると、本当に自分が気に入ったものしか使わない、あるいは、自分だけじゃなくて美術史の中で一度殺されて、イメージが真っ黒けになったようなものだけが媒体として取り上げられる、ということになってしまう。それはやっぱりおかしいだろと。イメージにすることは、人間の頭の中で出来上がってるけども、しかし具体的に“もの”っていうものは“もの”なんだと。イメージは関係ないんだということです。
そこに在る“もの”──それはもう美術に関係なく、“もの”の実在性というのが存在していて、その実在性をいったいどう考えるか。これはもう、いまから考えてもおそらく美術史上の中の一部じゃなくて、もっと大きな哲学的な問題なんですね。これは、もの、表現、存在性、実存とかというふうなこととも密接に関係してまして、そこを考えていかないとアート作品はおそらく生まれてこないと、僕はそう考えました。
当時、僕なりに美術の本だけなくて、哲学書をほとんど網羅的に勉強して、最終的にインド哲学みたいなものに非常に惹かれていきました。これは膨大な学問ですけれども、その中のナーガールジュナ(龍樹)の空観論をあるときに知ったんです。当時、それを読んだときに、僕はまぁ恐らく大きなショックを受けたんだと思います。たとえば、あらゆるものを否定した状況が存在している。あるいは、ナーガールジュナの中観論の中では“もの”を作ることは、あらゆる“もの”を否定して、そこに何を見るかといったことが言われているわけですね。
すべてを否定した後に、いったい何が残るか。すべてを否定しちゃったら、アートもへったくれもないじゃないかと。そこにある学問も何もなくなって、もはや何もない。じゃあ何があるか。つまり、頭の中で何があるかと考えるというような次元じゃなくて、そこにその人間がいて、“もの”があって、いろんな“状況”が空間を埋めている、ということをまず素直に認めるということを、僕は考えました。
ナーガールジュナの場合には否定論理ですから、すべてを否定したところに“もの”が在る。まあ、一種の矛盾論ですね。そういう矛盾論に、僕は僕なりに非常に実感的に啓示を受けたわけです。すべてありながら、すべてを否定する。ゼロ地点からしか生まれてこないだろうなと、そういう発想がそこで芽生えたんです。
斎藤さんも当時、「000プラン」 (*3)なんていうことを学生に向かって言ってました。いったい000プランってのはなんなのかなという思いが、おそらく僕だけじゃなくて、教えを受けた人間はみんな感じたんじゃないかな。つまり、すべてのものがありながらも、すべてがない。その有と無がどういう結びつき方をしたらいいのかということは、これはもうたんに入口があってもですね、それを追求していく過程はほとんど自分なりにしかないわけですね。
アートはメディアを通して何かをするわけですが、メディアとの付き合い方にもいろいろありますよね。メディアをうまく使うやつ、メディアに負けるやつ、メディアがいったいなんなのかよくわかんないやつ、それを見るやつ、存在的にそれを受け取るやつ。アーティストは、そのどれにも自由にタッチできるんですが、まあ僕は少なくとも、いま“見えているもの”は、これはつまり、ある種、“無”と同じであると考えています。何もない故にこそ、そこに存在する“もの”があるんだ。そうしたときに初めて、自分が持っている“もの”に対する、つまり、実態的な認識というものを考えるようになったんですね。 “もの”があれば、当然、空間的なものも出てきますし、メタファーとしての広がりとか、狭いとか、大きいとか、そういう要素も入ってきます。
僕は展覧会の度にずっと文章を書いてきましたが、あるときに外国人に翻訳してもらったんですね。で、カタログに載せたら、これは美術論じゃなくて哲学だろうと言われたことがあります。そういえばそうだな、という気が僕もしてるわけです。でも、哲学のない美術はあり得ないと思ってますから。その時々において、非常に綿密に考えていくということが重要な要素だと考えています。
60年代の終わり頃に、“芸術の破棄”から始まって、“個人の解体”、美術を考えるうえでの“思考の解体”みたいなことが起きました。そこから浮き上がる人間、アートができなくなる人間、作れる人間、それからいろんな状況を把握できる人間とか、まあそれぞれ出てくるわけですね。僕は「菅くん、どうやって作品を作ったらいいかな?」ということも、しばしば聞かれましたが、それはもう説明ができない状態なんですね。いちいち考えて、メディアがあって、それをどうにかすればアートは出来るなんていう考えを持っている人間にとっては、僕が「“もの”なんかない、何もないんだよ。でも、何かがあるんだ」と言っても、なかなかそれは理解されない。まあ、そういう状況に陥っていました。
──コロナ禍によって、思考や制作に変化はありましたか?
60年代、70年代というのは、人間がものを否定する状況だったんだけど、いま、人間が否定されてるわけですよ、存在的にはおそらく。そういう意味で、人間がいちばんだ、なんていうような言い方は当然できなくて、まあ、死なないように頑張ると。つまり存在を消さないように自分なりに注意するという以外のところではなかなか成立しない状況なんですよ。
人間が作りだすアートは、それぞれ個人がやっているけど、それが集まって、いろんな思潮とか、もっと大きなスケールになっていくっていう状況がもちろんあります。それに対してコロナっていうのは、そういう大きいスケールのなかに丸っきり個人というのを認めないような状況で入り込んだりして、非常に危険な分子なんですね、これは。そうなると、もうまったくわかりません。コロナが来たことが良いのか、悪いのか、それは僕にはわかりませんけれども、否定できるものとできないものっていうのが厳密に出てくるんですよ。
アートはコロナとどう関係があるか。つまり、人間がやっぱりこれは失ってはいけないなあと最初に思うのは、おそらくこれはアートではないはずですね。もっと違う、生活に密着した生活観とか、そういったことをやっぱり失わないようにするっていうのが、コロナ世代のいちばんのスタンスだと思いますけども。しかし、結局そうなると非常に人間的に貧しくなっていくという状況になると思うんですね。それじゃあ、やっぱりマズイと。まあ、仮にウイルスがどんどん増えてですね、すべての人間がコロナに罹っちゃうという状況になっても、アートだけはやっていくんだというふうな、アートは最後に人間が持っていなきゃならない要素のひとつであるというようなある種の意思の力というか、人間の思考の力はやはり失ってはならない。コロナはそれを全部潰してしまうかどうか、それはもう最終的にいってみないとなかなかわからないと思います。
僕は映画が好きで、80年代、90年代の映画をよく見るんですけど、現状の人間を追い詰めていく、怪物の映画が流行ったんですよ。人間がちょっと変化して、人間を食い殺すというものが流行っていたんです。いまちょっと下火になりましたけども、当時は、人間が変異して、お化けみたいになって、正常な人間を食い尽くしていくというような映画です。僕はそれをとても象徴的だなと思ったんですよ。つまり、普通の人間と普通でない人間がどういうふうに存在しているかというと、これはもう対立しかない。
それはやっぱり人間が作り出した状況というかな。まあ、仮にウイルスにしてもですね、まあ、どっかで人間が関わっているんじゃないかという思いがあります。そういうものを嫌と言いながらも、人間はどこかでそれを認めたり、あるいは希望したりしてるというのが僕の考えです。
嫌だ嫌だと言いながらどっかに人間とはそういうものを惹きつけていくということが言えるんじゃないかな思います。まあ、アートはそういう意味では、もの派の場合には、人間だけじゃなくて、人間が“もの”化していくっていうか、あるいは人間が物を別の意味で“もの”として再認識していくっていうか、もの派の場合にはそういう状況も必要だろうというふうに思っています。そうでないとなかなか、つまり、偏った考えだけでは決して“もの”の存在をいままともに見ていかれないというか、そんな感じが僕はふとしてるわけです 。
──岩手県立美術館で昨年行われた回顧展は、学生時代の作品から最新作まで約120点の作品を一堂に会した展覧会となりました。私は残念ながら見学には伺えておりませんが、反響はいかがでしたか? また、自分自身で旧作と並べてみてどう感じましたか?
昔の作品といまの作品を見るのがわかりやすいんですけど、あまり素材にこだわらず、イメージを持たないようにして、真っ直ぐに“もの”を見る、ということがまず最初です。それが初期の頃は、自分の思考に合うように“もの”をとらえるというふうなことをやっていました。石ころひとつ、木の枝ひとつ。必要なのはその空間。たとえばひとつの空間があると、そこにいろんな“もの”がありますよね。それでいろんなものをどのようにひとつの空間のなかで位置付けていくかと。まあだいたい普通はバラバラにあるわけですよ、“もの”っていうのは。バラバラにある“もの”を、をいったいアートとしてどういうふうにするのかという問題が僕はいつもあるんですね。
必ずしも一致するものがあるわけじゃなくて、非常に違和感のある“もの”がたくさんある。しかし、その違和感があるからポイするんじゃなくて、なんで違和感があってそこにあるのかっていうことをやっぱり思考しないといけない。またそのアートの素材としてよく使い慣れたものがあって、それはいったい何でそれが使われるのか、ということもよく考えないといけない。すべての“もの”をフラットに見ると。まずはフラットな意識でもって、それを眺めるということが先決です。そのときにそれまでちょっと変だなぁと思うところが意外と変じゃなかったり、あるいはここにこういうのがあるけど、ちょっとおかしいんじゃないとか、そういう意味の変換をしていくわけです。
それぞれの“もの”の決まった意味性を排除しながら、さらに違う意味で意味性をつけて、自分で再編成するんですね。ひとつの“もの”の在り方を。空間が大きければ大きいほど、“もの”の存在を変換していって、その存在性だけを突出させる、というふうな方向に持っていきます。
たとえば大学時代はメディアだとか、素材とか、そういう気の利いた言葉がどんどん出てくるんですけど、それはやっぱり僕にとってはしんどいんですね。なんの媒体なのかと考えても、僕にとってはそれはたんなる“もの”なんだから。
自分の周りにあるたんなる“もの”がたくさんあって、それをじゃあ自分でちょっと動いて、手を動かして、それをどうするかっていうだけの問題だと僕は思ってるわけです。もちろんさっき言ったある種の哲学的な思考みたいなものはバックグラウンドにある。そして、いったい“もの”の存在ってなんなのか。使う“もの”もそうですけど、作品といわれる“もの”も、これは“もの”に違いないんですよ。いくら人工的なところが加味されても、“もの”であることには違いない。普通にナチュラルにあるものと、使われた“もの”というのは、どう違うのかという違いを明快にしていくということが論法としては僕のなかにあるわけです。
最初の頃の作品について言えば、僕は“もの”を“状況”のなかで見るということをしていました。“もの”が独立して浮かんでるわけじゃなくて、そのバックグラウンドっていうのがある。それを“状況”としてとらえる。で、そのなかで“状況”と“もの”を平等にするというふうなことが必要だ思ってます。たとえば、ひとつの空間があって、それを状況としてとらえて、そのなかに何か“もの”があったとすれば、それを“状況”から排除したり、逆に違うところに持っていったりすることで何が変わるかっていうと、空間そのものが変質してくるんですよ。空間が変わってしまうんですね。つまり、有る空間と無い空間というのができるわけです。
“もの”を作るってことは、空間を表現していくことです。ひとつのある空間から違うある空間を作っていくっていうことが、“もの”を作るきっかけのひとつにあるわけですね。空間自体どういう性格かっていうことは、最初から決める必要はなくて、そこに登場してくるいろんな“もの”によって空間はリアルになったり、全然リアルでなかったり、ということも当然あるわけです。
ですから、自分が目指すものはいったいどの部分なのか、“もの”のほうに比重がいってるのか、あるいは空間の中にいっているのか。ある種の関係やつながりなのか、あるいは、まったくの空間的に何もない、ということのほうが必要なのか。様々な思考性をそこで追求しないといけない、ということになります。ただ、“もの”を作った。はい、それをここに置く。というようなことを僕はまったく考えてません。
それはもう簡単に口で説明できるような状況ではないんですよ。やはり全人格で、全思考的に、あるいは全存在をひっくるめて、“もの”に対応して作るっていうことに関連してですね、自分の位置を明快にしていくということ以外にはなかなか言いようがないということになりますかね。
アートを作るって意識は僕にはほとんどないんですよ。そこに「何かを表していく」ということは言いますけども、「何かを作った」というような言い方でもってアートを語るということは、僕にとってはちょっと違うかな、と思っています。
何を見るか、何を見ないかというその地平をですね、必ず最初に持っていないといけない。あるひとつの“もの”があれば、どういうつながりがそこに存在してるのかな、ということも考える必要がある。僕は、あらゆるものは出来上がっているんだと。アートとかへったくれだとか、作るなんていうことじゃなくて、ぱっと周りを見たら、もうあらゆるものはすでにそこに在るんだと思っています。
ですから、どういう作り方をしましたか?という質問をされると、いや何もしないんだけど、ということが僕にとってのひとつの作ることに対する考え方になります。これはもう初期からです。
実際に、人間の行為と “もの”の存在性と、そういうもをひっくるめればですね、そういう場のリアリティをどういうふうに作り上げていくか。これは、現在、過去、未来、全部含めて、現在だけの話じゃなくて、“もの”がある状況をどういうふうにフラットに提示できるか、というふうなことを考えて僕の“ものを作る姿勢”ということになるでしょうか。
いま現在、もちろんものを作ってますけども、やはり創造的っていうふうな言い方はなかなか難しくて、“存在させる”というようなことは言えますけども。創造的に何かできたよ、というような発想ではなかなかやっていませんね。僕が提示したものをどう解釈するかは、見た人の自由ですから、僕がこう見ろというようなことではなくて、見る人間がどう見えたか、ということが僕にとってはとても重要なことです。どう見えてもいいんです、結局。だからどういうところに創造性を見るか、あるいは表現の一環を見るか、そういうことによって、もっと大きなそれぞれの認識の拡大が成立するんじゃないかな、ということを考えています。
──最後に、これからやりたいことについて教えていただけますか。
これから将来を考えると難しいです、もうこの歳ですから。もうじきくたばる人間がこれから何やるかな。まあ、くたばる人間が何考えたっていいんじゃないかな。自分なりにやはり日々考えますよ。もういままでのある程度の決まったレールは、これまでやってきた方向性としてはあるかもしれないけど、それが必ずしも正論で、正統に続いていくという状況はなかなか考えませんね。やはり思考はともかくとして、体力的に非常にしんどくなりますから。たとえば大きい石と小さい石だったら、やっぱり小さいほうを持つ。大きい石はしんどいんですよ。ですから、そういう意味での違いは明快に出てくるんですね。提示するときに、現れた内容的なものはどうかわかりませんが、小さくても大きくても内容は同じと思いますけど。しかし、見かけ上、つまり、アートが人に見せる“もの”として提示される、ということになれば、それは大きい方が視覚的によく見えるし小さいものは見えにくい。
しかし、その原理として、本質的なものは、小さくても大きくても同じなんですよ、結局は。それを人間の思考性っていうのは大きければありがたく思うかもしれないけれども。
僕は、そんなことは全然構わないんですね。それから、まあ、自分がある程度、もう少し体力的にやれるという認識を持っているときには、やはり、これまでにないものを見たいと。これは人間的な欲求ですけど。そういうふうに考えています。
まあ、それとやっぱり“もの”だけじゃなくて“場”が在る。つまり、周りに“もの”が在るところが、“場”として認識されるとすれば、必要なものは“もの”と“場”、そして“空間”ですね。“場”というのは、地面に密着したような認識論で良いんですが、“もの”はその上に乗っかってると。それから“空間”というのは、“場”から上の部分、物体の上部を支える論理っていうか、そういうことがあって。“空間”と“場”をごちゃ混ぜにしないようにしたほうが、僕はいいんじゃないかなと思っています。“空間”と“場”と“もの”、この3つを論理的に組み上げていって作品を考えるということは、これからもおそらく有効なんじゃないかなと思っています。まあ、もうちょっと作品を作らせてくださいね。
*1──アラン・ジュフロワ著、峯村敏明訳「芸術の破棄」(『季刊・デザイン批評』1969年1月号 pp.12-25)
*2──当時、多摩美術大学の油絵科には斎藤義重、杉全直、大沢昌助、日本画には加山又造、横山操、評論家には瀬木慎一をはじめ、世界を飛び回り、刺激的な企画展を次々と企画していた御三家(針生一郎、東野芳明、中原佑介)、美術史家の坂崎乙郎、高階秀爾など、錚々たるメンバーが教鞭をとっていた。
*3──実際、1966年から68年にかけて斎藤義重研究室主導によるイベントや展覧会が開催。イベントフェスティバル「000プラン」(1966年10月30日、多摩美術大学芸術祭、斎藤義重、高松次郎(教官)、関根伸夫、小林はくどうほか)を皮切りに、「000プラン」展が、新宿ピットイン(1967年5月5日〜21日、関根伸夫、菅木志雄、小林はくどうほか)、椿近代画廊(1967年6月4日〜9日、関根伸夫ほか)、村松画廊(1967年10月22日〜28日、関根伸夫、菅木志雄ほか)で企画実施され、翌年、その発展系として「00Xプラン」が(1968年1月13日〜18日、関根伸夫、菅木志雄、吉田克朗、本田真吾、小林はくどうほか)開催された。
菅木志雄(すが・きしお)
1944年岩手県盛岡市生まれ。1968年多摩美術大学絵画科卒業。現在は静岡県伊東市を拠点に活動。60年代末〜70年代にかけて起きた芸術運動「もの派」の主要メンバー。近年の大規模な展覧会に、個展「Situations」(Pirelli HangarBicocca、ミラノ、2016)、個展「Kishio Suga」(Dia:Chelsea、ニューヨーク、2016)、カーラ・ブラックとの二人展「Karla Black and Kishio Suga: A New Order」(スコットランド国立近代美術館、2016)など。2017年の第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際展「VIVA ARTE VIVA」では水上でのインスタレーションとして代表作「状況律」を再制作して大きな注目を浴びた。国内の個展は「菅木志雄展」(ヴァンジ彫刻庭園美術館、静岡、2014)、「菅木志雄 置かれた潜在性」(東京都現代美術館、2015)、「菅木志雄展〈もの〉の存在と〈場〉の永遠」(岩手県立美術館、2021)など。ポンピドゥ・センター、テート・モダン、ダラス美術館、ディア美術財団、ニューヨーク近代美術館、ハーシュホーン美術館彫刻庭園、M+や、東京国立近代美術館、東京都現代美術館をはじめ、国内外の多くの美術館に作品が収蔵されている。